名将言行録 / 『名将言行録』高橋鎭種 米山を即日取り返す
○十一年九月、筑紫勢三笠郡を侵す。鎭種、岩屋より打出、筑紫勢と五六日迫合す。筑紫引入りければ鎭種も歸陣せり。其虚を伺ひ、秋月方より忍びやかに兵を出し、米山の城を襲ひ取りたり。此米山と曰ふは、鎭種方より秋月押さへの爲めに構置きたる城なり。鎭種、岩屋にて此由を聞き取る物も取あへず、米山へ發向し、秋月勢に此城を取られては、平生の手柄も水に成ろぞ、只追出せと叫き呼で、攻掛れば、秋月勢酉の刻計りに、却て城を追出され、靡志岐、山口打通り彌須郡指して引いて行く、鎭種勢二里許り追討し、秋月勢を二百餘人打取り、敵の捨たる鎧抔を拾ひ取り、喜び勇みて歸りたり。凡そ戰の習、初め勝軍なれば、士卒の心又勝に乘る、初めの軍に後れを取れば、後の戰六ヶ敷、假りにも敵に小城の一つも取られては、假令其城を取返すことありとも、年月を經て後漸くにして得るぞかし。鎭種は敵に城を乘取られ、即日又其城を取返せり。時に十月二日なり。世に所謂米山軍是なり。 ○鎭種の子、宗茂、立花家へ行く時、鎭種暇乞の盃し、偖曰く、向後は我等を夢にも親と思ふ間敷、明日にも鑑連と弓箭の習、敵味方とも成りなば、鑑連の先鋒と成り、成る程我等を打取るべし、鑑連は常に未練なることを、大に嫌はれ候間、自然不覺にて、鑑連より義絶せられなば岩屋に歸らず、直ぐに潔く自害せらるべしとて、劒を手づから與へられたり。宗茂、終身形身と思ひ、身を放さゞりしとぞ。
新字:○十一年九月、筑紫勢三笠郡を侵す。鎮種、岩屋より打出、筑紫勢と五六日迫合す。筑紫引入りければ鎮種も帰陣せり。其虚を伺ひ、秋月方より忍びやかに兵を出し、米山の城を襲ひ取りたり。此米山と曰ふは、鎮種方より秋月押さへの為めに構置きたる城なり。鎮種、岩屋にて此由を聞き取る物も取あへず、米山へ発向し、秋月勢に此城を取られては、平生の手柄も水に成ろぞ、只追出せと叫き呼で、攻掛れば、秋月勢酉の刻計りに、却て城を追出され、靡志岐、山口打通り弥須郡指して引いて行く、鎮種勢二里許り追討し、秋月勢を二百余人打取り、敵の捨たる鎧抔を拾ひ取り、喜び勇みて帰りたり。凡そ戦の習、初め勝軍なれば、士卒の心又勝に乗る、初めの軍に後れを取れば、後の戦六ヶ敷、仮りにも敵に小城の一つも取られては、仮令其城を取返すことありとも、年月を経て後漸くにして得るぞかし。鎮種は敵に城を乗取られ、即日又其城を取返せり。時に十月二日なり。世に所謂米山軍是なり。 ○鎮種の子、宗茂、立花家へ行く時、鎮種暇乞の盃し、偖曰く、向後は我等を夢にも親と思ふ間敷、明日にも鑑連と弓箭の習、敵味方とも成りなば、鑑連の先鋒と成り、成る程我等を打取るべし、鑑連は常に未練なることを、大に嫌はれ候間、自然不覚にて、鑑連より義絶せられなば岩屋に帰らず、直ぐに潔く自害せらるべしとて、劒を手づから与へられたり。宗茂、終身形身と思ひ、身を放さゞりしとぞ。
書き下し
○十一年九月、筑紫勢三笠郡を侵す。鎭種、岩屋より打出、筑紫勢と五六日迫合す。筑紫引入りければ鎭種も歸陣せり。其虚を伺ひ、秋月方より忍びやかに兵を出し、米山の城を襲ひ取りたり。此米山と曰ふは、鎭種方より秋月押さへの爲めに構置きたる城なり。鎭種、岩屋にて此由を聞き取る物も取あへず、米山へ發向し、秋月勢に此城を取られては、平生の手柄も水に成ろぞ、只追出せと叫き呼で、攻掛れば、秋月勢酉の刻計りに、却て城を追出され、靡志岐、山口打通り彌須郡指して引いて行く、鎭種勢二里許り追討し、秋月勢を二百餘人打取り、敵の捨たる鎧抔を拾ひ取り、喜び勇みて歸りたり。凡そ戰の習、初め勝軍なれば、士卒の心又勝に乘る、初めの軍に後れを取れば、後の戰六ヶ敷、假りにも敵に小城の一つも取られては、假令其城を取返すことありとも、年月を經て後漸くにして得るぞかし。鎭種は敵に城を乘取られ、即日又其城を取返せり。時に十月二日なり。世に所謂米山軍是なり。 ○鎭種の子、宗茂、立花家へ行く時、鎭種暇乞の盃し、偖曰く、向後は我等を夢にも親と思ふ間敷、明日にも鑑連と弓箭の習、敵味方とも成りなば、鑑連の先鋒と成り、成る程我等を打取るべし、鑑連は常に未練なることを、大に嫌はれ候間、自然不覺にて、鑑連より義絶せられなば岩屋に歸らず、直ぐに潔く自害せらるべしとて、劒を手づから與へられたり。宗茂、終身形身と思ひ、身を放さゞりしとぞ。
現代語訳
