名将言行録 / 『名将言行録』高橋鎭種 降伏の使者を断る
新納曰く、偖も此間鎭種公小勢を以て大軍を引受け、堅固に相支られしこと誠に神妙の至りなり、當城にて義死を遂げらるべしとの御覺悟感入たり、去ながら義者は不仁者の爲めに死せずとぞ承はりしに、如何なれば、鎭種公程の義士、無道の大友に與みし給ふや、大友は政道理に背き、人の恨みを積み、剩へ切支丹に成りて、古今未曾有の惡行あり、去る故にこそ旗下國々の諸士に疎み果てられ、一度も戰に勝たず、所々の所領皆失はれたり、島津事は、毎事順道に執行ひ、招かざるに人來り、勢付き、早や七八ヶ國取り治めたり、此上は鎭種公、御降參あれかしとの使にて候とありしかば、外記之を聞き、仰せの趣鎭種に申達するまでもなし、外記爰にて義の當れる所を申すべし、能く聞かれ候へ、總て盛衰消長は時の運にて、細川、畠山、赤松、山名を始めとして、今川、武田近國にて尼子、大内、一度は盛に、一度は衰へずと言ふことなし、鎭種今の限に成りて、よも胄を脱ぎて降を乞ひ候はんや、大友の家も頼朝の時よりして子孫國を受け傳へぬれど、日向の軍破れしより此方、二心ある者多く出來て、今斯く衰へたり。去れど今にも秀吉公大軍を以て九州に渡らせ給ひ、薩摩に攻入られんに、鹿兒島の破れんことも又遠からじ、勢盡き運盡きぬるを見て、志を變ずるは弓箭執る身の恥辱にて、人に指彈せらるべし、松壽千年、終には崩ることぞかし、人生は朝露の日影を待つが如し、只永く世に殘らんものは、名義に在りと覺え候程に、降參は仕らじと高聲に呼はりければ、新納も詮方なくて歸りける。
新字:新納曰く、偖も此間鎮種公小勢を以て大軍を引受け、堅固に相支られしこと誠に神妙の至りなり、当城にて義死を遂げらるべしとの御覚悟感入たり、去ながら義者は不仁者の為めに死せずとぞ承はりしに、如何なれば、鎮種公程の義士、無道の大友に与みし給ふや、大友は政道理に背き、人の恨みを積み、剰へ切支丹に成りて、古今未曽有の悪行あり、去る故にこそ旗下国々の諸士に疎み果てられ、一度も戦に勝たず、所々の所領皆失はれたり、島津事は、毎事順道に執行ひ、招かざるに人来り、勢付き、早や七八ヶ国取り治めたり、此上は鎮種公、御降参あれかしとの使にて候とありしかば、外記之を聞き、仰せの趣鎮種に申達するまでもなし、外記爰にて義の当れる所を申すべし、能く聞かれ候へ、総て盛衰消長は時の運にて、細川、畠山、赤松、山名を始めとして、今川、武田近国にて尼子、大内、一度は盛に、一度は衰へずと言ふことなし、鎮種今の限に成りて、よも胄を脱ぎて降を乞ひ候はんや、大友の家も頼朝の時よりして子孫国を受け伝へぬれど、日向の軍破れしより此方、二心ある者多く出来て、今斯く衰へたり。去れど今にも秀吉公大軍を以て九州に渡らせ給ひ、薩摩に攻入られんに、鹿児島の破れんことも又遠からじ、勢尽き運尽きぬるを見て、志を変ずるは弓箭執る身の恥辱にて、人に指弾せらるべし、松寿千年、終には崩ることぞかし、人生は朝露の日影を待つが如し、只永く世に残らんものは、名義に在りと覚え候程に、降参は仕らじと高声に呼はりければ、新納も詮方なくて帰りける。
書き下し
新納曰く、偖も此間鎭種公小勢を以て大軍を引受け、堅固に相支られしこと誠に神妙の至りなり、當城にて義死を遂げらるべしとの御覺悟感入たり、去ながら義者は不仁者の爲めに死せずとぞ承はりしに、如何なれば、鎭種公程の義士、無道の大友に與みし給ふや、大友は政道理に背き、人の恨みを積み、剩へ切支丹に成りて、古今未曾有の惡行あり、去る故にこそ旗下國々の諸士に疎み果てられ、一度も戰に勝たず、所々の所領皆失はれたり、島津事は、毎事順道に執行ひ、招かざるに人來り、勢付き、早や七八ヶ國取り治めたり、此上は鎭種公、御降參あれかしとの使にて候とありしかば、外記之を聞き、仰せの趣鎭種に申達するまでもなし、外記爰にて義の當れる所を申すべし、能く聞かれ候へ、總て盛衰消長は時の運にて、細川、畠山、赤松、山名を始めとして、今川、武田近國にて尼子、大内、一度は盛に、一度は衰へずと言ふことなし、鎭種今の限に成りて、よも胄を脱ぎて降を乞ひ候はんや、大友の家も頼朝の時よりして子孫國を受け傳へぬれど、日向の軍破れしより此方、二心ある者多く出來て、今斯く衰へたり。去れど今にも秀吉公大軍を以て九州に渡らせ給ひ、薩摩に攻入られんに、鹿兒島の破れんことも又遠からじ、勢盡き運盡きぬるを見て、志を變ずるは弓箭執る身の恥辱にて、人に指彈せらるべし、松壽千年、終には崩ることぞかし、人生は朝露の日影を待つが如し、只永く世に殘らんものは、名義に在りと覺え候程に、降參は仕らじと高聲に呼はりければ、新納も詮方なくて歸りける。
現代語訳
新納が言いました。「さてもこの間、鎭種公は小勢をもって大軍を引き受け、堅固に支えておられること、誠に神妙の至りです。当城で義死を遂げられるべしとの御覚悟、感じ入りました。しかしながら、義者は不仁者のために死なずと承っておりますのに、どうして鎭種公ほどの義士が、無道の大友にお味方なさるのですか。大友は政道が道理に背き、人の恨みを積み、そのうえキリシタンになって、古今未曾有の悪行があります。そのために、旗下の国々の諸士にすっかり疎まれ、一度も戦に勝てず、所々の所領はみな失われました。島津は、何事も順道に執り行い、招かなくても人が来て、勢いがつき、早くも七、八か国を取り治めました。この上は鎭種公、御降参あれ、との使いでございます」と。外記はこれを聞き、「仰せの趣は鎭種に申し達するまでもない。外記がここで、義の当たるところを申し上げる。よく聞かれよ。総じて盛衰消長は時の運で、細川、畠山、赤松、山名をはじめ、今川、武田、近国では尼子、大内も、一度は盛んに、一度は衰えないということがない。鎭種が今際の際になって、よもや胄を脱いで降参を乞うことがあろうか。大友の家も、頼朝の時から子孫が国を受け伝えてきたが、日向の戦に敗れてからこのかた、二心ある者が多く出て、今こうして衰えた。しかし今にも秀吉公が大軍をもって九州に渡られ、薩摩に攻め入られるなら、鹿児島の破れることもまた遠くない。勢いが尽き運が尽きたのを見て志を変えるのは、弓矢を取る身の恥辱で、人に指弾されるだろう。松は千年といえども、ついには崩れるものである。人生は朝露が日影を待つようなものである。ただ永く世に残るものは、名と義にあると覚えるので、降参はしない」と高らかに呼ばわったので、新納も仕方なく帰りました。
解説

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