名将言行録 / 『名将言行録』高橋鎭種 島津への返書
○大友義統、秀吉に謁して曰く、大友家は代々九州の探題にて候所、此八九年の間、龍造寺秋月等某に反き己が意を恣にす、其外の侍共朝には、秋月に與みし、夕には龍造寺に心を合はせ、恥を知らぬ者共計りなるに、戸次鑑連、高橋鎭種兩人は、名を惜み義を專らにし、恥ある侍なれば殿下の御家人に召置かるべくもや候、と薦めしかば、秀吉頃て朱印を賜はり、家人にぞ加へられける。 ○十四年七月六日、島津義久、大兵を以て一の瀨の城を攻破り、其勢風雨の如し。同十日筑紫廣門軍門に降れり。鎭種之を聞て、戒嚴す。筑紫が家人共鎭種に向ひ、廣門は島津へ降參致しけれども、是は一旦の策にて候べし、然らば彌七郎統增御事、今廣門御緣者にて候へば、終に主君に任ふることなれば、統增を主とし、寶滿城を持ち申べくと言ふ。此時統增敵の方に在り鎭種曰く、弱年の統增を寶滿に籠めんこと如何なれども、彼城敵に取られては當城持抱へ難しとありて、統增を奪て、寶滿に籠む。依て筑紫家の郎等悉く寶滿に楯籠れり。十三日、島津の大兵太宰府に攻寄せたることは、鎭種に對し、弓箭執るべきにあらず、筑紫廣門二心あるに依り、之を討つべき爲めにて、既に廣門を生捕り、筑紫家既に當家に屬する所に、息彌七郎を大將として寶滿に籠め、彼家人共を招き、城を持たるゝこと言はれなし、速に渡し賜はるべし、然らずば岩屋を即時に攻落すべしと言遣はす。鎭種返事に、先づ一言の仰せもなく、某が守り居る城下を馬蹄に蹴散されしこと、弓箭の禮にあらずと申べし、剩へ寶滿を相渡すべきの由、更に合點參らず、今日にありては、關白秀吉公に屬したれば、寶滿も岩屋も、關白の城なり、然るを私に渡し申こと存じも寄らず、是まで寄せられし上は、當城を攻められよ、弓箭を執て兎も角も能き樣に申談ずべし、且つ龍造寺、秋月抔は多年威を逞しく致せし者共なるが、何つしか其方の麾下につくばひ、義を忘れ恥を知らざる者なり、又筑紫事は弱々と城を落されたり、鎭種は夫等には似るべからず、義の一戰を一命限りに致すべしと返事せり。偖又立花宗茂より鎭種の方に、十時攝津守を使者として、其城の義、地の利宜しからず、寶滿は要害宜しければ、統增と一所に御籠り候へ、秀吉公よりの援兵も頃て關の戸を越したると承はり候、彼勢待受られん程は、堅固なる地に御籠城ありて、然るべしとの由申越す。
新字:○大友義統、秀吉に謁して曰く、大友家は代々九州の探題にて候所、此八九年の間、竜造寺秋月等某に反き己が意を恣にす、其外の侍共朝には、秋月に与みし、夕には竜造寺に心を合はせ、恥を知らぬ者共計りなるに、戸次鑑連、高橋鎮種両人は、名を惜み義を専らにし、恥ある侍なれば殿下の御家人に召置かるべくもや候、と薦めしかば、秀吉頃て朱印を賜はり、家人にぞ加へられける。 ○十四年七月六日、島津義久、大兵を以て一の瀨の城を攻破り、其勢風雨の如し。同十日筑紫広門軍門に降れり。鎮種之を聞て、戒厳す。筑紫が家人共鎮種に向ひ、広門は島津へ降参致しけれども、是は一旦の策にて候べし、然らば弥七郎統增御事、今広門御縁者にて候へば、終に主君に任ふることなれば、統增を主とし、宝満城を持ち申べくと言ふ。此時統增敵の方に在り鎮種曰く、弱年の統增を宝満に籠めんこと如何なれども、彼城敵に取られては当城持抱へ難しとありて、統增を奪て、宝満に籠む。依て筑紫家の郎等悉く宝満に楯籠れり。十三日、島津の大兵太宰府に攻寄せたることは、鎮種に対し、弓箭執るべきにあらず、筑紫広門二心あるに依り、之を討つべき為めにて、既に広門を生捕り、筑紫家既に当家に属する所に、息弥七郎を大将として宝満に籠め、彼家人共を招き、城を持たるゝこと言はれなし、速に渡し賜はるべし、然らずば岩屋を即時に攻落すべしと言遣はす。