名将言行録 / 『名将言行録』立花宗茂 軍法書に勝る日頃の情
○立花が臣蒲池宗碩が軍法の學び傳へし者ありしが、後其書亡びて傳はらず。一日忠茂、宗茂に向ひ、右の書物は如何樣の事を記し申たるものに候やと尋ぬ。宗茂格別なること之なし、敵に向ひ、勢の多少に依らず、兵を交ふる時、一定利を得るの理を記したるものなり、是は大將たる者の心持にあることとなり、我家人なればとて、敵に向ひたる時、如何に采幣を取て、只進め、死ねと言たればとて、左樣に下知に從ふものにては之なし、常と上から、下を子の如く愛憐を加へ、下から亦、上を親の樣に思ふ如く、人を使へば、下知をせずとも、上の善き樣にならではせぬものなり、と言はれけり。 ○德川義直、嘗て宗茂に合戰の要務を問ふ。宗茂、方々の軍功とても、何流の軍法を用ふると言ふ義もなし、何れも善しと言ふ所を取用ひ、尤も謀ほ其節に至りて、敵の勢次第なり、世間の一萬の兵と、我の三千、五千の兵と異ならず、是も軍の備方宜しきと言ふのみにあらず、常に兵士を依怙最屓なく、痛く勤勞せしむることなく、慈悲を加へ、少々の過失は其通りに致し國法に外れたる者は、其法に行ふのみなり、某小身なれば、俸祿とても、高に應じ、少しづゝ與へしなれども、常に慈悲を專に致し、愛憐する故、戰に臨み、皆一命を捨て力戰し、皆某が功に成れり、其外に能きことはなきと答へり。義直殊に感稱せり。侍臣此話を聞き、能き所を説かれたりと、大に喜ぶ。此後、義直臣下に愛憐を垂れしかば、一藩喜びて、宗茂公は希代の名將なりと稱せり。
新字:○立花が臣蒲池宗碩が軍法の学び伝へし者ありしが、後其書亡びて伝はらず。一日忠茂、宗茂に向ひ、右の書物は如何様の事を記し申たるものに候やと尋ぬ。宗茂格別なること之なし、敵に向ひ、勢の多少に依らず、兵を交ふる時、一定利を得るの理を記したるものなり、是は大将たる者の心持にあることとなり、我家人なればとて、敵に向ひたる時、如何に采幣を取て、只進め、死ねと言たればとて、左様に下知に従ふものにては之なし、常と上から、下を子の如く愛憐を加へ、下から亦、上を親の様に思ふ如く、人を使へば、下知をせずとも、上の善き様にならではせぬものなり、と言はれけり。 ○徳川義直、嘗て宗茂に合戦の要務を問ふ。宗茂、方々の軍功とても、何流の軍法を用ふると言ふ義もなし、何れも善しと言ふ所を取用ひ、尤も謀ほ其節に至りて、敵の勢次第なり、世間の一万の兵と、我の三千、五千の兵と異ならず、是も軍の備方宜しきと言ふのみにあらず、常に兵士を依怙最屓なく、痛く勤労せしむることなく、慈悲を加へ、少々の過失は其通りに致し国法に外れたる者は、其法に行ふのみなり、某小身なれば、俸禄とても、高に応じ、少しづゝ与へしなれども、常に慈悲を専に致し、愛憐する故、戦に臨み、皆一命を捨て力戦し、皆某が功に成れり、其外に能きことはなきと答へり。義直殊に感称せり。侍臣此話を聞き、能き所を説かれたりと、大に喜ぶ。此後、義直臣下に愛憐を垂れしかば、一藩喜びて、宗茂公は希代の名将なりと称せり。
書き下し
