名将言行録 / 『名将言行録』高橋鎭種 宗茂を生かす計算
其援兵を待ち果せずして當城陷らば運の極めと思ふなり、寶滿に籠るべくは立花こそ勝りたる要害なれば、宗茂と一所に籠るべけれども、安否一大事の軍に大將數人一所に籠らんは上計にあらず、鑑連と其交淺からざりしかば、我は假令切腹すとも、宗茂さへ恙なくばと思ふなり、假令あの大軍寄せたりとも十日支へぬことはよもあらじ、鎭種命を限りに戰ふならば、寄手も三千許りは討つべし、島津勢、鬼神と曰ふとも爰にて三千の勢を討たせたらば、重ねて立花に至て、手強き働成り難かるべし、又立花は名城なり、人も多し、敵攻るとも二十日の中にはよも落ちじ、彼是三十日に過ぐる間に、中國よりの援兵も渡海すべきなり、然らば宗茂運を開くべし、此趣を宗茂に申べしとて攝津守を返されけり。攝津守歸て此由斯くと申ければ、上下何れも感じあへり。人に依て立花より、岩屋へ援兵として倔強の士三十餘人を遣はせり。此者共落城の日一人も残らず討死しけり。同十日より寄手、攻口を定め、晝夜を分たず攻けれども、必死を究めし城兵なれば、少しもひるまず防戰す。寄手、手負死人數知れず、同二十六日、岩屋、外城破れしかば、二三の丸に引取て、猶防ぎ戰ひける、其の日寄手矢留を乞て、新納藏人と名乘り、御城へ物申んと言ひしかば、鎭種、麻生外記と名乘り、櫓の上にて何事ぞと問ふ。
新字:其援兵を待ち果せずして当城陥らば運の極めと思ふなり、宝満に籠るべくは立花こそ勝りたる要害なれば、宗茂と一所に籠るべけれども、安否一大事の軍に大将数人一所に籠らんは上計にあらず、鑑連と其交浅からざりしかば、我は仮令切腹すとも、宗茂さへ恙なくばと思ふなり、仮令あの大軍寄せたりとも十日支へぬことはよもあらじ、鎮種命を限りに戦ふならば、寄手も三千許りは討つべし、島津勢、鬼神と曰ふとも爰にて三千の勢を討たせたらば、重ねて立花に至て、手強き働成り難かるべし、又立花は名城なり、人も多し、敵攻るとも二十日の中にはよも落ちじ、彼是三十日に過ぐる間に、中国よりの援兵も渡海すべきなり、然らば宗茂運を開くべし、此趣を宗茂に申べしとて摂津守を返されけり。摂津守帰て此由斯くと申ければ、上下何れも感じあへり。人に依て立花より、岩屋へ援兵として倔強の士三十余人を遣はせり。此者共落城の日一人も残らず討死しけり。同十日より寄手、攻口を定め、昼夜を分たず攻けれども、必死を究めし城兵なれば、少しもひるまず防戦す。寄手、手負死人数知れず、同二十六日、岩屋、外城破れしかば、二三の丸に引取て、猶防ぎ戦ひける、其の日寄手矢留を乞て、新納蔵人と名乗り、御城へ物申んと言ひしかば、鎮種、麻生外記と名乗り、櫓の上にて何事ぞと問ふ。
書き下し
其援兵を待ち果せずして當城陷らば運の極めと思ふなり、寶滿に籠るべくは立花こそ勝りたる要害なれば、宗茂と一所に籠るべけれども、安否一大事の軍に大將數人一所に籠らんは上計にあらず、鑑連と其交淺からざりしかば、我は假令切腹すとも、宗茂さへ恙なくばと思ふなり、假令あの大軍寄せたりとも十日支へぬことはよもあらじ、鎭種命を限りに戰ふならば、寄手も三千許りは討つべし、島津勢、鬼神と曰ふとも爰にて三千の勢を討たせたらば、重ねて立花に至て、手強き働成り難かるべし、又立花は名城なり、人も多し、敵攻るとも二十日の中にはよも落ちじ、彼是三十日に過ぐる間に、中國よりの援兵も渡海すべきなり、然らば宗茂運を開くべし、此趣を宗茂に申べしとて攝津守を返されけり。攝津守歸て此由斯くと申ければ、上下何れも感じあへり。人に依て立花より、岩屋へ援兵として倔強の士三十餘人を遣はせり。此者共落城の日一人も残らず討死しけり。同十日より寄手、攻口を定め、晝夜を分たず攻けれども、必死を究めし城兵なれば、少しもひるまず防戰す。寄手、手負死人數知れず、同二十六日、岩屋、外城破れしかば、二三の丸に引取て、猶防ぎ戰ひける、其の日寄手矢留を乞て、新納藏人と名乘り、御城へ物申んと言ひしかば、鎭種、麻生外記と名乘り、櫓の上にて何事ぞと問ふ。
