名将言行録 / 『名将言行録』立花宗茂 大津城攻めと橋の保全
○大津の役、宗茂城攻の體、他に異なり、玉績きの矢よりも迅からんことを欲し、玉藥の筒餘多繩に貫き、輕卒等、具足の上に是を割り、足に掛させ、自餘の寄手の輕兵等が一放の間に、三發程發しければ、敵味方とも目を驚かせり。又仕寄を付くる、其術も諸將に替はりける、先づ宗茂が攻口より城に向て、其幅一間半計り、深さ六尺餘り、千鳥掛に壕を穿て其土を壕の向へ揚げ、高さ一間計りに、土居を築て、軍卒並に人夫、壕中を往來し、思ひの儘に竹束を付ければ城兵弓銃を放つと雖も、立花勢壕の底土居の陰を往來し、敢て中らず、却て稠く鳥銃を發しける故、遂に矢狹間を閉ぢしとぞ。 ○宗茂、關ヶ原の敗を聞き、軍を旋し、大阪に至る時、瀨田の橋に燒草を積み、日下與右衞門大阪よりの下知の由申て燒落さんとす。宗茂之を見て、古より關東勢の上京に、橋を落し利に成りたることなし、燒くことは固く無用なり、伏見に逗留の間は、橋を燒かずとも、形の如く防戰すべく間、燒くことは無用なりと言て、伏見に三日逗留して、歸國せり。後家康聞かれ、聞き及びたるより優しき心入と、感ぜられしとぞ。
新字:○大津の役、宗茂城攻の体、他に異なり、玉績きの矢よりも迅からんことを欲し、玉薬の筒余多縄に貫き、軽卒等、具足の上に是を割り、足に掛させ、自余の寄手の軽兵等が一放の間に、三発程発しければ、敵味方とも目を驚かせり。又仕寄を付くる、其術も諸将に替はりける、先づ宗茂が攻口より城に向て、其幅一間半計り、深さ六尺余り、千鳥掛に壕を穿て其土を壕の向へ揚げ、高さ一間計りに、土居を築て、軍卒並に人夫、壕中を往来し、思ひの儘に竹束を付ければ城兵弓銃を放つと雖も、立花勢壕の底土居の陰を往来し、敢て中らず、却て稠く鳥銃を発しける故、遂に矢狭間を閉ぢしとぞ。 ○宗茂、関ヶ原の敗を聞き、軍を旋し、大阪に至る時、瀨田の橋に焼草を積み、日下与右衛門大阪よりの下知の由申て焼落さんとす。宗茂之を見て、古より関東勢の上京に、橋を落し利に成りたることなし、焼くことは固く無用なり、伏見に逗留の間は、橋を焼かずとも、形の如く防戦すべく間、焼くことは無用なりと言て、伏見に三日逗留して、帰国せり。後家康聞かれ、聞き及びたるより優しき心入と、感ぜられしとぞ。
書き下し
○大津の役、宗茂城攻の體、他に異なり、玉績きの矢よりも迅からんことを欲し、玉藥の筒餘多繩に貫き、輕卒等、具足の上に是を割り、足に掛させ、自餘の寄手の輕兵等が一放の間に、三發程發しければ、敵味方とも目を驚かせり。又仕寄を付くる、其術も諸將に替はりける、先づ宗茂が攻口より城に向て、其幅一間半計り、深さ六尺餘り、千鳥掛に壕を穿て其土を壕の向へ揚げ、高さ一間計りに、土居を築て、軍卒並に人夫、壕中を往來し、思ひの儘に竹束を付ければ城兵弓銃を放つと雖も、立花勢壕の底土居の陰を往來し、敢て中らず、却て稠く鳥銃を發しける故、遂に矢狹間を閉ぢしとぞ。 ○宗茂、關ヶ原の敗を聞き、軍を旋し、大阪に至る時、瀨田の橋に燒草を積み、日下與右衞門大阪よりの下知の由申て燒落さんとす。宗茂之を見て、古より關東勢の上京に、橋を落し利に成りたることなし、燒くことは固く無用なり、伏見に逗留の間は、橋を燒かずとも、形の如く防戰すべく間、燒くことは無用なりと言て、伏見に三日逗留して、歸國せり。後家康聞かれ、聞き及びたるより優しき心入と、感ぜられしとぞ。
現代語訳
大津の役で、宗茂の城攻めのやり方は他の将と異なっていました。玉込めの速さを矢よりも速くしようとして、玉薬の筒をたくさん縄に通し、軽卒らが具足の上からこれを掛け、足に掛けさせて、ほかの寄せ手の軽兵が一発する間に、三発ほども撃ったので、敵も味方も目を驚かせました。また仕寄りの付け方も、他の諸将と異なっていました。まず宗茂の攻め口から城に向かって、幅は一間半ばかり、深さは六尺余りの壕を千鳥掛けに掘り、その土を壕の向こうへ上げ、高さ一間ばかりの土居を築いて、軍卒や人夫が壕の中を往来し、思いのままに竹束を付けたので、城兵が弓や鉄砲を撃っても当たらず、立花勢は壕の底や土居の陰を往来して、かえって密に鳥銃を撃ったので、ついに矢狭間を閉ざしたということです。 宗茂が関ヶ原の敗北を聞いて軍を返し、大坂に至ったとき、瀬田の橋に焼き草を積み、日下与右衛門が大坂からの命令だと言って焼き落とそうとしました。宗茂はこれを見て、昔から関東勢の上京に際して橋を落とし、利になったことはない、焼くことは固く無用である、伏見に逗留する間は、橋を焼かなくても、形どおりに防戦するから、焼くことは無用だ、と言って、伏見に三日逗留して帰国しました。後に家康が聞かれ、聞き及んでいたより優しい心入れだと感心されたということです。
解説

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