鎮種返事に、先づ一言の仰せもなく、某が守り居る城下を馬蹄に蹴散されしこと、弓箭の礼にあらずと申べし、剰へ宝満を相渡すべきの由、更に合点参らず、今日にありては、関白秀吉公に属したれば、宝満も岩屋も、関白の城なり、然るを私に渡し申こと存じも寄らず、是まで寄せられし上は、当城を攻められよ、弓箭を執て兎も角も能き様に申談ずべし、且つ竜造寺、秋月抔は多年威を逞しく致せし者共なるが、何つしか其方の麾下につくばひ、義を忘れ恥を知らざる者なり、又筑紫事は弱々と城を落されたり、鎮種は夫等には似るべからず、義の一戦を一命限りに致すべしと返事せり。偖又立花宗茂より鎮種の方に、十時摂津守を使者として、其城の義、地の利宜しからず、宝満は要害宜しければ、統增と一所に御籠り候へ、秀吉公よりの援兵も頃て関の戸を越したると承はり候、彼勢待受られん程は、堅固なる地に御籠城ありて、然るべしとの由申越す。
書き下し
○大友義統、秀吉に謁して曰く、大友家は代々九州の探題にて候所、此八九年の間、龍造寺秋月等某に反き己が意を恣にす、其外の侍共朝には、秋月に與みし、夕には龍造寺に心を合はせ、恥を知らぬ者共計りなるに、戸次鑑連、高橋鎭種兩人は、名を惜み義を專らにし、恥ある侍なれば殿下の御家人に召置かるべくもや候、と薦めしかば、秀吉頃て朱印を賜はり、家人にぞ加へられける。 ○十四年七月六日、島津義久、大兵を以て一の瀨の城を攻破り、其勢風雨の如し。同十日筑紫廣門軍門に降れり。鎭種之を聞て、戒嚴す。筑紫が家人共鎭種に向ひ、廣門は島津へ降參致しけれども、是は一旦の策にて候べし、然らば彌七郎統增御事、今廣門御緣者にて候へば、終に主君に任ふることなれば、統增を主とし、寶滿城を持ち申べくと言ふ。此時統增敵の方に在り鎭種曰く、弱年の統增を寶滿に籠めんこと如何なれども、彼城敵に取られては當城持抱へ難しとありて、統增を奪て、寶滿に籠む。依て筑紫家の郎等悉く寶滿に楯籠れり。十三日、島津の大兵太宰府に攻寄せたることは、鎭種に對し、弓箭執るべきにあらず、筑紫廣門二心あるに依り、之を討つべき爲めにて、既に廣門を生捕り、筑紫家既に當家に屬する所に、息彌七郎を大將として寶滿に籠め、彼家人共を招き、城を持たるゝこと言はれなし、速に渡し賜はるべし、然らずば岩屋を即時に攻落すべしと言遣はす。鎭種返事に、先づ一言の仰せもなく、某が守り居る城下を馬蹄に蹴散されしこと、弓箭の禮にあらずと申べし、剩へ寶滿を相渡すべきの由、更に合點參らず、今日にありては、關白秀吉公に屬したれば、寶滿も岩屋も、關白の城なり、然るを私に渡し申こと存じも寄らず、是まで寄せられし上は、當城を攻められよ、弓箭を執て兎も角も能き樣に申談ずべし、且つ龍造寺、秋月抔は多年威を逞しく致せし者共なるが、何つしか其方の麾下につくばひ、義を忘れ恥を知らざる者なり、又筑紫事は弱々と城を落されたり、鎭種は夫等には似るべからず、義の一戰を一命限りに致すべしと返事せり。偖又立花宗茂より鎭種の方に、十時攝津守を使者として、其城の義、地の利宜しからず、寶滿は要害宜しければ、統增と一所に御籠り候へ、秀吉公よりの援兵も頃て關の戸を越したると承はり候、彼勢待受られん程は、堅固なる地に御籠城ありて、然るべしとの由申越す。
現代語訳
大友義統が秀吉に謁見して言いました。「大友家は代々九州の探題でございましたが、この八、九年の間、龍造寺や秋月らが私に背いて勝手気ままにしております。そのほかの侍どもも、朝には秋月に味方し、夕方には龍造寺に心を合わせ、恥を知らない者ばかりでございますが、戸次鑑連、高橋鎭種の両人は、名を惜しみ義をもっぱらにする、恥を知る侍でございますので、殿下の御家人にお召し置きいただけませんでしょうか」と推薦しました。秀吉はほどなく朱印を与え、家人に加えられました。 十四年七月六日、島津義久が大兵をもって一の瀬の城を攻め破りました。その勢いは風雨のようでした。同月十日、筑紫広門が軍門に降りました。鎭種はこれを聞いて、警戒を厳しくしました。筑紫の家人たちが鎭種に向かい、「広門は島津へ降参いたしましたが、これは一時の策でございましょう。ならば弥七郎統増様は、今、広門殿のご縁者でございますから、ついには主君にお仕えになることになります。