名将言行録 / 『名将言行録』高橋鎭種 評・菊池寛の評
この人もあまり有名ではないが、その武勇と云ひ、節義と云ひ、九州武士の花であらう。寶滿山は、太宰府のすぐ後の山である。岩屋は、太宰府の少し北の小さい山である。寶滿山の有智山城は、太平記などによく出て來る少貳氏の居城である。島津氏の大軍を迎へて、ビクともせず、岩屋城を枕に壯烈な戰死を遂げた武者振は、もつと後世から賞讃されてよいのであるが、主家の大友が亡んだし、九州の出來事であるだけに、あまり著聞しなかつたのであらう。島津から云つても、高橋は仇敵ではないし、立派な武士だから、どうにかして殺したくはなかつたのであらうが、當人が堂々たる正論を說いて妥協に應じないのだから。涙を呑んで攻め落したのだらう。しかし、戸次と高橋二氏の武勇と節義は一つになつて立花宗茂に傳つたのだから、二人とも地下に瞑目してゐることだと思はれる。宗茂は、秀吉が九州第一の者と激賞した丈あり、養父道雪、實父紹運を一人で代表してゐるやうな典型的武將である。
新字:この人もあまり有名ではないが、その武勇と云ひ、節義と云ひ、九州武士の花であらう。宝満山は、太宰府のすぐ後の山である。岩屋は、太宰府の少し北の小さい山である。宝満山の有智山城は、太平記などによく出て来る少貳氏の居城である。島津氏の大軍を迎へて、ビクともせず、岩屋城を枕に壮烈な戦死を遂げた武者振は、もつと後世から賞讃されてよいのであるが、主家の大友が亡んだし、九州の出来事であるだけに、あまり著聞しなかつたのであらう。島津から云つても、高橋は仇敵ではないし、立派な武士だから、どうにかして殺したくはなかつたのであらうが、当人が堂々たる正論を説いて妥協に応じないのだから。涙を呑んで攻め落したのだらう。しかし、戸次と高橋二氏の武勇と節義は一つになつて立花宗茂に伝つたのだから、二人とも地下に瞑目してゐることだと思はれる。宗茂は、秀吉が九州第一の者と激賞した丈あり、養父道雪、実父紹運を一人で代表してゐるやうな典型的武将である。
書き下し
この人もあまり有名ではないが、その武勇と云ひ、節義と云ひ、九州武士の花であらう。寶滿山は、太宰府のすぐ後の山である。岩屋は、太宰府の少し北の小さい山である。寶滿山の有智山城は、太平記などによく出て來る少貳氏の居城である。島津氏の大軍を迎へて、ビクともせず、岩屋城を枕に壯烈な戰死を遂げた武者振は、もつと後世から賞讃されてよいのであるが、主家の大友が亡んだし、九州の出來事であるだけに、あまり著聞しなかつたのであらう。島津から云つても、高橋は仇敵ではないし、立派な武士だから、どうにかして殺したくはなかつたのであらうが、當人が堂々たる正論を說いて妥協に應じないのだから。涙を呑んで攻め落したのだらう。しかし、戸次と高橋二氏の武勇と節義は一つになつて立花宗茂に傳つたのだから、二人とも地下に瞑目してゐることだと思はれる。宗茂は、秀吉が九州第一の者と激賞した丈あり、養父道雪、實父紹運を一人で代表してゐるやうな典型的武將である。
現代語訳
この人もあまり有名ではないが、その武勇といい、節義といい、九州武士の花であろう。宝満山は、太宰府のすぐ後ろの山である。岩屋は、太宰府の少し北の小さい山である。宝満山の有智山城は、太平記などによく出てくる少弐氏の居城である。島津氏の大軍を迎えて、びくともせず、岩屋城を枕に壮烈な戦死を遂げた武者ぶりは、もっと後世から賞讃されてよいのであるが、主家の大友が滅んだし、九州の出来事であるだけに、あまり著聞しなかったのであろう。島津から言っても、高橋は仇敵ではないし、立派な武士だから、どうにかして殺したくはなかったのであろうが、当人が堂々たる正論を説いて妥協に応じないのだから、涙を呑んで攻め落としたのだろう。しかし、戸次と高橋二氏の武勇と節義は一つになって立花宗茂に伝わったのだから、二人とも地下に瞑目していることだと思われる。宗茂は、秀吉が九州第一の者と激賞しただけあり、養父道雪、実父紹運を一人で代表しているような典型的武将である。
