名将言行録 / 『名将言行録』戸次鑑連 駕籠で敵陣へ担ぎ入れる
○大友氏衰へけれども、鑑連、高橋鎭種と心を合はせ、少も屈せず。鑑連武勇逞き人にて士卒を見ること子を愛するが如し。戰に、臨む時は、二尺七寸ありける刀と、種ヶ島の鐵炮を駕籠に入れ、三尺計りの棒に腕貫を付け、手に提げ乘り、長き刀差したる若き士百餘人、駕籠の左右に引具し、軍始まれば、駕籠を此士に舁せ棒を取て駕籠を扣き曳とう聲を揚げ、此駕籠を敵の眞中に舁入れよとて、拍子を取り、遲き時は、駕籠の前後を扣かれけるに、敵に北たるよりも恥として、面も振らず舁入れければ、駕籠の左右の士、三尺餘の刀を拔連れて、一文字に切て掛りける。先陣の者共すはや、音頭ぞと言ふもあへず、我先にと競ひ掛り、如何なる強敵堅陣をも、切崩さずと言ふことなし。若し先陣追立らるゝ時は、鑑連、大音揚げて、我を敵の中へ昇入れよ、命惜くば、其後逃げよと眼を見出し下知せし程に、守返して勝ざることなし。斯れば鑑連の士は、一日に幾度鎗を合はせたりと言ふ者多し。
新字:○大友氏衰へけれども、鑑連、高橋鎮種と心を合はせ、少も屈せず。鑑連武勇逞き人にて士卒を見ること子を愛するが如し。戦に、臨む時は、二尺七寸ありける刀と、種ヶ島の鉄炮を駕籠に入れ、三尺計りの棒に腕貫を付け、手に提げ乗り、長き刀差したる若き士百余人、駕籠の左右に引具し、軍始まれば、駕籠を此士に舁せ棒を取て駕籠を扣き曳とう声を揚げ、此駕籠を敵の真中に舁入れよとて、拍子を取り、遅き時は、駕籠の前後を扣かれけるに、敵に北たるよりも恥として、面も振らず舁入れければ、駕籠の左右の士、三尺余の刀を抜連れて、一文字に切て掛りける。先陣の者共すはや、音頭ぞと言ふもあへず、我先にと競ひ掛り、如何なる強敵堅陣をも、切崩さずと言ふことなし。若し先陣追立らるゝ時は、鑑連、大音揚げて、我を敵の中へ昇入れよ、命惜くば、其後逃げよと眼を見出し下知せし程に、守返して勝ざることなし。斯れば鑑連の士は、一日に幾度鎗を合はせたりと言ふ者多し。
書き下し
○大友氏衰へけれども、鑑連、高橋鎭種と心を合はせ、少も屈せず。鑑連武勇逞き人にて士卒を見ること子を愛するが如し。戰に、臨む時は、二尺七寸ありける刀と、種ヶ島の鐵炮を駕籠に入れ、三尺計りの棒に腕貫を付け、手に提げ乘り、長き刀差したる若き士百餘人、駕籠の左右に引具し、軍始まれば、駕籠を此士に舁せ棒を取て駕籠を扣き曳とう聲を揚げ、此駕籠を敵の眞中に舁入れよとて、拍子を取り、遲き時は、駕籠の前後を扣かれけるに、敵に北たるよりも恥として、面も振らず舁入れければ、駕籠の左右の士、三尺餘の刀を拔連れて、一文字に切て掛りける。先陣の者共すはや、音頭ぞと言ふもあへず、我先にと競ひ掛り、如何なる強敵堅陣をも、切崩さずと言ふことなし。若し先陣追立らるゝ時は、鑑連、大音揚げて、我を敵の中へ昇入れよ、命惜くば、其後逃げよと眼を見出し下知せし程に、守返して勝ざることなし。斯れば鑑連の士は、一日に幾度鎗を合はせたりと言ふ者多し。
現代語訳
大友氏が衰えても、鑑連は高橋鎭種と心を合わせ、少しも屈しませんでした。鑑連は武勇に優れた人で、兵士を見ることは子を慈しむようでした。戦に臨むときは、二尺七寸ある刀と種子島の鉄砲を駕籠に入れ、三尺ほどの棒に腕貫をつけて手に提げて乗り込みました。長い刀を差した若い士百余人を駕籠の左右に従え、戦が始まると駕籠をこの士たちに担がせ、棒で駕籠を叩いて「えいとう」と声を上げ、「この駕籠を敵のまん中へ担ぎ入れよ」と拍子を取り、遅いときは駕籠の前後を叩きました。士たちは敵に背を向けるよりも恥と思い、顔も振らずに担ぎ入れたので、駕籠の左右の士は三尺余りの刀を抜き連れ、一文字に斬りかかりました。先陣の者たちは「それ、音頭が来たぞ」と言うやいなや、我先にと競って掛かり、どんな強敵、堅陣も切り崩さないことはありませんでした。もし先陣が追い立てられるときは、鑑連が大声を上げ、「私を敵の中へ担ぎ入れよ。命が惜しいなら、そのあとで逃げよ」と目をむいて下知したので、押し返して勝てないことはありませんでした。こうして鑑連の士には、一日に幾度も槍を合わせたと言う者が多くいました。
解説

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