現代語訳
その援兵を待ちきれずに当城が陥落するなら、運の極まりと思う。宝満に籠もるのであれば、立花こそ優れた要害だから、宗茂と一緒に籠もるべきだが、安否が一大事となる戦に、大将が数人一箇所に籠もるのは上策ではない。鑑連との交わりも浅くなかったから、私はたとえ切腹しても、宗茂さえ無事ならと思うのである。たとえあの大軍が寄せたとしても、十日支えないことはよもやあるまい。鎭種が命を限りに戦うなら、寄せ手も三千ほどは討つであろう。島津勢が鬼神というとも、ここで三千の勢を討たせたなら、重ねて立花に至って手強い働きはできまい。また立花は名城であり、人も多い。敵が攻めても二十日のうちには落ちないだろう。あれこれ三十日を過ぎる間に、中国からの援兵も渡海するはずである。そうすれば宗茂は運を開くであろう。この趣を宗茂に伝えよ」と言って、摂津守を帰されました。摂津守が帰ってこのことをこれこれと申しますと、上下ともに感じ入りました。人によっては、立花から岩屋へ援兵として強情な士三十余人を遣わしました。この者たちは落城の日、一人も残らず討死しました。同月十日から寄せ手は攻め口を定め、昼夜を分かたず攻めましたが、必死を極めた城兵なので少しもひるまず防戦しました。寄せ手は手負い、死人が数知れません。同二十六日、岩屋の外城が破れたので、二、三の丸に引き取り、なお防ぎ戦いました。その日、寄せ手は矢留めを乞い、「新納蔵人」と名乗って、「御城へ申し上げたい」と言いました。鎭種は「麻生外記」と名乗り、櫓の上で「何事か」と尋ねました。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『春秋左氏伝』昭公十八年 子産、火災に処す國幾ど亡びん。吾が身泯(ほろ)びんも、及ぶに良(あた)はず。國遷らば、其れ可ならんか」と。子產曰く、「可なりと雖も、吾以て遷るを定むるに足らず」と。火に及びて、里析死せり。未だ葬らず。子產輿三十人をして其の柩を遷さしむ。火作る。子產晉の公子・公孫を東門に辭す。司寇をして新客を出だし、舊客を禁じて宮を出づる勿からしむ。子寬・子上をして群屏攝を巡りて大宮に至らしむ。公孫登をして大龜を徙さしむ。祝史をして主祐を周廟に徙し、先君に告げしむ。府人・庫人をして各其の事を儆めしむ。商成公をして司宮を儆めしめ、舊宮人を出だして、諸を火の及ばざる所に寘(お)く。司馬・司寇、火道に列居し、火の焮(や)く所を行(めぐ)る。城下の人、伍列して城に登る。明日、野司寇をして各其の徵を保たしむ。郊人祝史を助けて國の北に除(はら)ひ、火を玄冥・回祿に禳ひ、四鄘に祈る。焚けし室を書して其の征を寬くし、之に材を與ふ。三日哭し、國市せず。行人をして諸侯に告げしむ。宋・衛皆是くの如し。陳は火を救はず、許は災を弔はず。君子是を以て陳・許の先づ亡びんことを知る。
-
『智囊』經務・富弼・滕元發・原杰滕元発、鄆州を知す。歳方に飢え、淮南の米二十万石を乞いて備えと為す。時に淮南、京東は皆な大飢なり。元発、城中の富民を召し、与に約して曰く、「流民且に至らんとす。之を処する無くんば則ち疾疫起こり、並せて汝に及ばん。吾、城外の廃営の地を得て、席屋を為りて以て之を待たんと欲す」と。民曰く、「諾」と。屋二千五百間を為ること、一夕にして成る。流民至れば、次を以て地を授け、井竈器用皆な具う。兵法を以て部勒し、少き者は炊ぎ、壮き者は樵し、婦は汲み、老いたる者は休み、民の至ること帰るが如し。上、工部郎中王右を遣わして按視せしむ。廬舎道巷、縄を引きて棋布し、粛然として営陣の如し。右大いに驚き、其の事を図上す。詔有りて褒美す。蓋し万人を活かせりと云う。〔馮述評〕祁爾光曰く、「滕達道の流民を処する、大いに富鄭公に類す。富は散じて民擾れず、滕は聚めて能く整う。皆な法と為すべし」と。
