名将言行録 / 『名将言行録』高橋鎭種 約束と握り飯
○鎭種若き時、兄の鎭理、齋藤兵部少輔鎭實の妹を、鎭種の妻に約束せり。其砌豐前中國と軍ありて、殊に騷ヶ敷、迎ひ取らずして打過ぎぬ。其後鎭種、鎭實に對面の折柄、兄が申替はせし如く迎ひ取るべきに、軍の最中にて、斯くは遲はなりたり。頃て迎ひ申さんとありしに、鎭實げに/\申替はせしは忘るべくも候はねど、其後妹は痘瘡を煩て、以の外に見苦敷成りぬ、中々彼が有樣にて、見屆らるべきにあらず、今にては參らせんこと叶ひ難しと言ふ。鎭種、色を替へ、存じも寄らざる仰を承はるもの哉、齋藤家は先祖大友家にて、武勇逞き弓執にて御座れば、兄にて候者の迎ひ申さんと約束しつることに候、夫に辭退も候まじ、我は少しも色を好む心に候はずとて、頃て迎へ取てけり。 ○鎭種、鑑俊を夜討にせし時、味方の士四十七人雜兵とも百九人あり、何れも所持の飯を取出し食しけるに、滯りなく食したる者は僅に八人に過ぎず、其餘は喉に下らず、鎭種之を見て曰く、數千の味方、或は手負、或は打死、纔に相殘りしは上下に寄らず、一人當千のものどもなり、人が死するより大なることなし、男たるものが死したるとも、食せずば何を力にして死すべきぞ、是見られよと言て、大なる握飯を四つ五つ食しければ、何れも之を見て、一度に残らず食しけるとぞ。 名教訓なるかな。
新字:○鎮種若き時、兄の鎮理、斎藤兵部少輔鎮実の妹を、鎮種の妻に約束せり。其砌豊前中国と軍ありて、殊に騷ヶ敷、迎ひ取らずして打過ぎぬ。其後鎮種、鎮実に対面の折柄、兄が申替はせし如く迎ひ取るべきに、軍の最中にて、斯くは遅はなりたり。頃て迎ひ申さんとありしに、鎮実げに/\申替はせしは忘るべくも候はねど、其後妹は痘瘡を煩て、以の外に見苦敷成りぬ、中々彼が有様にて、見届らるべきにあらず、今にては参らせんこと叶ひ難しと言ふ。鎮種、色を替へ、存じも寄らざる仰を承はるもの哉、斎藤家は先祖大友家にて、武勇逞き弓執にて御座れば、兄にて候者の迎ひ申さんと約束しつることに候、夫に辞退も候まじ、我は少しも色を好む心に候はずとて、頃て迎へ取てけり。 ○鎮種、鑑俊を夜討にせし時、味方の士四十七人雑兵とも百九人あり、何れも所持の飯を取出し食しけるに、滞りなく食したる者は僅に八人に過ぎず、其余は喉に下らず、鎮種之を見て曰く、数千の味方、或は手負、或は打死、纔に相残りしは上下に寄らず、一人当千のものどもなり、人が死するより大なることなし、男たるものが死したるとも、食せずば何を力にして死すべきぞ、是見られよと言て、大なる握飯を四つ五つ食しければ、何れも之を見て、一度に残らず食しけるとぞ。 名教訓なるかな。
書き下し
○鎭種若き時、兄の鎭理、齋藤兵部少輔鎭實の妹を、鎭種の妻に約束せり。其砌豐前中國と軍ありて、殊に騷ヶ敷、迎ひ取らずして打過ぎぬ。其後鎭種、鎭實に對面の折柄、兄が申替はせし如く迎ひ取るべきに、軍の最中にて、斯くは遲はなりたり。頃て迎ひ申さんとありしに、鎭實げに/\申替はせしは忘るべくも候はねど、其後妹は痘瘡を煩て、以の外に見苦敷成りぬ、中々彼が有樣にて、見屆らるべきにあらず、今にては參らせんこと叶ひ難しと言ふ。鎭種、色を替へ、存じも寄らざる仰を承はるもの哉、齋藤家は先祖大友家にて、武勇逞き弓執にて御座れば、兄にて候者の迎ひ申さんと約束しつることに候、夫に辭退も候まじ、我は少しも色を好む心に候はずとて、頃て迎へ取てけり。 ○鎭種、鑑俊を夜討にせし時、味方の士四十七人雜兵とも百九人あり、何れも所持の飯を取出し食しけるに、滯りなく食したる者は僅に八人に過ぎず、其餘は喉に下らず、鎭種之を見て曰く、數千の味方、或は手負、或は打死、纔に相殘りしは上下に寄らず、一人當千のものどもなり、人が死するより大なることなし、男たるものが死したるとも、食せずば何を力にして死すべきぞ、是見られよと言て、大なる握飯を四つ五つ食しければ、何れも之を見て、一度に残らず食しけるとぞ。 名教訓なるかな。
現代語訳
鎭種が若いとき、兄の鎭理が、斎藤兵部少輔鎭実の妹を鎭種の妻にと約束しました。そのころ豊前と中国方面との戦があり、ことに騒がしくて、迎え取らないまま時が過ぎました。その後、鎭種が鎭実に対面したとき、「兄が申し交わしたとおり迎え取るべきところ、戦の最中でこのように遅くなりました。近いうちに迎えたく存じます」と言いました。すると鎭実は、「いかにも、申し交わしたことは忘れてはおりませんが、その後、妹は痘瘡を患い、もってのほか見苦しくなりました。とてもその有り様では、お目にかけられるものではありません。今となっては差し上げることは難しい」と言いました。鎭種は顔色を変え、「思いもよらぬことを承るものです。斎藤家は先祖が大友家で、武勇に優れた弓取りでございますから、兄が迎えると約束したことなのです。それを辞退なさることはありますまい。私は少しも色を好む心はございません」と言って、ほどなく迎え取りました。 鎭種が鑑俊を夜討ちにしたとき、味方の士は四十七人、雑兵ともで百九人でした。どの者も持っていた飯を取り出して食べましたが、滞りなく食べられた者はわずか八人に過ぎず、その他は喉を通りませんでした。鎭種はこれを見て言いました。「数千いた味方は、あるいは傷を負い、あるいは討死し、わずかに残ったのは、上下を問わず一人で千人に当たる者どもだ。人が死ぬことより大きなことはない。男が死ぬにしても、食べなければ何を力として死ねるだろうか。これを見よ」と言って、大きな握り飯を四つ五つ食べました。皆はこれを見て、一度に残らず食べたということです。 名教訓であるなあ。
解説

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