名将言行録 / 『名将言行録』立花宗茂 秀吉の激賞
○十四年七月、島津義久、岩屋を陷れ、使を立花に遣はし、懇に降るを勸む。宗茂、苟も義に背いて生きんよりは寧ろ死するに如かずと言ひ、城を普請して寄手を待居たり。島津方には、立花を攻むべしと言けれども、此間岩屋にて數千の軍兵打たれたり、重ねて立花へ寄せたらば、彼城要害なり、其上籠る所の兵も、岩屋より多ければ、容易く攻難しとて、立花を攻るに及ばず。寶滿は秋月種實隱居の城と定め、岩屋にも人數を籠置き、高島井の城を取り構へ、星野中務少輔吉實をぞ籠めたりける。八月、秀吉の先鋒追々渡海ありと聞えければ、義久、筑前の人數を引取りける。二十四日、島津勢陣拂して引退く所に、宗茂打出て、島津の勢を打敗る。明る二十五日、高鳥井の城に押寄せ、半時計りが内に攻破り、星野兄弟を打取りたり。秀吉、書を賜はり、其功を賞せらる。又黑田、宮木、安國寺へ賜はりし書には、立花は九州第一の者とぞ仰下さる。翌年四月、秀吉渡海あり、宗茂謁しければ、是までの軍功を一々に算へ仰せられて、手柄の上の手柄、誠に比類なき働なり、忠義の士、九州第一と言ながら、上方にも汝□の若者あるべしとも覺えずと、御感斜めならず、伺候の人々も是を承はり、羨まぬ者はなかりけり。頓て、太刀以下の品々賜はりて、薩摩への先陣を命ぜられけり。
新字:○十四年七月、島津義久、岩屋を陥れ、使を立花に遣はし、懇に降るを勧む。宗茂、苟も義に背いて生きんよりは寧ろ死するに如かずと言ひ、城を普請して寄手を待居たり。島津方には、立花を攻むべしと言けれども、此間岩屋にて数千の軍兵打たれたり、重ねて立花へ寄せたらば、彼城要害なり、其上籠る所の兵も、岩屋より多ければ、容易く攻難しとて、立花を攻るに及ばず。宝満は秋月種実隠居の城と定め、岩屋にも人数を籠置き、高島井の城を取り構へ、星野中務少輔吉実をぞ籠めたりける。八月、秀吉の先鋒追々渡海ありと聞えければ、義久、筑前の人数を引取りける。二十四日、島津勢陣払して引退く所に、宗茂打出て、島津の勢を打敗る。明る二十五日、高鳥井の城に押寄せ、半時計りが内に攻破り、星野兄弟を打取りたり。秀吉、書を賜はり、其功を賞せらる。又黒田、宮木、安国寺へ賜はりし書には、立花は九州第一の者とぞ仰下さる。翌年四月、秀吉渡海あり、宗茂謁しければ、是までの軍功を一々に算へ仰せられて、手柄の上の手柄、誠に比類なき働なり、忠義の士、九州第一と言ながら、上方にも汝□の若者あるべしとも覚えずと、御感斜めならず、伺候の人々も是を承はり、羨まぬ者はなかりけり。頓て、太刀以下の品々賜はりて、薩摩への先陣を命ぜられけり。
書き下し
○十四年七月、島津義久、岩屋を陷れ、使を立花に遣はし、懇に降るを勸む。宗茂、苟も義に背いて生きんよりは寧ろ死するに如かずと言ひ、城を普請して寄手を待居たり。島津方には、立花を攻むべしと言けれども、此間岩屋にて數千の軍兵打たれたり、重ねて立花へ寄せたらば、彼城要害なり、其上籠る所の兵も、岩屋より多ければ、容易く攻難しとて、立花を攻るに及ばず。寶滿は秋月種實隱居の城と定め、岩屋にも人數を籠置き、高島井の城を取り構へ、星野中務少輔吉實をぞ籠めたりける。八月、秀吉の先鋒追々渡海ありと聞えければ、義久、筑前の人數を引取りける。二十四日、島津勢陣拂して引退く所に、宗茂打出て、島津の勢を打敗る。明る二十五日、高鳥井の城に押寄せ、半時計りが内に攻破り、星野兄弟を打取りたり。秀吉、書を賜はり、其功を賞せらる。又黑田、宮木、安國寺へ賜はりし書には、立花は九州第一の者とぞ仰下さる。翌年四月、秀吉渡海あり、宗茂謁しければ、是までの軍功を一々に算へ仰せられて、手柄の上の手柄、誠に比類なき働なり、忠義の士、九州第一と言ながら、上方にも汝□の若者あるべしとも覺えずと、御感斜めならず、伺候の人々も是を承はり、羨まぬ者はなかりけり。頓て、太刀以下の品々賜はりて、薩摩への先陣を命ぜられけり。
