名将言行録 / 『名将言行録』立花宗茂 幼い日の言葉と勘
○宗茂十歲の時、鎭種家中の者に、重科の者ありしを、萩尾某に命じて討せけるに、萩尾、彼者に行逢て、後より只一太刀に切留ける、是を傍輩共聞て、後より切ることは易きことなれば左して手柄と言ひ難し抔囁きけるを、宗茂聞き、行逢たることなれば、前後は論ぜず、逃さず易く打留たるこそ手柄なれ、敵を打つに易き所を差置き、打惡きことをして、仕損ぜんや、汝等如き者は我成長の後、軍利の障はりと成るべしと言はれければ、人皆慚服せり。 ○宗茂十一歲の時、立花に往く。鑑連饗應し、其上壯者を召して、弓を射させて覗せしめ、戲に調て曰く、子、猶幼なり、恐くは能はずと。宗茂、卽ち側なる弓を挽きて弱はしと言ひ、鑑連床上に在る勁弓を請て射るに、四發三中せり。 ○宗茂十二歲の時、鷹を手に据ゑ、同じ年頃の童子を召連れて野外に出て遊びしに、猛犬急に吠掛りけるに、宗茂少しも怖れず、刀を抜き飛び違て棟打にしたゝかに打ちければ、犬は怖れて逃げ去りぬ。鎭種聞て、汝刀を抜て防ぐ程ならば何ぞ其犬を切留めざると言ければ、宗茂打笑ひ、太刀にては敵を切るとこそ承はり候びねと申ければ、鎭種、涙を流し、我子ながらも器量雄才拔群なり、汝成長の後、才に誇ること勿れとぞ敎へられける。
新字:○宗茂十歳の時、鎮種家中の者に、重科の者ありしを、萩尾某に命じて討せけるに、萩尾、彼者に行逢て、後より只一太刀に切留ける、是を傍輩共聞て、後より切ることは易きことなれば左して手柄と言ひ難し抔囁きけるを、宗茂聞き、行逢たることなれば、前後は論ぜず、逃さず易く打留たるこそ手柄なれ、敵を打つに易き所を差置き、打悪きことをして、仕損ぜんや、汝等如き者は我成長の後、軍利の障はりと成るべしと言はれければ、人皆慚服せり。 ○宗茂十一歳の時、立花に往く。鑑連饗応し、其上壮者を召して、弓を射させて覗せしめ、戯に調て曰く、子、猶幼なり、恐くは能はずと。宗茂、即ち側なる弓を挽きて弱はしと言ひ、鑑連床上に在る勁弓を請て射るに、四発三中せり。 ○宗茂十二歳の時、鷹を手に据ゑ、同じ年頃の童子を召連れて野外に出て遊びしに、猛犬急に吠掛りけるに、宗茂少しも怖れず、刀を抜き飛び違て棟打にしたゝかに打ちければ、犬は怖れて逃げ去りぬ。鎮種聞て、汝刀を抜て防ぐ程ならば何ぞ其犬を切留めざると言ければ、宗茂打笑ひ、太刀にては敵を切るとこそ承はり候びねと申ければ、鎮種、涙を流し、我子ながらも器量雄才抜群なり、汝成長の後、才に誇ること勿れとぞ教へられける。
書き下し
○宗茂十歲の時、鎭種家中の者に、重科の者ありしを、萩尾某に命じて討せけるに、萩尾、彼者に行逢て、後より只一太刀に切留ける、是を傍輩共聞て、後より切ることは易きことなれば左して手柄と言ひ難し抔囁きけるを、宗茂聞き、行逢たることなれば、前後は論ぜず、逃さず易く打留たるこそ手柄なれ、敵を打つに易き所を差置き、打惡きことをして、仕損ぜんや、汝等如き者は我成長の後、軍利の障はりと成るべしと言はれければ、人皆慚服せり。 ○宗茂十一歲の時、立花に往く。鑑連饗應し、其上壯者を召して、弓を射させて覗せしめ、戲に調て曰く、子、猶幼なり、恐くは能はずと。宗茂、卽ち側なる弓を挽きて弱はしと言ひ、鑑連床上に在る勁弓を請て射るに、四發三中せり。 ○宗茂十二歲の時、鷹を手に据ゑ、同じ年頃の童子を召連れて野外に出て遊びしに、猛犬急に吠掛りけるに、宗茂少しも怖れず、刀を抜き飛び違て棟打にしたゝかに打ちければ、犬は怖れて逃げ去りぬ。鎭種聞て、汝刀を抜て防ぐ程ならば何ぞ其犬を切留めざると言ければ、宗茂打笑ひ、太刀にては敵を切るとこそ承はり候びねと申ければ、鎭種、涙を流し、我子ながらも器量雄才拔群なり、汝成長の後、才に誇ること勿れとぞ敎へられける。
現代語訳
