名将言行録 / 『名将言行録』立花宗茂 少年の胆力
高橋鎭種の子、戸次鑑連の嗣と爲り、族を立花と改む。從四位下に叙し、兼飛驒守に任ず、後髮を削り、立齋と號す。初め統虎、後今の名に改む。慶長五年、封を失ひ、後又本領十一萬九千六百石に封ぜられ、柳川城に住す、寬永十九年十一月二十五日卒、年七十四。 宗茂、初め千鶴丸と曰ふ。生稟強健にして、乳哺滯らず、甫め四五歳、他七八歳の兒の如し。六七歳なる頃、武を好む、戲れに童兒を倒すに、最も輕捷、長ずるに及びて、聰敏顯悟にして辯才あり。 ○宗茂八歲の時、見物のことありて、其場に出て物を見る、其最中に群集の中にて爭論出來、殺害に逢ふ者出來たり。其場に在合ふ者、大に騷動して四方へ逃走る。宗茂を介抱したる者共、宗茂を具し、其所を立去らんとす。宗茂少しも恐るゝ氣色なく、今日の見物は是にて事終りつるやと問ふ。介抱者只今恐敷騷ぎの出來候、箇樣の所抔には座さぬものなりと申ければ、宗茂打笑ひ、汝等が周章たることの笑しさよ、此方は彼が合手ならねば、何にしに讐を爲すべきぞ、假令如何なる恐敷事出來るとも、爭か見物を過ぎで立退くべきとて、更に動轉の氣色なし。兎角する間に騷動も靜まりければ、諸人も立戾て、見物せり。斯て宗茂は、事終て歸られけり。
新字:高橋鎮種の子、戸次鑑連の嗣と為り、族を立花と改む。従四位下に叙し、兼飛驒守に任ず、後髪を削り、立斎と号す。初め統虎、後今の名に改む。慶長五年、封を失ひ、後又本領十一万九千六百石に封ぜられ、柳川城に住す、寛永十九年十一月二十五日卒、年七十四。 宗茂、初め千鶴丸と曰ふ。生稟強健にして、乳哺滞らず、甫め四五歳、他七八歳の児の如し。六七歳なる頃、武を好む、戯れに童児を倒すに、最も軽捷、長ずるに及びて、聰敏顕悟にして弁才あり。 ○宗茂八歳の時、見物のことありて、其場に出て物を見る、其最中に群集の中にて争論出来、殺害に逢ふ者出来たり。其場に在合ふ者、大に騷動して四方へ逃走る。宗茂を介抱したる者共、宗茂を具し、其所を立去らんとす。宗茂少しも恐るゝ気色なく、今日の見物は是にて事終りつるやと問ふ。介抱者只今恐敷騷ぎの出来候、箇様の所抔には座さぬものなりと申ければ、宗茂打笑ひ、汝等が周章たることの笑しさよ、此方は彼が合手ならねば、何にしに讐を為すべきぞ、仮令如何なる恐敷事出来るとも、争か見物を過ぎで立退くべきとて、更に動転の気色なし。兎角する間に騷動も静まりければ、諸人も立戻て、見物せり。斯て宗茂は、事終て帰られけり。
書き下し
高橋鎭種の子、戸次鑑連の嗣と爲り、族を立花と改む。從四位下に叙し、兼飛驒守に任ず、後髮を削り、立齋と號す。初め統虎、後今の名に改む。慶長五年、封を失ひ、後又本領十一萬九千六百石に封ぜられ、柳川城に住す、寬永十九年十一月二十五日卒、年七十四。 宗茂、初め千鶴丸と曰ふ。生稟強健にして、乳哺滯らず、甫め四五歳、他七八歳の兒の如し。六七歳なる頃、武を好む、戲れに童兒を倒すに、最も輕捷、長ずるに及びて、聰敏顯悟にして辯才あり。 ○宗茂八歲の時、見物のことありて、其場に出て物を見る、其最中に群集の中にて爭論出來、殺害に逢ふ者出來たり。其場に在合ふ者、大に騷動して四方へ逃走る。宗茂を介抱したる者共、宗茂を具し、其所を立去らんとす。宗茂少しも恐るゝ氣色なく、今日の見物は是にて事終りつるやと問ふ。介抱者只今恐敷騷ぎの出來候、箇樣の所抔には座さぬものなりと申ければ、宗茂打笑ひ、汝等が周章たることの笑しさよ、此方は彼が合手ならねば、何にしに讐を爲すべきぞ、假令如何なる恐敷事出來るとも、爭か見物を過ぎで立退くべきとて、更に動轉の氣色なし。兎角する間に騷動も靜まりければ、諸人も立戾て、見物せり。斯て宗茂は、事終て歸られけり。
現代語訳
高橋鎮種の子で、戸次鑑連の跡継ぎとなり、一族の名を立花と改めました。従四位下に叙せられ、飛騨守を兼ね、後に髪を剃って立斎と号しました。初めは統虎、後に今の名に改めました。慶長五年に領地を失い、後にまた元の領地十一万九千六百石に封ぜられ、柳川城に住みました。寛永十九年十一月二十五日に亡くなり、年は七十四でした。 宗茂は、初め千鶴丸といいました。生まれつき強健で、乳の飲み方も滞りなく、わずか四、五歳で、ほかの七、八歳の子のようでした。六、七歳の頃は武を好み、戯れに童子を倒すのに、もっとも身が軽く素早く、成長するにつれて、聡明で悟りが早く、弁舌の才がありました。 宗茂が八歳のとき、見物のことがあって、その場に出て物を見ていました。その最中に群衆の中で争いが起こり、殺される者が出ました。その場に居合わせた者は大いに騒ぎ、四方へ逃げ走りました。宗茂を介抱していた者たちは、宗茂を連れてその場を立ち去ろうとしました。宗茂は少しも恐れる様子なく、今日の見物はこれで終わりなのかと尋ねました。介抱者が、ただ今恐ろしい騒ぎが起こりました。こうした所にはいらっしゃるものではありません、と申すと、宗茂は笑って、お前たちが慌てたのが可笑しい、こちらはあの者の相手ではないのだから、どうして仇をなされようか、たとえどんな恐ろしいことが起こっても、見物を済まさずに立ち退くことがあろうか、と言って、全く動く様子がありません。そうこうするうちに騒動も静まったので、人々も立ち戻って見物しました。こうして宗茂は、見物が終わって帰られました。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
