智囊 / 雄略・白瑾妻
白瑾妻,山陰葛氏女也。瑾素弱,葛善為調節,使讀書。成化中,以進士為分宜令,葛與俱往。其明年,瑾病癒時,而庫所貯折銀尚數千兩,鄰境有因飢作亂者,聚徒百人,將劫取。縣固無城郭,寇卒至,諸薄丞挈家去匿,葛獨分命家人力拒其兩門,乃遷白公於他室,埋其銀污池中,著公之服,升堂以候賊。賊至,則陽為好語相勞苦,盡出其所私藏釵珥衣服諸物以與賊,賊謝而去,不知陰已表識,竟物色捕得之。〔議〕白公衣,合讓與此婦穿戴。
新字:白瑾妻,山陰葛氏女也。瑾素弱,葛善為調節,使読書。成化中,以進士為分宜令,葛与倶往。其明年,瑾病癒時,而庫所貯折銀尚数千両,鄰境有因飢作乱者,聚徒百人,将劫取。県固無城郭,寇卒至,諸薄丞挈家去匿,葛独分命家人力拒其両門,乃遷白公於他室,埋其銀汚池中,著公之服,升堂以候賊。賊至,則陽為好語相労苦,尽出其所私蔵釵珥衣服諸物以与賊,賊謝而去,不知陰已表識,竟物色捕得之。〔議〕白公衣,合譲与此婦穿戴。
書き下し
白瑾の妻は、山陰の葛氏の女である。瑾は素より弱く、葛は善く調節し、書を読ませた。成化中、進士を以て分宜の令となり、葛はともに往った。その明年、瑾の病が癒えたとき、庫に貯えた折銀はなお数千両あった。鄰境に飢えによって乱を作した者があり、徒を聚めること百人、まさに劫取しようとした。県は固より城郭がなく、寇が卒かに至ると、諸薄丞は家を挈えて去り匿れた。葛は独り家人に命じて分けて其の両門を力拒させ、乃ち白公を他室に遷し、その銀を汚池の中に埋め、公の服を著て、堂に升って賊を候った。賊が至ると、陽て好語で相い労苦し、尽くその私かに蔵する釵珥衣服の諸物を出して賊に与えた。賊は謝して去り、陰かに已に表識したことを知らず、竟に物色して捕らえることを得た。〔議〕白公の衣は、合に此の婦に譲り与えて穿戴させるべきである。
現代語訳
白瑾の妻は、山陰の葛氏の娘である。瑾はもともと体が弱く、葛氏は上手に養生を調え、書を読ませた。成化年間に、進士として分宜の県令となり、葛氏も同行した。その翌年、瑾の病気が治ったころ、県の倉庫に貯えていた銀はまだ数千両あった。隣の県で飢饉のために反乱を起こした者がいて、百人ほどを集め、倉庫の銀を奪おうとした。県にはもともと城壁がなく、賊が突然やって来ると、下役の役人たちは家族を連れて逃げ隠れた。葛氏だけが家人に命じて二つの門を分担して必死に防がせ、そのうえで白公を別の部屋に移し、銀を汚い池の中に埋めて、自分は白公の服を着て、広間に上がって賊を待った。賊が来ると、わざと親しげな言葉でねぎらい、自分がひそかに持っていたかんざしや耳飾り、衣類などをすべて賊に与えた。賊は礼を言って去ったが、すでに密かに目印をつけられていたことを知らず、結局探し出して捕らえることができた。〔議〕白公の官服は、この婦人に譲って着せるべきである。
解説
この章句が説くこと
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