宗茂が十歳のとき、鎮種の家中に重い罪を犯した者がいたので、萩尾某に命じて討たせたところ、萩尾はその者に行き合い、後ろから一太刀で切り留めました。これを同輩たちが聞いて、後ろから切るのは易しいことだから、それほど手柄とは言えない、などとささやいたのを、宗茂が聞いて、行き合ったのだから前後は論じない、逃さず容易に討ち留めたのこそ手柄である、敵を討つのに易い所を差し置いて、討ちにくいことをして仕損じてよいものか、お前たちのような者は、私が成長した後、軍の障りとなるだろう、と言ったので、人々は皆恥じ入って服しました。 宗茂が十一歳のとき、立花へ行きました。鑑連はもてなし、さらに壮者を呼んで弓を射させて見せ、戯れに、子はまだ幼いのでおそらくできまい、と言いました。宗茂はすぐにそばの弓を引いて、弱いと言い、鑑連の床上にある強い弓を請うて射ると、四本のうち三本が的に当たりました。 宗茂が十二歳のとき、鷹を手に据えて、同じ年頃の童子を連れて野外に出て遊んでいたところ、猛犬が急に吠えかかりました。宗茂は少しも恐れず、刀を抜いて飛び違い、峰打ちにしたたかに打ったので、犬は怖れて逃げ去りました。鎮種はこれを聞いて、お前は刀を抜いて防ぐほどなら、どうしてその犬を切り留めなかったのか、と言うと、宗茂は笑って、太刀は敵を切るものと承っております、と答えたので、鎮種は涙を流し、我が子ながら器量雄才は抜群である、お前は成長の後、才に誇ってはならない、と教えたということです。
解説

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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 豪傑の資質と初陣○宗茂十三歲の時、鎭種出陣することありしに、いざや、汝も出陣せよかしと戲れを言ければ、宗茂畏りて仰なくとも御供仕度候へ共、未だ強健ならず、斯くて敵に逢なば言甲斐なき死を仕るべし、今一兩年も過ぎなば、一方を承はりて罷向んとぞ申ける。聞く人其思慮の深きに感ぜり。 ○宗茂幼年にて、鑑連の許に行て遊び居たる時、鑑連、家臣に命じ、科人を我前にて討たせたり。不意のことなれば宗茂如何思ひけるやと、鑑連、宗茂が胸に手を入れて見るに、聊かも動悸せず。是より鑑連、宗茂が豪傑の資あるを察し、終に鎭種に乞て、養子と爲せり。 ○天正十二年、宗茂、父と共に軍に出て、秋月の勇士堀江備前を打取れり。其號令を傳宣し、士卒を指揮する體、才勇絕倫、旣に良將の風ありと言へり。時に年十六。 ○十三年、鑑連、鎭種黑木城を攻む。秋月種實其虞を窺ひ、兵八千に將として來り、立花を侵す。宗茂吾若年にして未だ軍事に練れざると侮り必ず油斷して居らん、一と夜討して之を追拂はんと言ふ。鷹野三河、之を諫む。宗茂聽かず五百餘人を率ひ、種實を襲ひ擊て之を走らせり。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 軍法書に勝る日頃の情○立花が臣蒲池宗碩が軍法の學び傳へし者ありしが、後其書亡びて傳はらず。一日忠茂、宗茂に向ひ、右の書物は如何樣の事を記し申たるものに候やと尋ぬ。宗茂格別なること之なし、敵に向ひ、勢の多少に依らず、兵を交ふる時、一定利を得るの理を記したるものなり、是は大將たる者の心持にあることとなり、我家人なればとて、敵に向ひたる時、如何に采幣を取て、只進め、死ねと言たればとて、左樣に下知に從ふものにては之なし、常と上から、下を子の如く愛憐を加へ、下から亦、上を親の樣に思ふ如く、人を使へば、下知をせずとも、上の善き樣にならではせぬものなり、と言はれけり。 ○德川義直、嘗て宗茂に合戰の要務を問ふ。