孟子・盡心章句下齊饑う。陳臻曰く、「國人皆以えらく、夫子將に復た棠を發くことを為さんとす、と。殆ど復びす可からざるか。」孟子曰く、「是れ馮婦を為すなり。晉人に馮婦という者有り。善く虎を搏つ。卒に善士と為る。則ち野に之く。衆虎を逐う有り。虎、嵎を負う。之に敢て攖(せまる)る莫し。馮婦を望見し、趨りて之を迎う。馮婦、臂を攘(はらう)いて車を下る。衆皆之を悅びしも、其の士為る者は之を笑えり。」
-
孫子・九地篇是の故に散地には則ち戦うこと無かれ、軽地には則ち止まること無かれ、争地には則ち攻むること無かれ、交地には則ち絶つこと無かれ、衢地には則ち交を合わせ、重地には則ち掠め、圮地には則ち行き、囲地には則ち謀り、死地には則ち戦う。
-
『韓非子』說林下二十三夫れ一臣を殺して一国を存す、其れ吉と言はざるは何ぞや。且つ死者知無くんば、則ち臣を以て鼓に釁るも益無きなり。死者知有らば、臣将に戦ひに当たるの時、臣鼓をして鳴らざらしめん」と。荊人因りて殺さざるなり。知伯将に仇由を伐たんとして道難くして通ぜず、乃ち大鐘を鋳て仇由の君に遺る。仇由の君大いに説び、道を除きて将に之を内れんとす。赤章曼枝曰く、「不可なり。此れ小の大に事ふる所以なり、而るに今や大以て来る、卒必ず之に随はん、内るべからざるなり」と。仇由の君聴かず、遂に之を内る。赤章曼枝因りて轂を断ちて駆り、斉に至り、七月にして仇由亡ぶ。越已に呉に勝ち、又卒を荊に索めて晋を攻めんとす。左史倚相、荊王に謂ひて曰く、「夫れ越は呉を破りて、豪士死し、鋭卒尽き、大甲傷つく。今又卒を索めて以て晋を攻むるは、我に病まざるを示すなり。師を起こして与に呉を分かつに如かず」と。荊王曰く、「善し」と。因りて師を起こして越に従ふ。越王怒り、将に之を撃たんとす。大夫種曰く、「不可なり。吾が豪士尽き、大甲傷つく。我与に戦はば、必ず克たず。之に賂ふに如かず」と。乃ち露山の陰五百里を割きて以て之に賂ふ。荊、陳を伐ち、呉之を救ふ。軍間三十里。雨ふること十日、夜星あり。左史倚相、子期に謂ひて曰く、「雨ふること十日、甲輯まりて兵聚まる。呉人必ず至らん、之に備ふるに如かず」と。乃ち陳を為す。陳未だ成らざるに呉人至り、荊の陳を見て反る。左史曰く、「呉は反覆六十里、其の君子必ず休み、小人必ず食はん。我三十里を行きて之を撃たば、必ず敗るべきなり」と。乃ち之に従ひ、遂に呉の軍を破る。韓・趙相与に難を為す。韓子、兵を魏に索めて曰く、「願はくは師を借りて以て趙を伐たん」と。魏の文侯曰く、「寡人は趙と兄弟なり、以て従ふべからず」と。趙も又兵を索めて以て韓を攻めんとす。文侯曰く、「寡人は韓と兄弟なり、敢へて従はず」と。二国、兵を得ずして、怒りて反る。
-
『武家家訓集』朝倉敏景十七箇条「第十三条」一、勝つべき合戰、取るべき城攻め等の時、吉日を選び方角を考へて、時日を移す事甚だ口惜しく候。如何に能き日なりとて、大風に船を出し、大勢に獨り向かはば其の甲斐有るべからず候。假令難所惡日たりとも、細かに虛實を察して、密々に奇正を整へ、臨機應變して謀を本とせば、必ず勝利を得らるべき事、
-
孟子・公孫丑章句下孟子、齊に卿為り。出でて滕に弔す。王、蓋の大夫王驩をして輔行為らしむ。王驩、朝暮に見ゆ。齊滕の路を反し、未だ嘗て之と行事を言わざるなり。公孫丑曰く、「齊卿の位は、小と為さず。齊滕の路は、近しと為さず。之を反して未だ嘗て與に行事を言わざるは、何ぞや。」曰く、「夫れ既に之を治むる或り。予何をか言わんや。」
-
孟子・萬章章句下齊の宣王、卿を問う。孟子曰く、「王何の卿を之れ問うや。」王曰く、「卿同じからざるか。」曰く、「同じからず。貴戚の卿有り、異姓の卿有り。」王曰く、「貴戚の卿を請い問う。」曰く、「君に大過有れば則ち諫め、之を反覆して聽かざれば、則ち位を易う。」王勃然として色を變ず。曰く、「王異むこと勿れ。王、臣に問う、臣敢て正を以て對えずんばあらず。」王色定まり、然る後異姓の卿を請い問う。曰く、「君に過ち有れば則ち諫め、之を反覆して聽かざれば、則ち去る。」