名将言行録 / 『名将言行録』高橋鎭種 内通を逆手に取る
○天正八年、秋月種實、勢漸く强大に成りしかば、如何にもして近邊の太宰府を手に入ればやと思へども、鎭種智勇兼備の將なる故、事容易に成り難し。種實も武勇に於ては、去る大將なりければ、兼ねて鎭種の老臣北原鎭久は勇あれども、智なく、忠なくして貪る由を聞き、竊に彼方に使を越し、近日太宰府に發向すべし、其方城中に火を掛け、裏切せよ、左あらば鎭種、忽ちに亡ぶべし、其賞には、岩屋か寶滿の中、何れの城なりとも、望み次第に遣すべしとありければ、鎭久子細なく相圖の日限を定めにけり。此事鎭種洩れ聞て、急ぎ鎭久を誅し、又其子進士兵衞を呼びて、汝が父を殺すこと鎭種が僻ごとにあらず、左すれば、我を恨むべからず、相傳の家人なれば、名字を相續せん爲め、命を助くるのみならず、父が遺跡悉く與ふる上は、父が非を悔い家の恥を思て忠義を盡すべし、然らば秋月方へしか/\の由を通ぜよと言ければ、進士兵衞畏り候ひぬとて、秋月方に使を遣り、父鎭久密通破れて命を失ひ候、此憤り默止難く、鎭久が志空く成りしこと是非なく存候、重代の主とは申ながら、此上は親の敵なり、何々の日竊に御勢を賜はり候へ、寶滿に於て御手合はせ仕るべしと言遣はす。種實、何の疑にも及ばず、勝たる士三百餘騎、夜討の支度に出立たせ、差遣はす。十月十八日夜半の頃、寶滿山の麓の本堂寺に着す。鎭種兼ねて隱くし置たる兵共、八方より鬨を作り、秋月勢を眞中に取籠る。夜のことにはあり、敵の策には乘りつ、秋月勢大に仰天し、或は谷に下り、峰に上り、堀川へ飛入抔して逃んとするのみにて、戰んとする者なし、鎭種の兵は案内は知りつ、爰の詰り、彼所の切所に追詰、射伏切伏する間、秋月勢三百餘騎僅に十餘人討洩されて歸りけり。
新字:○天正八年、秋月種実、勢漸く強大に成りしかば、如何にもして近辺の太宰府を手に入ればやと思へども、鎮種智勇兼備の将なる故、事容易に成り難し。種実も武勇に於ては、去る大将なりければ、兼ねて鎮種の老臣北原鎮久は勇あれども、智なく、忠なくして貪る由を聞き、窃に彼方に使を越し、近日太宰府に発向すべし、其方城中に火を掛け、裏切せよ、左あらば鎮種、忽ちに亡ぶべし、其賞には、岩屋か宝満の中、何れの城なりとも、望み次第に遣すべしとありければ、鎮久子細なく相図の日限を定めにけり。此事鎮種洩れ聞て、急ぎ鎮久を誅し、又其子進士兵衛を呼びて、汝が父を殺すこと鎮種が僻ごとにあらず、左すれば、我を恨むべからず、相伝の家人なれば、名字を相続せん為め、命を助くるのみならず、父が遺跡悉く与ふる上は、父が非を悔い家の恥を思て忠義を尽すべし、然らば秋月方へしか/\の由を通ぜよと言ければ、進士兵衛畏り候ひぬとて、秋月方に使を遣り、父鎮久密通破れて命を失ひ候、此憤り黙止難く、鎮久が志空く成りしこと是非なく存候、重代の主とは申ながら、此上は親の敵なり、何々の日窃に御勢を賜はり候へ、宝満に於て御手合はせ仕るべしと言遣はす。種実、何の疑にも及ばず、勝たる士三百余騎、夜討の支度に出立たせ、差遣はす。十月十八日夜半の頃、宝満山の麓の本堂寺に着す。鎮種兼ねて隠くし置たる兵共、八方より鬨を作り、秋月勢を真中に取籠る。夜のことにはあり、敵の策には乗りつ、秋月勢大に仰天し、或は谷に下り、峰に上り、堀川へ飛入抔して逃んとするのみにて、戦んとする者なし、鎮種の兵は案内は知りつ、爰の詰り、彼所の切所に追詰、射伏切伏する間、秋月勢三百余騎僅に十余人討洩されて帰りけり。
書き下し