○立花が臣蒲池宗碩が軍法の學び傳へし者ありしが、後其書亡びて傳はらず。一日忠茂、宗茂に向ひ、右の書物は如何樣の事を記し申たるものに候やと尋ぬ。宗茂格別なること之なし、敵に向ひ、勢の多少に依らず、兵を交ふる時、一定利を得るの理を記したるものなり、是は大將たる者の心持にあることとなり、我家人なればとて、敵に向ひたる時、如何に采幣を取て、只進め、死ねと言たればとて、左樣に下知に從ふものにては之なし、常と上から、下を子の如く愛憐を加へ、下から亦、上を親の樣に思ふ如く、人を使へば、下知をせずとも、上の善き樣にならではせぬものなり、と言はれけり。 ○德川義直、嘗て宗茂に合戰の要務を問ふ。宗茂、方々の軍功とても、何流の軍法を用ふると言ふ義もなし、何れも善しと言ふ所を取用ひ、尤も謀ほ其節に至りて、敵の勢次第なり、世間の一萬の兵と、我の三千、五千の兵と異ならず、是も軍の備方宜しきと言ふのみにあらず、常に兵士を依怙最屓なく、痛く勤勞せしむることなく、慈悲を加へ、少々の過失は其通りに致し國法に外れたる者は、其法に行ふのみなり、某小身なれば、俸祿とても、高に應じ、少しづゝ與へしなれども、常に慈悲を專に致し、愛憐する故、戰に臨み、皆一命を捨て力戰し、皆某が功に成れり、其外に能きことはなきと答へり。義直殊に感稱せり。侍臣此話を聞き、能き所を説かれたりと、大に喜ぶ。此後、義直臣下に愛憐を垂れしかば、一藩喜びて、宗茂公は希代の名將なりと稱せり。
現代語訳
立花の家臣の蒲池宗碩が軍法を学び伝えた者がいたが、後にその書は失われて伝わらなかった。ある日、忠茂が宗茂に向かい、その書物はどのようなことを記したものでしたか、と尋ねた。宗茂は、格別なことはない、敵に向かい、勢の多少によらず、兵を交えるときに、必ず利を得る理を記したものである、これは大将たる者の心持ちにあることだと言った。我が家人だからといって、敵に向かったとき、どれほど采配を取って、ただ進め、死ねと言ったところで、そのように下知に従うものではない、常に上から下を子のように愛し憐れみ、下からもまた上を親のように思うように人を使えば、下知をしなくても、上のためによいようにしないではおかないものだ、と言われた。 徳川義直がかつて宗茂に合戦の要務を問うた。宗茂は、方々の軍功といっても、何流の軍法を用いるということもない、どれもよいというところを取り入れ、とりわけ謀は、その時に至って敵の勢次第である、世間の一万の兵と、我が三千、五千の兵とは変わらない、これも軍の備え方がよいというだけではなく、常に兵士をえこひいきなく、ひどく勤労させることなく、慈悲を加え、少々の過失はそのままにして、国法に外れた者はその法に行うだけである、私は小身なので、俸禄とても高に応じて少しずつ与えたが、常に慈悲を専らにして愛し憐れんだゆえ、戦に臨んで皆が一命を捨てて力戦し、皆私の功となった、その外によいことはない、と答えた。義直はことに感心して称えた。侍臣がこの話を聞き、よいところを説かれたと大いに喜んだ。この後、義直が臣下に憐れみをかけたので、一藩は喜んで、宗茂公は希代の名将であると称した。
解説

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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 一和の兵と名を求めぬ心○宗茂曰く、戰は兵の多少に依らず、一和の兵に之なくては、何程大人數たりとも、勝利なきものなり、道雪以來、我等に於ても、小人數にて度々大利を得たり。是は兵の和故なり、其一和の元は平日懇にするに在り、一言の義にても、身を捨るものなれば、大將たる者心得べきこととなりと。 ○小瀨甫菴、太閤記を編輯する時、宗茂の記録を求む。宗茂笑て、我の爲す所天下の公論に在り、豈に名を求むるが爲めにして、其功を錄せんやと言て、之に與へず。 ○宗茂、人となり溫純寛厚、徳ありて驕らず、功ありて驕らず、人を用ふる、己に由る、善に從ふ、流るゝが如し。侫人を遠け、奢侈を禁じ、民を撫するに恩を以てし、士を勵すに義を以てす。故に士皆之が用たるを樂めり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻れば必ず取り、戰へば必ず克てり。