現代語訳
十四年七月、島津義久が岩屋を陥れ、使いを立花に遣わして、懇ろに降参を勧めました。宗茂は、いやしくも義に背いて生きるより、むしろ死ぬほうがよいと言い、城を普請して寄せ手を待っていました。島津方では立花を攻めるべきだと言いましたが、この間岩屋で数千の軍兵が討たれた、重ねて立花に寄せたなら、あの城は要害であり、その上籠っている兵も岩屋より多いので、容易には攻めがたいと言って、立花を攻めるには及びませんでした。宝満は秋月種実の隠居の城と定め、岩屋にも人数を籠め置き、高鳥居の城を構え、星野中務少輔吉実を籠めました。八月、秀吉の先鋒が追々渡海したと聞こえたので、義久は筑前の人数を引き取りました。二十四日、島津勢が陣払いして引き退くところに、宗茂が打って出て、島津の勢を打ち破りました。翌二十五日、高鳥居の城に押し寄せ、半時ばかりのうちに攻め破り、星野兄弟を討ち取りました。秀吉は書状を賜って、その功を賞しました。また黒田、宮木、安国寺に賜った書状には、立花は九州第一の者と仰せ下されました。翌年四月、秀吉が渡海し、宗茂が謁見すると、これまでの軍功を一つ一つ数え上げて仰せられ、手柄の上の手柄、まことに比類ない働きである、忠義の士は九州第一と言いながら、上方にもお前のような若者があるとは思えない、と御感ななめならず、伺候の人々もこれを承って、羨まない者はありませんでした。やがて太刀以下の品々を賜って、薩摩への先陣を命じられました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 恩賞の誘いを断る○加藤清正、黑田孝高、薩摩の內まで出陣の所、家康より、島津事先達て味方に參るべきの由申越たる間、兩家の人數を引入候樣にと申來りし故、各歸陣なり、此時清正、宗茂に申すは薩摩表へ出陣に付貴殿にも御娛みがてら御同道致度なり、人數を召連られ候はゞ、夫々に知行等、賜はらずしても成り難ければ、玉名郡殘らず、御支配成さる樣にとの義なり、宗茂曰く頃日まで別心なき島津に、某只今の仕合に罷成りしとて、何故合戰の用意致すべく候哉、少しにても關東の忠節振を致すべしとの義に候哉、左樣の義努々存寄り之なく候、且つ玉名郡支配の義、上より賜はりなば兎も角も、貴殿より賜はりては、肥後一國にても、受納致間敷と云はれけり。 ○宗茂、京、伏見の間に浪遊して居たりしが、朝夕の料理等も、時に寄り殊の外差支へり。或時すべき樣なく、雜水を拵へ出しければ、入らざる汁掛け飯にして、出さずとも、只出させと言はれければ、近臣覺えず、涙を流せり。此頃前田利長より加賀へ越されなば、十萬石進んずべくとのことなり。宗茂、兎角の返事もせず、惡い奴共が腰は拔けながら、色々の事を申すと言はれければ、取次ぎし者、殊の外迷惑せりとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』高橋鎭種 評・菊池寛の評この人もあまり有名ではないが、その武勇と云ひ、節義と云ひ、九州武士の花であらう。