-
『智囊』雄略・白瑾妻白瑾の妻は、山陰の葛氏の女である。瑾は素より弱く、葛は善く調節し、書を読ませた。成化中、進士を以て分宜の令となり、葛はともに往った。その明年、瑾の病が癒えたとき、庫に貯えた折銀はなお数千両あった。鄰境に飢えによって乱を作した者があり、徒を聚めること百人、まさに劫取しようとした。県は固より城郭がなく、寇が卒かに至ると、諸薄丞は家を挈えて去り匿れた。葛は独り家人に命じて分けて其の両門を力拒させ、乃ち白公を他室に遷し、その銀を汚池の中に埋め、公の服を著て、堂に升って賊を候った。賊が至ると、陽て好語で相い労苦し、尽くその私かに蔵する釵珥衣服の諸物を出して賊に与えた。賊は謝して去り、陰かに已に表識したことを知らず、竟に物色して捕らえることを得た。〔議〕白公の衣は、合に此の婦に譲り与えて穿戴させるべきである。
-
言志四録・言志晩録 第二百四十三条 渠快事を担ひ我苦事に任ず人と事を共にするに、渠快事を担ひ、我苦事に任ずれば、事は苦しと雖も、意は則ち快し。我快事を担ひ、渠苦事に任ずれば、事は快しと雖も、意は則ち苦し。
-
『講孟余話』盡心下 第三十八章余江戸獄にて日蓮宗の僧日命と交る。日命云ふ、「仏法に摂受・折伏あり。摂受は戒を持し経を念じ、仏意を講明し、万世に伝ふるを以て己が任とす。天下の治乱安危、外道邪魔の譏謗是非、毫も心に置くことなし、是れ摂受なり。折伏は外道邪魔を折伏し、天下を平治するを以て己が任とす。戒を持せず経を念ぜず、人の忿怒を憚らず、人の嫉悪を避けず、一身を捨てて仏道を張る、是れ折伏なり」と。日命は原と会津の藩士武井某と云ふ者にて、気力あり、少時略程朱の学及び長沼氏の兵法を学ぶ。已に僧と成りて、所謂折伏を以て自ら任とす。余因りて難ず、「摂受は獧者の事にして、折伏は狂者の事ならん。但だ摂受は天下の治乱安危、外道の譏謗是非を顧みざると、折伏は戒を持せず経を念ぜざるは、偏僻の甚しきに非ずや。又摂受は兵の正にして、折伏は兵の奇なり。兵は正中に奇あり、奇中に正あり、正或は時に奇となり、奇或は時に正となる。奇は常に奇、正は常に正なるは、死定膠固に非ずや。禹・稷・顔回地を易ふれば皆然るの理は何如にや」と云ふ。日命云く、「人各々能あり不能あり。一人にして衆能を兼ねんと欲すとも、決して成ることなし。唯だ細思せよ、摂受にして折伏を羨まず、折伏にして摂受を羨まず、是れ専精の人に非ざるよりは、決して能はざることなり。且つ摂受の人多ければ、仏道自ら明らかに、折伏の人多ければ、外道自ら滅す。然る後仏意に負くことなし。奇正並び用ひ、狂獧同じく教ゆ、固より亦仏道の要なり」と。噫、彼の異端の徒、其の偏僻の甚しきは、姑く論ぜずして可なり。乃ち其の道を任ずること斯くの如き、実に吾が儒の慙ぢ且つ懼るべき所に非ずや。
-
『新書』輔佐典方は方を典り容儀を典り、以て諸侯・遠方の君を掌り、之が班爵・列位・軌伍の約、朝覲・宗遇・会同・享聘・貢職の数を譔し、其の民人の衆寡、政の治乱を辨ず。徳に率い道に順い、僻淫犯禁の差第を率い、天子巡狩すれば、則ち先ず其の方に循う。故に或いは功徳有りて挙げず、或いは淫僻犯禁有りて知らざるは、典方の任なり。奉常は天を典り、以て宗廟社稷の祀、天神地祇人鬼、凡そ山川四望国の諸祭、吉凶妖祥占相の事を掌り、礼楽喪紀を序し、国の礼儀、畢く其の宜しきに居らしめ、以て宗室を識し、民の風俗を観、詩商を審らかにし、憲命を修め、邪言を禁じ、淫声を息む。四時の交わりに於いて、南郊に事有り、以て報祈天明す。故に天事を歴ぬること得ず、鬼神に事うること序ならず、礼儀人倫を経すること正しからざるは、奉常の任なり。祧師は春を典り、以て国の衆庶、四民の序を掌り、礼義倫理を以て人民を教訓す。方に春三月、緩く施して遂げしめ、百物を動作せしむ、是の時皇考祖考に事有り□□□□□□。