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講孟余話 / 盡心下 第三十八章

余江戶獄ニテ日蓮宗ノ僧日命ト交ル、日命云フ、佛法ニ攝受折伏アリ、攝受ハ戒ヲ持シ經ヲ念シ、佛意ヲ講明シ、萬世ニ傳フルヲ以テ己カ任トス、天下ノ治乱安危、外道邪魔ノ譏謗是非、毫モ心ニ置クコトナシ、是攝受也、折伏ハ外道邪魔ヲ折伏シ、天下ヲ平治スルヲ以テ己カ任トス、戒ヲ持セス經ヲ念セス、人ノ忿怒ヲ憚ラス、人ノ嫉惡ヲ避ケス、一身ヲ捨テヽ佛道ヲ張ル、是折伏也、日命ハ原ト會津ノ藩士武井某ト云者ニテ、氣力アリ、少時略程朱ノ学及ヒ長沼氏ノ兵法ヲ学フ、已ニ僧ト成テ、所謂折伏ヲ以テ自ラ任トス、余因テ難ス、攝受ハ猥者ノ事ニシテ、折伏ハ狂者ノ事ナラン、但攝受ハ天下ノ治乱安危、外道ノ譏謗是非ヲ顧ミサルト、折伏ハ戒ヲ持セス経ヲ念セサルハ、偏僻ノ甚シキニ非スヤ、又攝受ハ兵ノ正ニシテ、折伏ハ兵ノ奇ナリ、兵ハ正中ニ奇アリ、奇中ニ正アリ、正或ハ時ニ奇トナリ、奇或ハ時ニ正トナル、奇ハ常ニ奇、正ハ常ニ正ナルハ、死定膠固ニ非スヤ、禹稷顏回地ヲ易ヘハ皆然ルノ理ハ何如ニヤト云フ、日命云ク人各能アリ不能アリ、一人ニシテ衆能ヲ兼ネント欲ストモ、決シテ成ルコトナシ、唯細思セヨ、攝受ニシテ折伏ヲ羨マズ、折伏ニシテ攝受ヲ羨マズ、是專精ノ人ニ非ルヨリハ、決シテ能ハサルコト也、且攝受ノ人多ケレハ、佛道自ラ明ラカニ、折伏ノ人多ケレハ、外道自ラ滅ス、然ル後佛意ニ負ムクコトナシ、奇正並ヒ用ヒ、狂猥同シク教ユ、固ヨリ亦佛道ノ要也ト、噫彼異端ノ徒、其偏僻ノ甚シキハ、姑ラク論セスシテ可也、乃チ其道ヲ任スルコト斯ノ如キ、実ニ吾儒ノ慙且惧ルヘキ所ニ非スヤ、

新字:余江戸獄ニテ日蓮宗ノ僧日命ト交ル、日命云フ、仏法ニ摂受折伏アリ、摂受ハ戒ヲ持シ経ヲ念シ、仏意ヲ講明シ、万世ニ伝フルヲ以テ己カ任トス、天下ノ治乱安危、外道邪魔ノ譏謗是非、毫モ心ニ置クコトナシ、是摂受也、折伏ハ外道邪魔ヲ折伏シ、天下ヲ平治スルヲ以テ己カ任トス、戒ヲ持セス経ヲ念セス、人ノ忿怒ヲ憚ラス、人ノ嫉悪ヲ避ケス、一身ヲ捨テヽ仏道ヲ張ル、是折伏也、日命ハ原ト会津ノ藩士武井某ト云者ニテ、気力アリ、少時略程朱ノ学及ヒ長沼氏ノ兵法ヲ学フ、已ニ僧ト成テ、所謂折伏ヲ以テ自ラ任トス、余因テ難ス、摂受ハ猥者ノ事ニシテ、折伏ハ狂者ノ事ナラン、但摂受ハ天下ノ治乱安危、外道ノ譏謗是非ヲ顧ミサルト、折伏ハ戒ヲ持セス経ヲ念セサルハ、偏僻ノ甚シキニ非スヤ、又摂受ハ兵ノ正ニシテ、折伏ハ兵ノ奇ナリ、兵ハ正中ニ奇アリ、奇中ニ正アリ、正或ハ時ニ奇トナリ、奇或ハ時ニ正トナル、奇ハ常ニ奇、正ハ常ニ正ナルハ、死定膠固ニ非スヤ、禹稷顔回地ヲ易ヘハ皆然ルノ理ハ何如ニヤト云フ、日命云ク人各能アリ不能アリ、一人ニシテ衆能ヲ兼ネント欲ストモ、決シテ成ルコトナシ、唯細思セヨ、摂受ニシテ折伏ヲ羨マズ、折伏ニシテ摂受ヲ羨マズ、是専精ノ人ニ非ルヨリハ、決シテ能ハサルコト也、且摂受ノ人多ケレハ、仏道自ラ明ラカニ、折伏ノ人多ケレハ、外道自ラ滅ス、然ル後仏意ニ負ムクコトナシ、奇正並ヒ用ヒ、狂猥同シク教ユ、固ヨリ亦仏道ノ要也ト、噫彼異端ノ徒、其偏僻ノ甚シキハ、姑ラク論セスシテ可也、乃チ其道ヲ任スルコト斯ノ如キ、実ニ吾儒ノ慚且惧ルヘキ所ニ非スヤ、