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名将言行録・『名将言行録』加藤嘉明 宗茂を見抜き、家康の評を聞く○大阪夏役、嘉明陣場より、立花宗茂陣は近く一と見渡しに見ゆ、嘉明、立花は痛は敷ことなり、戰死と思ひ究め馬を立直し候と言はれけり。側に在りし者、不思議に思ひ居たりしが、間もなく、宗茂陣場に並びたる左右の陣々、悉く崩れ、宗茂人數も崩れ立ちしが、譜第の士二十五人一足も引かず、本より宗茂は馬を立たる所より、諸勢崩るゝを見て、成る程靜に馬を十二三間先へ進められたり。諸家の人數崩るべき樣子を早く見て、馬を立直しけるを、嘉明は其儘知りたり。外に知りし者一人もなし。此時敵出合はゞ、宗茂討死と思究めけれども、敵出ざれば別義なかりしとぞ。 ○家康病重もりし時、秀忠へ、大小名の人となりを評論せられしが、分けて、嘉明は本國三河の者にて、秀吉在世の時より、其志を通ぜり。秀吉の取立と言ふとも、疎略にすべからず、律義者なれば、隨分憐みを掛らるべし、然し、少しのことも心に掛けて不足に思ふ質なれば、其所は能く心得あるべき由を言はれける。秀忠、嘉明は小氣者と承はり及び候へば、異心はあるべからずと存ずる旨、挨拶せられければ、否々其心得は惡しきなり、譬は踊を躍るに稚子にても、今樣の音頭を揚ぐる者上手なれば、老人までも浮立ち躍るものなり、亂世は大勇の者を以て大將とす、其者嫌がるとも脇より取立るものなり、嘉明は小氣なりとて油斷すべからずと言はれけり。
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『艮斎閑話抄録』・兵を用いる本は人和にあり立花宗茂孟子に天時不如地利、地利不如人和、とあり、唐の員半千の傳に、これを天陣地陣人陣の三陣と云、天時は註に時日支干孤虛王相の屬とあり、或は朝掛又は夜討、或は風雨昏霧に乘じ戰ふの類皆天時なり、兵法に右は山陵に倍き、前は水澤を左にし、或は要害に據、或は半渡を擊の類は皆地の利なり、天時地利の事は戰國の世に大將たちよく通曉すれども、兵を用ふるの本は人和にあると、深く心を用ひざるゆへに、孟子說れしに見へたり、誠に韜略の骨髓たるべし、立花立齋は智勇の名將にて、幼年より武勇を顯はし、朝鮮にても明の李如松の大軍を破りし武功の將なり、嘗尾州侯に至りし時、侯之を留めて其武功を賞し合戰の要務を問はれしに、方々の軍功とても何流の軍法を用ふると云儀もなし、何れも害と云所を取用、尤謀は其節に至りて敵の勢次第なり、世の一萬の兵と我の三千五千の兵と異ならず、是も軍の備方宜と云のみに非ず、常に兵士を依怙最負なく、痛く勤勞せしむるとなく、慈悲を加へ、少々の過失は其通りにいたし、國法にはづれたる者は其法に行なふのみなり、 我小國なれば俸祿とても高に應じ少々づゝ與へしなれども、常に慈悲を專にいたし愛憐するゆへ、戰に臨み皆一命を捨て力戰し吾功に成り、此外に能事は無と答へり、侯は殊に感賞し玉へり、侍臣此話を聞よき所を說れたりと大に喜ぶ、