寶滿山は、太宰府のすぐ後の山である。岩屋は、太宰府の少し北の小さい山である。寶滿山の有智山城は、太平記などによく出て來る少貳氏の居城である。島津氏の大軍を迎へて、ビクともせず、岩屋城を枕に壯烈な戰死を遂げた武者振は、もつと後世から賞讃されてよいのであるが、主家の大友が亡んだし、九州の出來事であるだけに、あまり著聞しなかつたのであらう。島津から云つても、高橋は仇敵ではないし、立派な武士だから、どうにかして殺したくはなかつたのであらうが、當人が堂々たる正論を說いて妥協に應じないのだから。涙を呑んで攻め落したのだらう。しかし、戸次と高橋二氏の武勇と節義は一つになつて立花宗茂に傳つたのだから、二人とも地下に瞑目してゐることだと思はれる。宗茂は、秀吉が九州第一の者と激賞した丈あり、養父道雪、實父紹運を一人で代表してゐるやうな典型的武將である。
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名将言行録・『名将言行録』高橋鎭種 島津への返書○大友義統、秀吉に謁して曰く、大友家は代々九州の探題にて候所、此八九年の間、龍造寺秋月等某に反き己が意を恣にす、其外の侍共朝には、秋月に與みし、夕には龍造寺に心を合はせ、恥を知らぬ者共計りなるに、戸次鑑連、高橋鎭種兩人は、名を惜み義を專らにし、恥ある侍なれば殿下の御家人に召置かるべくもや候、と薦めしかば、秀吉頃て朱印を賜はり、家人にぞ加へられける。 ○十四年七月六日、島津義久、大兵を以て一の瀨の城を攻破り、其勢風雨の如し。同十日筑紫廣門軍門に降れり。鎭種之を聞て、戒嚴す。筑紫が家人共鎭種に向ひ、廣門は島津へ降參致しけれども、是は一旦の策にて候べし、然らば彌七郎統增御事、今廣門御緣者にて候へば、終に主君に任ふることなれば、統增を主とし、寶滿城を持ち申べくと言ふ。此時統增敵の方に在り鎭種曰く、弱年の統增を寶滿に籠めんこと如何なれども、彼城敵に取られては當城持抱へ難しとありて、統增を奪て、寶滿に籠む。依て筑紫家の郎等悉く寶滿に楯籠れり。十三日、島津の大兵太宰府に攻寄せたることは、鎭種に對し、弓箭執るべきにあらず、筑紫廣門二心あるに依り、之を討つべき爲めにて、既に廣門を生捕り、筑紫家既に當家に屬する所に、息彌七郎を大將として寶滿に籠め、彼家人共を招き、城を持たるゝこと言はれなし、速に渡し賜はるべし、然らずば岩屋を即時に攻落すべしと言遣はす。鎭種返事に、先づ一言の仰せもなく、某が守り居る城下を馬蹄に蹴散されしこと、弓箭の禮にあらずと申べし、剩へ寶滿を相渡すべきの由、更に合點參らず、今日にありては、關白秀吉公に屬したれば、寶滿も岩屋も、關白の城なり、然るを私に渡し申こと存じも寄らず、是まで寄せられし上は、當城を攻められよ、弓箭を執て兎も角も能き樣に申談ずべし、且つ龍造寺、秋月抔は多年威を逞しく致せし者共なるが、何つしか其方の麾下につくばひ、義を忘れ恥を知らざる者なり、又筑紫事は弱々と城を落されたり、鎭種は夫等には似るべからず、義の一戰を一命限りに致すべしと返事せり。偖又立花宗茂より鎭種の方に、十時攝津守を使者として、其城の義、地の利宜しからず、寶滿は要害宜しければ、統增と一所に御籠り候へ、秀吉公よりの援兵も頃て關の戸を越したると承はり候、彼勢待受られん程は、堅固なる地に御籠城ありて、然るべしとの由申越す。