解説

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名将言行録・『名将言行録』戸次鑑連 評・大友氏と九州武士立花宗茂の養父である。亡びかけてゐる大友氏に節義を守つて奮闘した武將である。大友が、亡んだため後世に、あまり名が聞えてゐないが、次ぎの高橋鎭種と共に九州武士の精華である。 少貳、大友の二氏の裡、大友氏の方が、後まで殘つたのである。が、戰國時代になると、中國の大内——毛利から、壓迫され、南方から島津が北上して來るし、佐賀には龍造寺氏が勃興した。殊に、日向の耳川で島津氏に大敗してからは、頽勢の掩ひがたきものがあつたのである。愛國百人一首の中の命より名こそ惜しけれ武士の 道にかふべき道しなければ の歌は、この耳川の戰に戰死した大友家の少年武士の歌である。
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名将言行録・『名将言行録』高橋鎭種 高橋家を継ぐ吉弘左近大夫鑑理の子、彌七郎と稱す。高橋氏を冒し、主膳兵衞と改む、後髪を削り紹運と號す。大友氏に仕へ、岩屋城に住す。天正十四年七月二十七日戰死、年三十九。 ○鎭種未だ壯年に足らぬ頃より、度量寬大にして、高義眞實の士なり、大友氏族の人々も、此人こそ英雄なるべしと沙汰しける。其名漸く近國に隱れなし。高橋家の老臣、北原伊賀鎭久、高橋の遺業に成し給はれと頻りに望むに依り、大友家老の人々詮議ありて、寶滿岩屋は大事の城郭なり、無才無覺の人を置かるゝ所にあらず、鎭種は若年なれども、器量の人なり、不足あろまじ、其上鎭種は、吉弘が子なれば鑑種が爲めにも、一族の中なれば、名字を繼ぐも僻事ならず、然らば鑑種が養子と名付け高橋家を相續さすべしとのことなり。爰に於て、高橋氏を冒せり。鑑種此時毛利に通じ、大友に背きしに依り、大友、鑑種を攻めて之を囚ふ。爰に於て高橋が家中絶せしを繼ぎしなり。
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名将言行録・『名将言行録』高橋鎭種 宗茂を生かす計算其援兵を待ち果せずして當城陷らば運の極めと思ふなり、寶滿に籠るべくは立花こそ勝りたる要害なれば、宗茂と一所に籠るべけれども、安否一大事の軍に大將數人一所に籠らんは上計にあらず、鑑連と其交淺からざりしかば、我は假令切腹すとも、宗茂さへ恙なくばと思ふなり、假令あの大軍寄せたりとも十日支へぬことはよもあらじ、鎭種命を限りに戰ふならば、寄手も三千許りは討つべし、島津勢、鬼神と曰ふとも爰にて三千の勢を討たせたらば、重ねて立花に至て、手強き働成り難かるべし、又立花は名城なり、人も多し、敵攻るとも二十日の中にはよも落ちじ、彼是三十日に過ぐる間に、中國よりの援兵も渡海すべきなり、然らば宗茂運を開くべし、此趣を宗茂に申べしとて攝津守を返されけり。攝津守歸て此由斯くと申ければ、上下何れも感じあへり。人に依て立花より、岩屋へ援兵として倔強の士三十餘人を遣はせり。此者共落城の日一人も残らず討死しけり。同十日より寄手、攻口を定め、晝夜を分たず攻けれども、必死を究めし城兵なれば、少しもひるまず防戰す。寄手、手負死人數知れず、同二十六日、岩屋、外城破れしかば、二三の丸に引取て、猶防ぎ戰ひける、其の日寄手矢留を乞て、新納藏人と名乘り、御城へ物申んと言ひしかば、鎭種、麻生外記と名乘り、櫓の上にて何事ぞと問ふ。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 秀吉の激賞○十四年七月、島津義久、岩屋を陷れ、使を立花に遣はし、懇に降るを勸む。宗茂、苟も義に背いて生きんよりは寧ろ死するに如かずと言ひ、城を普請して寄手を待居たり。島津方には、立花を攻むべしと言けれども、此間岩屋にて數千の軍兵打たれたり、重ねて立花へ寄せたらば、彼城要害なり、其上籠る所の兵も、岩屋より多ければ、容易く攻難しとて、立花を攻るに及ばず。