書き下し

余江戸獄にて日蓮宗の僧日命と交る。日命云ふ、「仏法に摂受・折伏あり。摂受は戒を持し経を念じ、仏意を講明し、万世に伝ふるを以て己が任とす。天下の治乱安危、外道邪魔の譏謗是非、毫も心に置くことなし、是れ摂受なり。折伏は外道邪魔を折伏し、天下を平治するを以て己が任とす。戒を持せず経を念ぜず、人の忿怒を憚らず、人の嫉悪を避けず、一身を捨てて仏道を張る、是れ折伏なり」と。日命は原と会津の藩士武井某と云ふ者にて、気力あり、少時略程朱の学及び長沼氏の兵法を学ぶ。已に僧と成りて、所謂折伏を以て自ら任とす。余因りて難ず、「摂受は獧者の事にして、折伏は狂者の事ならん。但だ摂受は天下の治乱安危、外道の譏謗是非を顧みざると、折伏は戒を持せず経を念ぜざるは、偏僻の甚しきに非ずや。又摂受は兵の正にして、折伏は兵の奇なり。兵は正中に奇あり、奇中に正あり、正或は時に奇となり、奇或は時に正となる。奇は常に奇、正は常に正なるは、死定膠固に非ずや。禹・稷・顔回地を易ふれば皆然るの理は何如にや」と云ふ。日命云く、「人各々能あり不能あり。一人にして衆能を兼ねんと欲すとも、決して成ることなし。唯だ細思せよ、摂受にして折伏を羨まず、折伏にして摂受を羨まず、是れ専精の人に非ざるよりは、決して能はざることなり。且つ摂受の人多ければ、仏道自ら明らかに、折伏の人多ければ、外道自ら滅す。然る後仏意に負くことなし。奇正並び用ひ、狂獧同じく教ゆ、固より亦仏道の要なり」と。噫、彼の異端の徒、其の偏僻の甚しきは、姑く論ぜずして可なり。乃ち其の道を任ずること斯くの如き、実に吾が儒の慙ぢ且つ懼るべき所に非ずや。

現代語訳

私は江戸の獄で、日蓮宗の僧・日命と交わった。日命はこう言った。「仏法には摂受と折伏がある。摂受とは、戒律を守り経を唱え、仏の心を説き明かして万世に伝えることを自分の任務とするもので、天下の治乱や安危、外道や悪魔のそしりや是非は少しも心にかけない。これが摂受である。折伏とは、外道や悪魔を打ち破り、天下を平らかに治めることを自分の任務とするもので、戒律も守らず経も唱えず、人の怒りもはばからず、人の憎しみも避けず、一身を捨てて仏道を広める。これが折伏である」。日命はもと会津藩士の武井某という人で、気力があり、若いころ程朱の学と長沼流の兵法をひととおり学んだ。僧となってからは、いわゆる折伏を自分の任務としていた。私はそこで反論した。「摂受は狷者のこと、折伏は狂者のことだろう。ただ、摂受が天下の治乱安危や外道のそしりを顧みず、折伏が戒律を守らず経を唱えないのは、偏りもはなはだしいのではないか。また摂受は兵法の正、折伏は兵法の奇である。兵法では正の中に奇があり、奇の中に正があり、正が時に奇となり、奇が時に正となる。奇がいつも奇、正がいつも正では、固まって動かないものではないか。禹・稷・顔回が立場を入れ替えれば皆同じようにしただろう、という道理はどうなのか」。日命は言った。「人にはそれぞれできることとできないことがある。一人で多くの能力を兼ねようとしても、決してうまくいかない。よく考えてほしい。摂受の者が折伏をうらやまず、折伏の者が摂受をうらやまないのは、一つに打ち込む人でなければ決してできないことだ。しかも摂受の人が多ければ仏道はおのずから明らかになり、折伏の人が多ければ外道はおのずから滅びる。そうしてはじめて仏の心に背かない。奇と正を並べ用い、狂者も狷者も同じく教える。これはもとより仏道の要でもある」。ああ、あの異端の徒の偏りのはなはだしさは、しばらく論じなくてよい。だが、その道を自分の任とすることがこれほどであるのは、まことにわれわれ儒者の恥じ、恐れるべきところではないか。

解説

江戸の獄で出会った日蓮宗の僧日命は元会津藩士で、教えを守り伝える「摂受」と、外道を打ち破る「折伏」の二つの道を語りました。松陰はそれを狷者と狂者に当てはめ、兵法の奇正のように時に応じて使い分けるべきだと反論します。日命は、人には向き不向きがあり、それぞれが自分の役に徹してこそ全体が成り立つと答えました。松陰は異端の論と断りながらも、自分の道に身を捧げるその気概には、儒者こそ恥じ入るべきだと率直に認めます。立場の違う相手からも学ぶ柔らかさと、役割分担の知恵が詰まった一節です。

この章句が説くこと

役割分担摂受折伏専心異端

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