名将言行録 / 『名将言行録』立花宗茂 領民に慕われた開城
○加藤清正扱にて、宗茂開城し、瀨高門を出る時、庄屋百姓百四五十人路を遮り出て、如何樣のこと之あり候とも、御下城遊ばさるゝこと御無用に存奉るなり、筑後四郡の百姓共、今度の義に御座候間、一命を差上げ申こと侍中へも少しも劣り申間敷、箇樣申上ぐるに御承引なく御出之あるとも、全く出し奉る間敷由、聲を揃へ申ければ、宗茂馬より下り、何れも申聞けゝる所、滿足なり、領內の諸人の爲めに、下城致すなり、少しも替はりたることに之有間敷候間、何れも心易く存ぜよと言はれければ、百姓共聲を揚げて泣けり。宗茂左樣に皆々が申如く致しては、却て我爲め宜しからず候間、皆々歸れ〳〵と言はれければ、何れも泣々く路を開きけり。再び本領を賜はり、入部せし時、何れも呼出し、夫々に辭を掛けしとぞ。宗茂の民心を得る率ね是類なり。 ○宗茂城を出て清正と挨拶せし時、常に少しも替はらず、清正の□流石立花殿なり、如何なる強氣の大將にても、侍にても少しは氣後れするものなるに、平生よりも見事なる取廻はしなりと言て、人皆感じあへり。
新字:○加藤清正扱にて、宗茂開城し、瀨高門を出る時、庄屋百姓百四五十人路を遮り出て、如何様のこと之あり候とも、御下城遊ばさるゝこと御無用に存奉るなり、筑後四郡の百姓共、今度の義に御座候間、一命を差上げ申こと侍中へも少しも劣り申間敷、箇様申上ぐるに御承引なく御出之あるとも、全く出し奉る間敷由、声を揃へ申ければ、宗茂馬より下り、何れも申聞けゝる所、満足なり、領内の諸人の為めに、下城致すなり、少しも替はりたることに之有間敷候間、何れも心易く存ぜよと言はれければ、百姓共声を揚げて泣けり。宗茂左様に皆々が申如く致しては、却て我為め宜しからず候間、皆々帰れ〳〵と言はれければ、何れも泣々く路を開きけり。再び本領を賜はり、入部せし時、何れも呼出し、夫々に辞を掛けしとぞ。宗茂の民心を得る率ね是類なり。 ○宗茂城を出て清正と挨拶せし時、常に少しも替はらず、清正の□流石立花殿なり、如何なる強気の大将にても、侍にても少しは気後れするものなるに、平生よりも見事なる取廻はしなりと言て、人皆感じあへり。
書き下し
○加藤清正扱にて、宗茂開城し、瀨高門を出る時、庄屋百姓百四五十人路を遮り出て、如何樣のこと之あり候とも、御下城遊ばさるゝこと御無用に存奉るなり、筑後四郡の百姓共、今度の義に御座候間、一命を差上げ申こと侍中へも少しも劣り申間敷、箇樣申上ぐるに御承引なく御出之あるとも、全く出し奉る間敷由、聲を揃へ申ければ、宗茂馬より下り、何れも申聞けゝる所、滿足なり、領內の諸人の爲めに、下城致すなり、少しも替はりたることに之有間敷候間、何れも心易く存ぜよと言はれければ、百姓共聲を揚げて泣けり。宗茂左樣に皆々が申如く致しては、却て我爲め宜しからず候間、皆々歸れ〳〵と言はれければ、何れも泣々く路を開きけり。再び本領を賜はり、入部せし時、何れも呼出し、夫々に辭を掛けしとぞ。宗茂の民心を得る率ね是類なり。 ○宗茂城を出て清正と挨拶せし時、常に少しも替はらず、清正の□流石立花殿なり、如何なる強氣の大將にても、侍にても少しは氣後れするものなるに、平生よりも見事なる取廻はしなりと言て、人皆感じあへり。
現代語訳
加藤清正の仲介で宗茂が開城し、瀬高門を出るとき、庄屋、百姓百四、五十人が路を遮って出て、どのようなことがあっても、お城をお出になることは無用に存じます。筑後四郡の百姓どもは、今度のことですので、一命を差し上げることは、侍衆にも少しも劣りません。このように申し上げてもご承知なく出られるとしても、決して出し申しません、と声を揃えて申しました。宗茂は馬から下り、皆が申し聞かせたこと満足である、領内の人々のために下城するのだ、少しも変わったことはないので、皆安心せよと言うと、百姓たちは声を上げて泣きました。宗茂が、そのように皆が言うようにしては、かえって私のためにならない、皆帰れ帰れ、と言うと、皆は泣く泣く路を開きました。再び本領を賜って入部したとき、皆を呼び出して、それぞれに言葉をかけたということです。宗茂が民心を得たことは、おおむねこの類でした。 宗茂が城を出て清正と挨拶したとき、いつもと少しも変わらず、清正は、さすが立花殿である、どんな強気の大将でも、侍でも、少しは気後れするものなのに、平生よりも見事な振る舞いであると言って、人々は皆感心しました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 奢りを戒める普請論○宗茂、柳川の本領を賜はりし時、入部の賀儀として、家中の人々饗應をして曰く、昔佐野源左衞門が本領を安堵せしは、罪なくして所領失ひし故なり、我等ことは御敵と成りたる罪あり、然るを、舊領賜はること、誠に以て厚恩なり、然れども一つは、當家武勇道雪以來、世に恥ることなし、是等の事杯御賞翫ありしも知らず、然らば向後は猶更に、上下武備を忘るべからずと敎戒せられけり。 ○鍋島勝茂、宗茂が柳川入部の祝に來り、歸りし後立花壹岐、田中殿御城は勿論、侍屋敷まで結構に拵へ置かれし故、今度の御客にも、見苦敷所之なく候と申す。宗茂聞て、夫は惡きことなり、其子細は、箇樣に手廣く普請するは、皆奢りより出るものなり、居宅廣大なれば端々の者は寄り付かぬものなり、左樣に物每餘情ヶ間敷くしては上と下とは大分遠ざかり、上の事も下に直ぐに知れず、下の事は猶上に知れぬものなり、田中は筑後の一國を領したれども、大事の大坂陣には用銀之なく、人數を引違れることならず、終に滅亡に及びたり、是は皆上と下と遠くして、役にも立ぬ城普請杯に物を入れ、家を潰すのみならず、果ては腰拔にて候、上を學ぶ下にて、下に召使侍共も、入らざる居宅杯結構にせり、我は城も□畫にして、小屋掛にて置度思ふ上は、雨露さへ凌げば能し、居宅の見苦敷と、衣類の黑きと、召使者共の不首尾なる杯と言ふは、何程人に笑はれても名字に塵の付くことはなきものなり、と言はれけり。壹岐を始め、何れも感歎せり。