名将言行録 / 『名将言行録』立花宗茂 清き心立ての誓い
秀忠にも納得せられ、申し聞けらるゝ所一々尤もに存ずる上は、早々大坂へ罷歸るべき由仰出されたり。正信、御苦勞に候へ共、只今御意の通り、加藤、福島抔は心中の計略計り難たければ、大坂にて自然のこと御聞き及び候はゞ、早々御注進之ある樣にと申す。宗茂、只今御前にて申上げし通、太閤御子孫に弓箭申ことは憚に候へ共、道理に依てのことなり、加藤、福島も拙者同前の所存たるべし、然るに、御當家に至り、忠節振りに、彼者共が口をむしり、心を引見る樣なること、弓箭八幡も照覽あれ、毛頭致間敷、彼人々千萬に一つ野心之あるに於ては、某に申聞かせぬことはよも之有間敷、其時右の道理を以て一應申談ずべく、夫にても承引致さずば、將軍家へ斯の如く申上げたることなれば、某に於ては此所存變改致間敷由申べし、福島にても、加藤にても、相手を逃さず、卽座に差違へ申べく、某差違たりと御聞きあらば、生殘りたる加藤にても、福島にても、御隔心御尤もと申し、早々大阪へ歸りたり。此事秀忠聞かれ弓箭執る程の者が、左樣淸き心立なくてはなり難しと、再三感稱せられけり。 ○元和六年十一月、秀忠、宗茂に柳川の舊封を賜りて曰く、曩者に僻遠の小邑に封じ置きしかども怨みず愠らず、能く義命に安んじ居りし段、滿足せり、之に依り今度柳川の舊封を賜ふ間能く武備を修めよとなり、宗茂、落淚して其恩を拜せり。
新字:秀忠にも納得せられ、申し聞けらるゝ所一々尤もに存ずる上は、早々大坂へ罷帰るべき由仰出されたり。正信、御苦労に候へ共、只今御意の通り、加藤、福島抔は心中の計略計り難たければ、大坂にて自然のこと御聞き及び候はゞ、早々御注進之ある様にと申す。宗茂、只今御前にて申上げし通、太閤御子孫に弓箭申ことは憚に候へ共、道理に依てのことなり、加藤、福島も拙者同前の所存たるべし、然るに、御当家に至り、忠節振りに、彼者共が口をむしり、心を引見る様なること、弓箭八幡も照覧あれ、毛頭致間敷、彼人々千万に一つ野心之あるに於ては、某に申聞かせぬことはよも之有間敷、其時右の道理を以て一応申談ずべく、夫にても承引致さずば、将軍家へ斯の如く申上げたることなれば、某に於ては此所存変改致間敷由申べし、福島にても、加藤にても、相手を逃さず、即座に差違へ申べく、某差違たりと御聞きあらば、生残りたる加藤にても、福島にても、御隔心御尤もと申し、早々大阪へ帰りたり。此事秀忠聞かれ弓箭執る程の者が、左様清き心立なくてはなり難しと、再三感称せられけり。 ○元和六年十一月、秀忠、宗茂に柳川の旧封を賜りて曰く、曩者に僻遠の小邑に封じ置きしかども怨みず愠らず、能く義命に安んじ居りし段、満足せり、之に依り今度柳川の旧封を賜ふ間能く武備を修めよとなり、宗茂、落涙して其恩を拝せり。
書き下し
秀忠にも納得せられ、申し聞けらるゝ所一々尤もに存ずる上は、早々大坂へ罷歸るべき由仰出されたり。正信、御苦勞に候へ共、只今御意の通り、加藤、福島抔は心中の計略計り難たければ、大坂にて自然のこと御聞き及び候はゞ、早々御注進之ある樣にと申す。宗茂、只今御前にて申上げし通、太閤御子孫に弓箭申ことは憚に候へ共、道理に依てのことなり、加藤、福島も拙者同前の所存たるべし、然るに、御當家に至り、忠節振りに、彼者共が口をむしり、心を引見る樣なること、弓箭八幡も照覽あれ、毛頭致間敷、彼人々千萬に一つ野心之あるに於ては、某に申聞かせぬことはよも之有間敷、其時右の道理を以て一應申談ずべく、夫にても承引致さずば、將軍家へ斯の如く申上げたることなれば、某に於ては此所存變改致間敷由申べし、福島にても、加藤にても、相手を逃さず、卽座に差違へ申べく、某差違たりと御聞きあらば、生殘りたる加藤にても、福島にても、御隔心御尤もと申し、早々大阪へ歸りたり。