十一年九月、筑紫勢が三笠郡を侵しました。鎭種は岩屋から打って出て、筑紫勢と五、六日にわたって小競り合いをしました。筑紫勢が引き入ったので、鎭種も陣を引き上げました。その隙をうかがい、秋月方からひそかに兵を出し、米山の城を襲って奪い取りました。この米山というのは、鎭種方が秋月を押さえるために構えておいた城です。鎭種は岩屋でこのことを聞き、取るものも取りあえず米山へ向かい、「秋月勢にこの城を取られては、平生の手柄も水の泡になるぞ。ただ追い出せ」と叫び呼ばわって攻め掛けました。すると秋月勢は酉の刻ごろ、かえって城を追い出され、志岐、山口を通り抜け、弥須郡を指して引いていきました。鎭種勢は二里ほど追い討ちして、秋月勢を二百余人討ち取り、敵が捨てた鎧などを拾い取り、喜び勇んで帰りました。およそ戦の習いは、初めに勝てば士卒の心も勝ちに乗り、初めの戦で後れを取れば、後の戦は難しくなります。かりそめにも敵に小城の一つでも取られれば、たとえその城を取り返すことがあっても、年月を経て後にようやく得られるものです。鎭種は敵に城を乗っ取られながら、その日のうちにまたその城を取り返しました。時に十月二日です。世にいわゆる米山の戦いはこれです。 鎭種の子の宗茂が立花家へ行くとき、鎭種は暇乞いの盃をしたうえで言いました。「これから後は、私を夢にも親と思ってはならない。明日にも鑑連と弓矢の習いで、敵味方となったなら、鑑連の先鋒となって、できるだけ私を討ち取れ。鑑連は常に未練なことを大いに嫌われるから、もし不覚をとって、鑑連から義絶されたなら、岩屋には帰らず、すぐに潔く自害せよ」と言って、剣を手ずから与えました。宗茂は生涯、形見と思い、身から放さなかったということです。
解説

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孫子・作戦篇故に兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを睹ざるなり。
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名将言行録・『名将言行録』高橋鎭種 宗茂を生かす計算其援兵を待ち果せずして當城陷らば運の極めと思ふなり、寶滿に籠るべくは立花こそ勝りたる要害なれば、宗茂と一所に籠るべけれども、安否一大事の軍に大將數人一所に籠らんは上計にあらず、鑑連と其交淺からざりしかば、我は假令切腹すとも、宗茂さへ恙なくばと思ふなり、假令あの大軍寄せたりとも十日支へぬことはよもあらじ、鎭種命を限りに戰ふならば、寄手も三千許りは討つべし、島津勢、鬼神と曰ふとも爰にて三千の勢を討たせたらば、重ねて立花に至て、手強き働成り難かるべし、又立花は名城なり、人も多し、敵攻るとも二十日の中にはよも落ちじ、彼是三十日に過ぐる間に、中國よりの援兵も渡海すべきなり、然らば宗茂運を開くべし、此趣を宗茂に申べしとて攝津守を返されけり。攝津守歸て此由斯くと申ければ、上下何れも感じあへり。人に依て立花より、岩屋へ援兵として倔強の士三十餘人を遣はせり。此者共落城の日一人も残らず討死しけり。同十日より寄手、攻口を定め、晝夜を分たず攻けれども、必死を究めし城兵なれば、少しもひるまず防戰す。寄手、手負死人數知れず、同二十六日、岩屋、外城破れしかば、二三の丸に引取て、猶防ぎ戰ひける、其の日寄手矢留を乞て、新納藏人と名乘り、御城へ物申んと言ひしかば、鎭種、麻生外記と名乘り、櫓の上にて何事ぞと問ふ。
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名将言行録・『名将言行録』高橋鎭種 内通を逆手に取る○天正八年、秋月種實、勢漸く强大に成りしかば、如何にもして近邊の太宰府を手に入ればやと思へども、鎭種智勇兼備の將なる故、事容易に成り難し。種實も武勇に於ては、去る大將なりければ、兼ねて鎭種の老臣北原鎭久は勇あれども、智なく、忠なくして貪る由を聞き、竊に彼方に使を越し、近日太宰府に發向すべし、其方城中に火を掛け、裏切せよ、左あらば鎭種、忽ちに亡ぶべし、其賞には、岩屋か寶滿の中、何れの城なりとも、望み次第に遣すべしとありければ、鎭久子細なく相圖の日限を定めにけり。此事鎭種洩れ聞て、急ぎ鎭久を誅し、又其子進士兵衞を呼びて、汝が父を殺すこと鎭種が僻ごとにあらず、左すれば、我を恨むべからず、相傳の家人なれば、名字を相續せん爲め、命を助くるのみならず、父が遺跡悉く與ふる上は、父が非を悔い家の恥を思て忠義を盡すべし、然らば秋月方へしか/\の由を通ぜよと言ければ、進士兵衞畏り候ひぬとて、秋月方に使を遣り、父鎭久密通破れて命を失ひ候、此憤り默止難く、鎭久が志空く成りしこと是非なく存候、重代の主とは申ながら、此上は親の敵なり、何々の日竊に御勢を賜はり候へ、寶滿に於て御手合はせ仕るべしと言遣はす。種實、何の疑にも及ばず、勝たる士三百餘騎、夜討の支度に出立たせ、差遣はす。十月十八日夜半の頃、寶滿山の麓の本堂寺に着す。鎭種兼ねて隱くし置たる兵共、八方より鬨を作り、秋月勢を眞中に取籠る。夜のことにはあり、敵の策には乘りつ、秋月勢大に仰天し、或は谷に下り、峰に上り、堀川へ飛入抔して逃んとするのみにて、戰んとする者なし、鎭種の兵は案内は知りつ、爰の詰り、彼所の切所に追詰、射伏切伏する間、秋月勢三百餘騎僅に十餘人討洩されて歸りけり。