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 幼い日の言葉と勘○宗茂十歲の時、鎭種家中の者に、重科の者ありしを、萩尾某に命じて討せけるに、萩尾、彼者に行逢て、後より只一太刀に切留ける、是を傍輩共聞て、後より切ることは易きことなれば左して手柄と言ひ難し抔囁きけるを、宗茂聞き、行逢たることなれば、前後は論ぜず、逃さず易く打留たるこそ手柄なれ、敵を打つに易き所を差置き、打惡きことをして、仕損ぜんや、汝等如き者は我成長の後、軍利の障はりと成るべしと言はれければ、人皆慚服せり。 ○宗茂十一歲の時、立花に往く。鑑連饗應し、其上壯者を召して、弓を射させて覗せしめ、戲に調て曰く、子、猶幼なり、恐くは能はずと。宗茂、卽ち側なる弓を挽きて弱はしと言ひ、鑑連床上に在る勁弓を請て射るに、四發三中せり。 ○宗茂十二歲の時、鷹を手に据ゑ、同じ年頃の童子を召連れて野外に出て遊びしに、猛犬急に吠掛りけるに、宗茂少しも怖れず、刀を抜き飛び違て棟打にしたゝかに打ちければ、犬は怖れて逃げ去りぬ。鎭種聞て、汝刀を抜て防ぐ程ならば何ぞ其犬を切留めざると言ければ、宗茂打笑ひ、太刀にては敵を切るとこそ承はり候びねと申ければ、鎭種、涙を流し、我子ながらも器量雄才拔群なり、汝成長の後、才に誇ること勿れとぞ敎へられける。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 評・純粋な武将の人気○秀吉は、本多忠勝と比べてゐるが、本多忠勝などよりも、遙に秀ぐれた武將である。戰國武將の中で、武勇と云ひ性格と云ひ、その行動と云ひ、最も純粹な武將ではないかと思ふ。その言行錄を讀むと、何人も好感を持つことと思ふ。碧蹄館で、明の大軍を馳けちらしてゐるのだから、その武勇は日本無雙と云つてよく、關ヶ原役の行動も立派である。宗茂は、太閤の知遇を得た人だから、石田方に應ずるのは當然であるし、戰敗れた後の行動もなか〱立派である。だから、封を失つた後は、諸侯達の同情の的であつたらしい。人間が正直で、律義で節義が正しく、武勇絶倫なのだから、誰からも敬愛されてゐたらしい。幕府でも、舊領を返し與へたのは、宗茂の人格と聲望の力であらう。政治的野心のない武將は、氣持のいゝものである。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 豪傑の資質と初陣○宗茂十三歲の時、鎭種出陣することありしに、いざや、汝も出陣せよかしと戲れを言ければ、宗茂畏りて仰なくとも御供仕度候へ共、未だ強健ならず、斯くて敵に逢なば言甲斐なき死を仕るべし、今一兩年も過ぎなば、一方を承はりて罷向んとぞ申ける。聞く人其思慮の深きに感ぜり。 ○宗茂幼年にて、鑑連の許に行て遊び居たる時、鑑連、家臣に命じ、科人を我前にて討たせたり。不意のことなれば宗茂如何思ひけるやと、鑑連、宗茂が胸に手を入れて見るに、聊かも動悸せず。是より鑑連、宗茂が豪傑の資あるを察し、終に鎭種に乞て、養子と爲せり。 ○天正十二年、宗茂、父と共に軍に出て、秋月の勇士堀江備前を打取れり。其號令を傳宣し、士卒を指揮する體、才勇絕倫、旣に良將の風ありと言へり。時に年十六。 ○十三年、鑑連、鎭種黑木城を攻む。秋月種實其虞を窺ひ、兵八千に將として來り、立花を侵す。宗茂吾若年にして未だ軍事に練れざると侮り必ず油斷して居らん、一と夜討して之を追拂はんと言ふ。鷹野三河、之を諫む。宗茂聽かず五百餘人を率ひ、種實を襲ひ擊て之を走らせり。