名将言行録 / 『名将言行録』立花宗茂 朝鮮出兵で進軍を説く
○文祿元年四月、宇喜多秀家、在韓の諸將を其營に會し、軍事を議せり。諸將皆直ちに京城に向はんとす。秀家曰く、太閤に伺て後發せんや、將た伺はずして發せんかと。福島政則、加藤清正、議論合はず、小早川隆景、宗茂に問ふ、宗茂辭するに所なくして曰く、某嘗て聞く、將在レ軍君命有レ所レ不レ受と云ふ。今兵を海外に出し、事每に伺て後、事を取計らはれなば、恐くは事機を失はん、王城の警備未だ周からず、國中の召募未だ集らざるに乘じ長驅して遠に王城を取るに如かずと。隆景曰く、警備周からずと、召募集らざると何を以て之を知るゝやと。宗茂曰く、若し根本をして堅固ならしめば、釜山、東萊斯の如く崩潰すべからず、釜山、東萊備なきを以て、王城も亦備なきを知る、且つ某頃日王城の道程を生口に問ふに、嶮峻要害の地數所ありと言ふ、若し我濡滯せば、彼必ず、要害を分守し、或は明の援兵を請はん、斯の如んは我兵勢屈して進み難からん、果斷して速に進むに如かずと。諸將宗茂の言に服し、遂に兵を發せり。
新字:○文禄元年四月、宇喜多秀家、在韓の諸将を其営に会し、軍事を議せり。諸将皆直ちに京城に向はんとす。秀家曰く、太閤に伺て後発せんや、将た伺はずして発せんかと。福島政則、加藤清正、議論合はず、小早川隆景、宗茂に問ふ、宗茂辞するに所なくして曰く、某嘗て聞く、将在レ軍君命有レ所レ不レ受と云ふ。今兵を海外に出し、事毎に伺て後、事を取計らはれなば、恐くは事機を失はん、王城の警備未だ周からず、国中の召募未だ集らざるに乗じ長駆して遠に王城を取るに如かずと。隆景曰く、警備周からずと、召募集らざると何を以て之を知るゝやと。宗茂曰く、若し根本をして堅固ならしめば、釜山、東萊斯の如く崩潰すべからず、釜山、東萊備なきを以て、王城も亦備なきを知る、且つ某頃日王城の道程を生口に問ふに、嶮峻要害の地数所ありと言ふ、若し我濡滞せば、彼必ず、要害を分守し、或は明の援兵を請はん、斯の如んは我兵勢屈して進み難からん、果断して速に進むに如かずと。諸将宗茂の言に服し、遂に兵を発せり。
書き下し
○文祿元年四月、宇喜多秀家、在韓の諸將を其營に會し、軍事を議せり。諸將皆直ちに京城に向はんとす。秀家曰く、太閤に伺て後發せんや、將た伺はずして發せんかと。福島政則、加藤清正、議論合はず、小早川隆景、宗茂に問ふ、宗茂辭するに所なくして曰く、某嘗て聞く、將在レ軍君命有レ所レ不レ受と云ふ。今兵を海外に出し、事每に伺て後、事を取計らはれなば、恐くは事機を失はん、王城の警備未だ周からず、國中の召募未だ集らざるに乘じ長驅して遠に王城を取るに如かずと。隆景曰く、警備周からずと、召募集らざると何を以て之を知るゝやと。宗茂曰く、若し根本をして堅固ならしめば、釜山、東萊斯の如く崩潰すべからず、釜山、東萊備なきを以て、王城も亦備なきを知る、且つ某頃日王城の道程を生口に問ふに、嶮峻要害の地數所ありと言ふ、若し我濡滯せば、彼必ず、要害を分守し、或は明の援兵を請はん、斯の如んは我兵勢屈して進み難からん、果斷して速に進むに如かずと。諸將宗茂の言に服し、遂に兵を發せり。
現代語訳
文禄元年四月、宇喜多秀家が、在韓の諸将をその陣営に集め、軍事を議しました。諸将は皆、まっすぐ京城に向かおうとしました。秀家が、太閤に伺ってから出発するか、伺わずに出発するか、と問いました。福島正則と加藤清正は議論が合わず、小早川隆景が宗茂に尋ねました。宗茂は辞退できず、言いました。私はかつて、将が軍にあるときは君命も受けざる所あり、と聞いております。今、兵を海外に出して、事ごとに伺ってから処置するなら、おそらく機会を失うでしょう。王城の警備がまだ十分でなく、国中の召募がまだ集まらないうちに乗じて、長駆して遠く王城を取るのにしくはありません。隆景は、警備が十分でない、召募が集まらないというのを、何によって知るのか、と尋ねました。宗茂は言いました。もし根本が堅固であったなら、釜山、東萊はこのように崩れるはずがありません。釜山、東萊に備えがないので、王城にもまた備えがないと分かります。かつ私は先頃、王城への道のりを現地の者に問うたところ、険しい要害の地が数か所あると申します。もし我らがもたもたすれば、彼らは必ず要害を分けて守り、あるいは明の援兵を請うでしょう。そうなれば我が兵の勢いは屈して、進みがたくなるでしょう。果断に速やかに進むのにしくはありません。諸将は宗茂の言葉に服し、ついに兵を発しました。
