名将言行録 / 『名将言行録』高橋鎭種 高橋家を継ぐ
吉弘左近大夫鑑理の子、彌七郎と稱す。高橋氏を冒し、主膳兵衞と改む、後髪を削り紹運と號す。大友氏に仕へ、岩屋城に住す。天正十四年七月二十七日戰死、年三十九。 ○鎭種未だ壯年に足らぬ頃より、度量寬大にして、高義眞實の士なり、大友氏族の人々も、此人こそ英雄なるべしと沙汰しける。其名漸く近國に隱れなし。高橋家の老臣、北原伊賀鎭久、高橋の遺業に成し給はれと頻りに望むに依り、大友家老の人々詮議ありて、寶滿岩屋は大事の城郭なり、無才無覺の人を置かるゝ所にあらず、鎭種は若年なれども、器量の人なり、不足あろまじ、其上鎭種は、吉弘が子なれば鑑種が爲めにも、一族の中なれば、名字を繼ぐも僻事ならず、然らば鑑種が養子と名付け高橋家を相續さすべしとのことなり。爰に於て、高橋氏を冒せり。鑑種此時毛利に通じ、大友に背きしに依り、大友、鑑種を攻めて之を囚ふ。爰に於て高橋が家中絶せしを繼ぎしなり。
新字:吉弘左近大夫鑑理の子、弥七郎と称す。高橋氏を冒し、主膳兵衛と改む、後髪を削り紹運と号す。大友氏に仕へ、岩屋城に住す。天正十四年七月二十七日戦死、年三十九。 ○鎮種未だ壮年に足らぬ頃より、度量寛大にして、高義真実の士なり、大友氏族の人々も、此人こそ英雄なるべしと沙汰しける。其名漸く近国に隠れなし。高橋家の老臣、北原伊賀鎮久、高橋の遺業に成し給はれと頻りに望むに依り、大友家老の人々詮議ありて、宝満岩屋は大事の城郭なり、無才無覚の人を置かるゝ所にあらず、鎮種は若年なれども、器量の人なり、不足あろまじ、其上鎮種は、吉弘が子なれば鑑種が為めにも、一族の中なれば、名字を継ぐも僻事ならず、然らば鑑種が養子と名付け高橋家を相続さすべしとのことなり。爰に於て、高橋氏を冒せり。鑑種此時毛利に通じ、大友に背きしに依り、大友、鑑種を攻めて之を囚ふ。爰に於て高橋が家中絶せしを継ぎしなり。
書き下し
吉弘左近大夫鑑理の子、彌七郎と稱す。高橋氏を冒し、主膳兵衞と改む、後髪を削り紹運と號す。大友氏に仕へ、岩屋城に住す。天正十四年七月二十七日戰死、年三十九。 ○鎭種未だ壯年に足らぬ頃より、度量寬大にして、高義眞實の士なり、大友氏族の人々も、此人こそ英雄なるべしと沙汰しける。其名漸く近國に隱れなし。高橋家の老臣、北原伊賀鎭久、高橋の遺業に成し給はれと頻りに望むに依り、大友家老の人々詮議ありて、寶滿岩屋は大事の城郭なり、無才無覺の人を置かるゝ所にあらず、鎭種は若年なれども、器量の人なり、不足あろまじ、其上鎭種は、吉弘が子なれば鑑種が爲めにも、一族の中なれば、名字を繼ぐも僻事ならず、然らば鑑種が養子と名付け高橋家を相續さすべしとのことなり。爰に於て、高橋氏を冒せり。鑑種此時毛利に通じ、大友に背きしに依り、大友、鑑種を攻めて之を囚ふ。爰に於て高橋が家中絶せしを繼ぎしなり。
現代語訳
吉弘左近大夫鑑理の子で、弥七郎と称しました。高橋氏を継いで主膳兵衛と改め、のちに髪を剃って紹運と号しました。大友氏に仕え、岩屋城に住みました。天正十四年七月二十七日に戦死し、享年三十九でした。 鎭種はまだ壮年に達しないころから、度量が広く、高い義と真実を備えた士でした。大友氏の一族の人々も、「この人こそ英雄であろう」と噂しました。その名は次第に近国に隠れなくなりました。高橋家の老臣、北原伊賀鎭久が、高橋の遺業を成してくださいと頻りに望んだので、大友家の家老たちが評議して、「宝満・岩屋は大事な城郭であり、才も覚えもない人を置く所ではない。鎭種は若年だが器量の人であり、不足はあるまい。そのうえ鎭種は吉弘の子だから、鑑種のためにも一族の中であり、名字を継ぐのも筋違いではない。ならば鑑種の養子と名づけて高橋家を相続させよう」ということになりました。ここにおいて高橋氏を名乗りました。鑑種はこのとき毛利に通じて大友に背いたので、大友は鑑種を攻めて捕らえました。そこで高橋の家中が途絶えたのを継いだのです。
解説

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