名将言行録 / 『名将言行録』立花宗茂 助命嘆願と官位の辞退
○此時、宗茂、和爾江遍原と曰ふ者を攻む。會々秀吉筑紫下向に付、宗茂より使を以て城中へ申入れけるは、今度某は太閤へ目見に出候間、其中は城攻を見合せ候に付、其方よりも手前殘し置候者に、手指致さる間敷候、彌々其意を得られ候はゞ、兩人義は太閤へ申上、助命致すべし、併し當時鍋島も寄手なれば、某不在の內、鍋島攻められ落城の程心許なく候と申遣はせり。城より返事に、委細承り候御不在中殘し置かれ候者に、手指致す間敷候、太閤へ仰上られ、我等共命を御助け之あるべきとの義、其意を得候、只今まで籠城致し、一戰をも遂げず候段殘念に存候間、降參候事は存寄らず候へ共、天下へ對しての義、各別のことに候間、如何樣にも仕るべく候、其中鍋島攻め申分にては、中々落城致す間敷由、申越せり。偖宗茂、秀吉へ謁見相濟み、兩人の事を言上して、助命を乞ふ。秀吉聽かず、宗茂頻りに乞ふ。秀吉、淺野長政をして、宗茂を諭さしむ。宗茂、兩人のこと御赦免之なく候はゞ、私どもを御成敗下され度、と强て乞ふに依り、秀吉も是非なく、兩人の罪を免されけり。 ○十六年、宗茂上京す。秀吉、羽柴の族を賜はり、四位の侍從に敍任せらるべしとありければ宗茂承はり、昇殿を許さるゝこと今生の思ひ出にて候、去ながら、大友義統未だ五位にて罷在れば、彼を超申さんこと本意にあらず、仰ぎ願くば只五位に叙せられかしと望み申ければ、神妙の志なり、暫らく五位にて置かれしが、頓て四位に叙せられけり。
新字:○此時、宗茂、和爾江遍原と曰ふ者を攻む。会々秀吉筑紫下向に付、宗茂より使を以て城中へ申入れけるは、今度某は太閤へ目見に出候間、其中は城攻を見合せ候に付、其方よりも手前残し置候者に、手指致さる間敷候、弥々其意を得られ候はゞ、両人義は太閤へ申上、助命致すべし、併し当時鍋島も寄手なれば、某不在の内、鍋島攻められ落城の程心許なく候と申遣はせり。城より返事に、委細承り候御不在中残し置かれ候者に、手指致す間敷候、太閤へ仰上られ、我等共命を御助け之あるべきとの義、其意を得候、只今まで籠城致し、一戦をも遂げず候段残念に存候間、降参候事は存寄らず候へ共、天下へ対しての義、各別のことに候間、如何様にも仕るべく候、其中鍋島攻め申分にては、中々落城致す間敷由、申越せり。偖宗茂、秀吉へ謁見相済み、両人の事を言上して、助命を乞ふ。秀吉聴かず、宗茂頻りに乞ふ。秀吉、浅野長政をして、宗茂を諭さしむ。宗茂、両人のこと御赦免之なく候はゞ、私どもを御成敗下され度、と強て乞ふに依り、秀吉も是非なく、両人の罪を免されけり。 ○十六年、宗茂上京す。秀吉、羽柴の族を賜はり、四位の侍従に叙任せらるべしとありければ宗茂承はり、昇殿を許さるゝこと今生の思ひ出にて候、去ながら、大友義統未だ五位にて罷在れば、彼を超申さんこと本意にあらず、仰ぎ願くば只五位に叙せられかしと望み申ければ、神妙の志なり、暫らく五位にて置かれしが、頓て四位に叙せられけり。
書き下し
○此時、宗茂、和爾江遍原と曰ふ者を攻む。會々秀吉筑紫下向に付、宗茂より使を以て城中へ申入れけるは、今度某は太閤へ目見に出候間、其中は城攻を見合せ候に付、其方よりも手前殘し置候者に、手指致さる間敷候、彌々其意を得られ候はゞ、兩人義は太閤へ申上、助命致すべし、併し當時鍋島も寄手なれば、某不在の內、鍋島攻められ落城の程心許なく候と申遣はせり。城より返事に、委細承り候御不在中殘し置かれ候者に、手指致す間敷候、太閤へ仰上られ、我等共命を御助け之あるべきとの義、其意を得候、只今まで籠城致し、一戰をも遂げず候段殘念に存候間、降參候事は存寄らず候へ共、天下へ對しての義、各別のことに候間、如何樣にも仕るべく候、其中鍋島攻め申分にては、中々落城致す間敷由、申越せり。偖宗茂、秀吉へ謁見相濟み、兩人の事を言上して、助命を乞ふ。秀吉聽かず、宗茂頻りに乞ふ。秀吉、淺野長政をして、宗茂を諭さしむ。宗茂、兩人のこと御赦免之なく候はゞ、私どもを御成敗下され度、と强て乞ふに依り、秀吉も是非なく、兩人の罪を免されけり。 ○十六年、宗茂上京す。秀吉、羽柴の族を賜はり、四位の侍從に敍任せらるべしとありければ宗茂承はり、昇殿を許さるゝこと今生の思ひ出にて候、去ながら、大友義統未だ五位にて罷在れば、彼を超申さんこと本意にあらず、仰ぎ願くば只五位に叙せられかしと望み申ければ、神妙の志なり、暫らく五位にて置かれしが、頓て四位に叙せられけり。
現代語訳
このとき宗茂は、和爾江遍原という者を攻めていました。たまたま秀吉が筑紫に下向したので、宗茂は使いを出して城中に申し入れました。今度私は太閤に拝謁に出ますので、その間は城攻めを見合わせます。そちらからも、手前に残し置く者に手出しをなさいますな。そのご意向でしたら、両人のことは太閤に申し上げて助命いたしましょう。ただし今は鍋島も寄せ手ですので、私が不在の間に鍋島に攻められ落城しないか心許なく存じます、と言い送りました。城から返事があり、委細承知しました。ご不在中に残し置かれる者には手出しいたしません。太閤に申し上げて、我らの命をお助けくださるとのこと、その意を得ました。今まで籠城して一戦もしなかったことは残念ですので、降参することは思いもよりませんが、天下に対してのことは別ですので、どのようにも致しましょう。その間、鍋島が攻めるにしても、なかなか落城することはないでしょう、と申してよこしました。さて宗茂は秀吉への謁見が済み、両人のことを言上して助命を乞いました。秀吉は聞き入れず、宗茂がしきりに乞うので、秀吉は浅野長政に宗茂を諭させました。宗茂が、両人の件をご赦免いただけないなら、私どもを成敗してくださいと強く乞うたので、秀吉もやむをえず、両人の罪を許されました。 十六年、宗茂が上京しました。秀吉が羽柴の姓を賜り、四位の侍従に叙任させようと言われたところ、宗茂は承って、昇殿を許されることは今生の思い出でございます。しかし、大友義統がまだ五位でおりますので、彼を超えることは本意ではありません。仰ぎ願わくは、ただ五位に叙せられますように、と望みました。秀吉は神妙な志であると言い、しばらく五位のままに置かれましたが、やがて四位に叙されました。
解説

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