寶滿は秋月種實隱居の城と定め、岩屋にも人數を籠置き、高島井の城を取り構へ、星野中務少輔吉實をぞ籠めたりける。八月、秀吉の先鋒追々渡海ありと聞えければ、義久、筑前の人數を引取りける。二十四日、島津勢陣拂して引退く所に、宗茂打出て、島津の勢を打敗る。明る二十五日、高鳥井の城に押寄せ、半時計りが内に攻破り、星野兄弟を打取りたり。秀吉、書を賜はり、其功を賞せらる。又黑田、宮木、安國寺へ賜はりし書には、立花は九州第一の者とぞ仰下さる。翌年四月、秀吉渡海あり、宗茂謁しければ、是までの軍功を一々に算へ仰せられて、手柄の上の手柄、誠に比類なき働なり、忠義の士、九州第一と言ながら、上方にも汝□の若者あるべしとも覺えずと、御感斜めならず、伺候の人々も是を承はり、羨まぬ者はなかりけり。頓て、太刀以下の品々賜はりて、薩摩への先陣を命ぜられけり。
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名将言行録・『名将言行録』高橋鎭種 籠城を決めた理由鎭種曰く、宗茂の申所尤もなり、去ながら退いて案ずるに、節を守り義に死するは勇士の本意なり。時を知り運を計るは智者の慮にあらずや、寶滿は要害と雖も、地利不如人和と云へば、假令彼城に籠りたりとも、人の心調はずば久しき謀にあらず、大友義統とは、鎭種親類の上に緣者なり、旁々見離すべきにあらねば、年頃大友に荷擔して、毎度戰に勝つと雖も、大伴家末に成り、當家も運の迫りぬるにや、逆徒は年々月々に蜂起し、味方に與する者は一人もなし、時去り時來り、物皆始終ある習なれば、當家亡ぶべき時至りぬと覺ゆるなり、高橋は筑紫の三撿斷職の其一なり、去れども仁木、一色は既に絶て年久し、今まで名字の殘れるのは、當家計りなり、九州の豪英菊池少貳、千葉宗像既に其後なし、然らば當家も絶すべき時來れるとこそ覺ゆれ、若し運盡きずば當城に在りとても、如何なる大軍をも防ぎ課すべし、寶滿に籠るとも圍を出づることもあるまじ、とても遁る間敷くば多年の居城を枕として死んこそ本意なれ、居城を捨て逃げたりと言はれんは、無下に口惜かるべし、此儘爰にありて秀吉公の援兵を相待つべしと思ふ、中國、四國の勢近々渡海すと承はれども、海路を隔てたる大軍なれば、彼に障り爰に滯りて延引すべきなり。
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名将言行録・『名将言行録』高橋鎭種 米山を即日取り返す○十一年九月、筑紫勢三笠郡を侵す。鎭種、岩屋より打出、筑紫勢と五六日迫合す。筑紫引入りければ鎭種も歸陣せり。其虚を伺ひ、秋月方より忍びやかに兵を出し、米山の城を襲ひ取りたり。此米山と曰ふは、鎭種方より秋月押さへの爲めに構置きたる城なり。鎭種、岩屋にて此由を聞き取る物も取あへず、米山へ發向し、秋月勢に此城を取られては、平生の手柄も水に成ろぞ、只追出せと叫き呼で、攻掛れば、秋月勢酉の刻計りに、却て城を追出され、靡志岐、山口打通り彌須郡指して引いて行く、鎭種勢二里許り追討し、秋月勢を二百餘人打取り、敵の捨たる鎧抔を拾ひ取り、喜び勇みて歸りたり。凡そ戰の習、初め勝軍なれば、士卒の心又勝に乘る、初めの軍に後れを取れば、後の戰六ヶ敷、假りにも敵に小城の一つも取られては、假令其城を取返すことありとも、年月を經て後漸くにして得るぞかし。鎭種は敵に城を乘取られ、即日又其城を取返せり。時に十月二日なり。世に所謂米山軍是なり。 ○鎭種の子、宗茂、立花家へ行く時、鎭種暇乞の盃し、偖曰く、向後は我等を夢にも親と思ふ間敷、明日にも鑑連と弓箭の習、敵味方とも成りなば、鑑連の先鋒と成り、成る程我等を打取るべし、鑑連は常に未練なることを、大に嫌はれ候間、自然不覺にて、鑑連より義絶せられなば岩屋に歸らず、直ぐに潔く自害せらるべしとて、劒を手づから與へられたり。宗茂、終身形身と思ひ、身を放さゞりしとぞ。