統増様を主として、宝満城をお守りしたい」と言いました。このとき統増は敵方におりました。鎭種は、「若年の統増を宝満に籠めるのはどうかとも思うが、あの城を敵に取られては、この城を守り通すのは難しい」と言って、統増を奪い返して宝満に籠めました。よって筑紫家の郎等はことごとく宝満に立てこもりました。十三日、島津の大兵が太宰府に攻め寄せたことについて、島津方は、「鎭種に対して弓矢を取るのではない。筑紫広門に二心があるのでこれを討つためで、すでに広門を生け捕り、筑紫家はすでに当家に属している。それなのに息子の弥七郎を大将として宝満に籠め、その家人たちを招き、城を持たれるのはいわれがない。速やかに渡されたい。そうでなければ岩屋を即時に攻め落とす」と言ってよこしました。鎭種の返事は、「まず一言の仰せもなく、私が守っている城下を馬蹄で蹴散らされたこと、弓矢の礼ではないと申すべきです。そのうえ、宝満を引き渡せとのこと、まったく合点がまいりません。今日においては関白秀吉公に属しておりますので、宝満も岩屋も関白の城です。それを私に渡し申すなど思いもよりません。ここまで寄せられた以上、当城を攻められよ。弓矢を取って、とにもかくにもよいように申し談じましょう。また龍造寺、秋月などは多年威を振るってきた者どもですが、いつの間にかそちらの麾下に屈し、義を忘れ恥を知らない者です。また筑紫のことは、弱々と城を落とされました。鎭種はそれらとは似るべくもありません。義の一戦を一命限りに致します」というものでした。さてまた立花宗茂から鎭種の方へ、十時摂津守を使者として、「その城は地の利がよくありません。宝満は要害が優れていますから、統増と一緒にお籠もりください。秀吉公からの援兵も、まもなく関の戸を越えたと承っております。その勢を待ち受けるあいだは、堅固な地にご籠城なさるのがよいでしょう」と言ってよこしました。
解説

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『春秋左氏伝』哀公十四年 陳恒、簡公を弑す六月、左師巢をして之を伐たしむ。大夫を質として以て入らんと欲す。能はず。亦た曹に入りて質を取らんとす。魋曰く、「不可なり。既に君に事ふる能はず、又罪を民に得ば、將に之を若何せん」と。乃ち之を舍(ゆる)す。民遂に之に叛く。向魋衛に奔る。向巢來奔す。宋公之を止めしめて曰く、「寡人子と言有り。以て向氏の祀を絕つ可からず」と。辭して曰く、「臣の罪大なり。盡く桓氏を滅ぼすも可なり。若し先臣の故を以て、後有らしめば、君の惠なり。臣の若きは則ち以て入る可からず」と。司馬牛其の邑と珪とを致して、齊に適く。向魋衛の地に出づ。公文氏之を攻め、夏后氏の璜を求む。之に他の玉を與へて、齊に奔る。陳成子次卿と為さしむ。司馬牛又其の邑を致して、吳に適く。吳人之を惡みて反る。趙簡子之を召き、陳成子も亦た之を召く。魯の郭門の外に卒す。阬氏諸を丘輿に葬る。甲午、齊の陳恆其の君壬を舒州に弒す。孔丘三日齊(ものいみ)して、齊を伐たんことを請ふこと三たび。公曰く、「魯の齊の為に弱めらるること久し。子の之を伐つ、將に之を若何せん」と。對へて曰く、「陳恆其の君を弒す。民の與せざる者半ばなり。魯の眾を以て、齊の半ばに加へば、克つ可きなり」と。公曰く、「子季孫に告げよ」と。孔子辭す。退きて人に告げて曰く、「吾大夫の後に從ふを以てなり。故に敢へて言はずんばあらず」と。初め孟孺子洩將に馬を成に圉(か)はんとす。成の宰公孫宿受けずして曰く、「孟孫成の病なるが為に、焉に馬を圉はず」と。孺子怒り、成を襲ふ。從者入るを得ず。乃ち反る。成の有司使ひす。孺子之を鞭うつ。秋八月辛丑、孟懿子卒す。成人喪に奔る。內(い)れず。袒免して衢に哭し、共を聽かんとす。許さず。懼れて歸らず。
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