此事秀忠聞かれ弓箭執る程の者が、左樣淸き心立なくてはなり難しと、再三感稱せられけり。 ○元和六年十一月、秀忠、宗茂に柳川の舊封を賜りて曰く、曩者に僻遠の小邑に封じ置きしかども怨みず愠らず、能く義命に安んじ居りし段、滿足せり、之に依り今度柳川の舊封を賜ふ間能く武備を修めよとなり、宗茂、落淚して其恩を拜せり。
現代語訳
秀忠も納得され、申し聞かせるところは一々もっともと思う上は、早々に大坂へ帰るようにとの仰せが出された。正信が、ご苦労ではあるが、ただ今のお言葉のとおり、加藤、福島などは心中の計略が測りがたいので、大坂で万一のことをお聞き及びになったら、早々に急報があるようにと言った。宗茂は、ただ今御前で申し上げたとおり、太閤のご子孫に弓を向けることは憚りがありますが、道理によってのことです、加藤、福島も私と同じ所存でしょう、それなのに、当家に対する忠節ぶりについて、あの者たちの口をむしり心を探るようなことは、弓矢八幡も御覧あれ、毛頭いたしますまい、あの人々に千万に一つでも野心があるなら、私に知らせぬことはまずないでしょう、そのときは右の道理をもって一度話し合い、それでも承知しなければ、将軍家へこのように申し上げた以上、私はこの所存を変えないと言い、福島であれ加藤であれ、相手を逃がさず、その場で刺し違えるつもりです、私が刺し違えたとお聞きになれば、生き残った加藤でも福島でも、ご不信をお持ちになるのはもっともです、と申して、早々に大坂へ帰った。このことを秀忠が聞かれ、弓取る者ほどの者が、そのような清い心持ちがなくてはならないと、再三感心して称えられた。 元和六年十一月、秀忠は宗茂に柳川の旧領を与えて言った。先に僻遠の小さな邑に封じ置いたけれども、恨まず怒らず、よく義と天命に安んじていたこと、満足に思う、これにより今度柳川の旧領を与えるので、よく武備を整えよとのことであった。宗茂は涙を流してその恩を拝した。
解説

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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 領民に慕われた開城○加藤清正扱にて、宗茂開城し、瀨高門を出る時、庄屋百姓百四五十人路を遮り出て、如何樣のこと之あり候とも、御下城遊ばさるゝこと御無用に存奉るなり、筑後四郡の百姓共、今度の義に御座候間、一命を差上げ申こと侍中へも少しも劣り申間敷、箇樣申上ぐるに御承引なく御出之あるとも、全く出し奉る間敷由、聲を揃へ申ければ、宗茂馬より下り、何れも申聞けゝる所、滿足なり、領內の諸人の爲めに、下城致すなり、少しも替はりたることに之有間敷候間、何れも心易く存ぜよと言はれければ、百姓共聲を揚げて泣けり。宗茂左樣に皆々が申如く致しては、却て我爲め宜しからず候間、皆々歸れ〳〵と言はれければ、何れも泣々く路を開きけり。再び本領を賜はり、入部せし時、何れも呼出し、夫々に辭を掛けしとぞ。宗茂の民心を得る率ね是類なり。 ○宗茂城を出て清正と挨拶せし時、常に少しも替はらず、清正の□流石立花殿なり、如何なる強氣の大將にても、侍にても少しは氣後れするものなるに、平生よりも見事なる取廻はしなりと言て、人皆感じあへり。
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