解説

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『春秋左氏伝』昭公二十一年 先んずれば人の心を奪う冬、十月、華登吳の師を以って華氏を救ふ。齊の烏枝鳴宋を戍る。廚人濮曰く、「軍志に之れ有り、『人に先んずれば人の心を奪ふ有り、人に後るれば其の衰へを待つ有り』と。盍ぞ其の勞して且つ未だ定まらざるに及びて、諸を伐たざる。若し入りて固くせば、則ち華氏衆からん。悔ゆとも及ぶ無からん」と。之に從ふ。丙寅、齊の師・宋の師、吳の師を鴻口に敗り、其の二帥、公子苦雂・偃州員を獲たり。華登、其の餘を帥ゐて以って宋の師を敗る。公出でんと欲す。廚人濮曰く、「吾は小人なり、死を藉(か)す可くして亡を送る能はず。君請ふ之を待て」と。乃ち徇へて曰く、「徽を楊ぐる者は、公の徒なり」と。衆之に從ふ。公楊門より之を見、下りて之を巡りて曰く、「國亡び君死するは、二三子の恥なり。豈に專ら孤の罪ならんや」と。齊の烏枝鳴曰く、「少を用ゐるは齊しく死を致すに如くは莫く、齊しく死を致すは備へを去るに如くは莫し。彼は兵多し。
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『春秋左氏伝』宣公十二年 人に先んずる趙嬰齊其の徒をして先づ舟を河に具へしむ、故に敗れて先づ濟る。潘黨既に魏錡を逐ふ。趙旃夜楚の軍に至り、軍門の外に席して、其の徒をして之に入らしむ。楚子乘廣三十乘を為り、分ちて左右と為す。右廣は、雞鳴にして駕し、日中にして說く。左則ち之を受け、日入にして說く。許偃右廣に御し、養由基右と為る。彭名左廣に御し、屈蕩右と為る。乙卯、王左廣に乘りて、以て趙旃を逐ふ。趙旃車を棄てて林に走る、屈蕩之に搏ちて、其の甲裳を得たり。晉人二子の楚の師を怒らせんことを懼るるや、軘車をして之を逆へしむ。潘黨其の塵を望み、騁せて告げしめて曰く、「晉の師至れり」と。楚人も亦た王の晉の軍に入らんことを懼るるや、遂に出でて陳す。孫叔曰く、「之を進めよ。寧ろ我人に薄るとも、人の我に薄ること無かれ。詩に云ふ、『元戎十乘、以て先づ行を啟く』と、人に先んずるなり。軍志に曰く、『人に先んずれば人の心を奪ふこと有り』と、之に薄るなり」と。遂に疾く師を進め、車馳せ卒奔りて、晉の軍に乘ず。桓子為す所を知らず、軍中に鼓して、曰く、「先づ濟る者には賞有り」と。
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孫子・虚実篇孫子曰く、凡そ先に戦地に処して敵を待つ者は佚く、後に戦地に処して戦いに趨く者は労す。
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尉繚子・戰權兵法に曰く、「千人にして権を成し、万人にして武を成す。権先づ人に加ふる者は、敵力交へず。武先づ人に加ふる者は、敵威接せず」と。故に兵は先を貴ぶ。此に勝てば、則ち彼に勝つ。此に勝たざれば、則ち彼に勝たず。凡そ我往けば則ち彼来たり、彼来たれば則ち我往き、相勝敗を為す、此れ戦の理の然るなり。夫れ精誠は神明に在り、戦権は道の極まる所に在り。有る者は之を無くし、無き者は之を有らしむ、安んぞ之を信ずる所あらん。先王の伝聞する所の者は、正に任じ詐を去り、其の慈順を存し、決して留刑無し。故に道を知る者は、必ず先づ止まるを知らざるの敗を図る、悪んぞ必ず往きて功有るに在らんや。軽く進みて戦を求むれば、敵復た止まるを図り、我往きて敵勝を制す。故に兵法に曰く、「求めて之に従ひ、見て之に加へ、主人敢へて当たらざるに之を陵げば、必ず其の権を喪ふ」と。凡そ奪はるる者は気無く、恐るる者は守るべからず、敗るる者は人無し、兵に道無ければなり。意往きて疑はざれば、則ち之に従ふ。敵を奪ひて前無ければ、則ち之に加ふ。明らかに視て高く居れば、則ち之を威す。兵の道極まれり。其の言謹み無ければ、偸みて失はしむ。其の陵犯節無ければ、破る。水のごとく潰し雷のごとく撃てば、三軍乱る。必ず其の危ふきを安んじ、其の患を去り、智を以て之を決す。之を高くするに廊廟の論を以てし、之を重くするに受命の論を以てし、之を鋭くするに踰垠の論を以てすれば、則ち敵国戦はずして服すべし。