○天正八年、秋月種實、勢漸く强大に成りしかば、如何にもして近邊の太宰府を手に入ればやと思へども、鎭種智勇兼備の將なる故、事容易に成り難し。種實も武勇に於ては、去る大將なりければ、兼ねて鎭種の老臣北原鎭久は勇あれども、智なく、忠なくして貪る由を聞き、竊に彼方に使を越し、近日太宰府に發向すべし、其方城中に火を掛け、裏切せよ、左あらば鎭種、忽ちに亡ぶべし、其賞には、岩屋か寶滿の中、何れの城なりとも、望み次第に遣すべしとありければ、鎭久子細なく相圖の日限を定めにけり。此事鎭種洩れ聞て、急ぎ鎭久を誅し、又其子進士兵衞を呼びて、汝が父を殺すこと鎭種が僻ごとにあらず、左すれば、我を恨むべからず、相傳の家人なれば、名字を相續せん爲め、命を助くるのみならず、父が遺跡悉く與ふる上は、父が非を悔い家の恥を思て忠義を盡すべし、然らば秋月方へしか/\の由を通ぜよと言ければ、進士兵衞畏り候ひぬとて、秋月方に使を遣り、父鎭久密通破れて命を失ひ候、此憤り默止難く、鎭久が志空く成りしこと是非なく存候、重代の主とは申ながら、此上は親の敵なり、何々の日竊に御勢を賜はり候へ、寶滿に於て御手合はせ仕るべしと言遣はす。種實、何の疑にも及ばず、勝たる士三百餘騎、夜討の支度に出立たせ、差遣はす。十月十八日夜半の頃、寶滿山の麓の本堂寺に着す。鎭種兼ねて隱くし置たる兵共、八方より鬨を作り、秋月勢を眞中に取籠る。夜のことにはあり、敵の策には乘りつ、秋月勢大に仰天し、或は谷に下り、峰に上り、堀川へ飛入抔して逃んとするのみにて、戰んとする者なし、鎭種の兵は案内は知りつ、爰の詰り、彼所の切所に追詰、射伏切伏する間、秋月勢三百餘騎僅に十餘人討洩されて歸りけり。
現代語訳
天正八年、秋月種実の勢いが次第に強大になりました。何とかして近辺の太宰府を手に入れたいと思っていましたが、鎭種は智勇を兼ね備えた将なので、容易にはいきません。種実も武勇においてはなかなかの大将で、かねて、鎭種の老臣北原鎭久は勇はあるが智がなく、忠もなく貪欲だという話を聞いていました。そこで密かに鎭久のもとへ使いを遣わし、「近日太宰府に向かうので、そなたは城中に火を掛けて裏切れ。そうすれば鎭種はたちまち滅びるだろう。その賞として、岩屋か宝満の城のうち、どちらでも望みしだいに与える」と言いました。鎭久はあっさり、合図の日限を決めてしまいました。このことを鎭種が漏れ聞き、急ぎ鎭久を誅し、またその子の進士兵衛を呼んで、こう言いました。「そなたの父を殺すのは、鎭種の僻事ではない。そうであれば、私を恨んではならない。相伝の家人であるから、名字を継がせるために命を助けるのみならず、父の遺跡をことごとく与える。その上は、父の非を悔い、家の恥を思って忠義を尽くせ。それなら、秋月方にこれこれの由を通じよ」。進士兵衛は畏まって、秋月方に使いを遣わし、「父鎭久は密通が破れて命を失いました。この憤りは黙止しがたく、鎭久の志が空しくなったことは仕方がないと存じます。重代の主とはいえ、この上は親の敵です。何々の日に、密かに御勢を賜りましたら、宝満において手合わせいたします」と言い送りました。種実は何の疑いもなく、勝れた士三百余騎に夜討ちの支度をさせて差し遣わしました。十月十八日の夜半、宝満山の麓の本堂寺に着きました。鎭種が前もって隠しておいた兵たちが、八方から鬨の声を作り、秋月勢をまん中に取り籠めました。夜のことでもあり、敵の策に乗ったと知って、秋月勢は大いに仰天し、谷に下り、峰に上り、堀川へ飛び入るなどして逃げようとするばかりで、戦おうとする者はありません。鎭種の兵は地理を知っており、ここの行き詰まり、あそこの難所に追い詰め、射伏せ切り伏せる間に、秋月勢三百余騎は、わずか十余人が討ち漏らされて帰りました。
解説

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