宗茂、方々の軍功とても、何流の軍法を用ふると言ふ義もなし、何れも善しと言ふ所を取用ひ、尤も謀ほ其節に至りて、敵の勢次第なり、世間の一萬の兵と、我の三千、五千の兵と異ならず、是も軍の備方宜しきと言ふのみにあらず、常に兵士を依怙最屓なく、痛く勤勞せしむることなく、慈悲を加へ、少々の過失は其通りに致し國法に外れたる者は、其法に行ふのみなり、某小身なれば、俸祿とても、高に應じ、少しづゝ與へしなれども、常に慈悲を專に致し、愛憐する故、戰に臨み、皆一命を捨て力戰し、皆某が功に成れり、其外に能きことはなきと答へり。義直殊に感稱せり。侍臣此話を聞き、能き所を説かれたりと、大に喜ぶ。此後、義直臣下に愛憐を垂れしかば、一藩喜びて、宗茂公は希代の名將なりと稱せり。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 信綱を弁護した一言○松平信綱、島原にての指麾宜しからずと聞えしかば、歸府の後、家光目見なし、時に宗茂、家光の前に出、島原のこと申述、偖今度若き伊豆守差下されし義、如何と存ぜし所に、物每に痒き所に手の屆く樣に、捌き申したるを見聞仕り、驚入候と申しゝ時、家光伊豆守こと不屈なることゝ之ある樣、承はり及びし所に、其方申分相違の樣に存ずると言はる。宗茂、箇樣の大なることに端々の者まで殘らず能きと申には成り申さゞるものにて候、善惡ともに落着の首尾合ふ合はぬにて、御勘辨あるべき義かと申ければ、尤もの由言はれて、信綱目見申付られたり。宗茂退出の後、立花が壽命長くしても、長かれかしと存ずると言はれしとぞ。 ○立花壹岐、宗茂に向ひ、何某事數年御奉公を能く相勤候、少地にても賜はり候はゞ、如何あろべきやと申ければ、宗茂聞て、此以前結城宰相殿、家康公へ、戸田三郎右衞門は數年の間、御奉公能く仕候間、御加恩仰付られ然るべきやとの取合に、家康公仰られ候は、小刀は度々便ひて用を達すれども、さして馳走せず、刀脇差は一代多くて、五度か三度か命をかばふ用に立つる故、殊の外崇敬するなりと計り仰せられけると言けるとぞ。 ○宗茂曰く、數年試みるに、人々戰場にて働きたることを、後には是非ともに飾立て申たがるものなり、是は我身ながらも、少し足らぬと存ずる故、申すにて之あるべし、未だ足らぬ働きと思はず、誠の侍たる道を存ぜしものなり。少しの働きを自慢することの多きは、是非に及ばざることなりと。
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名将言行録・『名将言行録』加藤嘉明 宗茂を見抜き、家康の評を聞く○大阪夏役、嘉明陣場より、立花宗茂陣は近く一と見渡しに見ゆ、嘉明、立花は痛は敷ことなり、戰死と思ひ究め馬を立直し候と言はれけり。側に在りし者、不思議に思ひ居たりしが、間もなく、宗茂陣場に並びたる左右の陣々、悉く崩れ、宗茂人數も崩れ立ちしが、譜第の士二十五人一足も引かず、本より宗茂は馬を立たる所より、諸勢崩るゝを見て、成る程靜に馬を十二三間先へ進められたり。諸家の人數崩るべき樣子を早く見て、馬を立直しけるを、嘉明は其儘知りたり。外に知りし者一人もなし。此時敵出合はゞ、宗茂討死と思究めけれども、敵出ざれば別義なかりしとぞ。 ○家康病重もりし時、秀忠へ、大小名の人となりを評論せられしが、分けて、嘉明は本國三河の者にて、秀吉在世の時より、其志を通ぜり。秀吉の取立と言ふとも、疎略にすべからず、律義者なれば、隨分憐みを掛らるべし、然し、少しのことも心に掛けて不足に思ふ質なれば、其所は能く心得あるべき由を言はれける。秀忠、嘉明は小氣者と承はり及び候へば、異心はあるべからずと存ずる旨、挨拶せられければ、否々其心得は惡しきなり、譬は踊を躍るに稚子にても、今樣の音頭を揚ぐる者上手なれば、老人までも浮立ち躍るものなり、亂世は大勇の者を以て大將とす、其者嫌がるとも脇より取立るものなり、嘉明は小氣なりとて油斷すべからずと言はれけり。