名将言行録 / 『名将言行録』伊達政宗 歌をよくする人
○政宗、狀貌魁偉、人となり膽略あり、弓馬の道に長ぜしのみならず、又敷島の道にも長ぜり。年內立春と云題、『年の內に、今日立つ春の、しるしとて、軒端に近き、鶯の聲。』又八月十五日夜松島にて、『心なき、身にだに月を、松島や、秋の最中の、夕暮の空。』又武藏野月、『出るより、入る山の端は、いづくぞと、月にとはまし、武藏野の原。』又題知らず、『山深み、中々友と、なりにけり、小夜深け方の、ふくろふの聲。』又關の雪、『さゝずとも、誰かは越えん、逢坂の、關の戶埋む、夜半の白雪。』後水尾法皇、集外歌仙を撰み給ひし時、此の關の戶の歌を入れさせ給ひしとぞ。
新字:○政宗、状貌魁偉、人となり胆略あり、弓馬の道に長ぜしのみならず、又敷島の道にも長ぜり。年内立春と云題、『年の内に、今日立つ春の、しるしとて、軒端に近き、鶯の声。』又八月十五日夜松島にて、『心なき、身にだに月を、松島や、秋の最中の、夕暮の空。』又武蔵野月、『出るより、入る山の端は、いづくぞと、月にとはまし、武蔵野の原。』又題知らず、『山深み、中々友と、なりにけり、小夜深け方の、ふくろふの声。』又関の雪、『さゝずとも、誰かは越えん、逢坂の、関の戸埋む、夜半の白雪。』後水尾法皇、集外歌仙を撰み給ひし時、此の関の戸の歌を入れさせ給ひしとぞ。
書き下し
○政宗、狀貌魁偉、人となり膽略あり、弓馬の道に長ぜしのみならず、又敷島の道にも長ぜり。年內立春と云題、『年の內に、今日立つ春の、しるしとて、軒端に近き、鶯の聲。』又八月十五日夜松島にて、『心なき、身にだに月を、松島や、秋の最中の、夕暮の空。』又武藏野月、『出るより、入る山の端は、いづくぞと、月にとはまし、武藏野の原。』又題知らず、『山深み、中々友と、なりにけり、小夜深け方の、ふくろふの聲。』又關の雪、『さゝずとも、誰かは越えん、逢坂の、關の戶埋む、夜半の白雪。』後水尾法皇、集外歌仙を撰み給ひし時、此の關の戶の歌を入れさせ給ひしとぞ。
現代語訳
政宗は容貌が堂々として、人となりに胆力と知略があり、弓馬の道に優れていただけでなく、和歌の道にも優れていた。「年内立春」という題で、『年の内に、今日立つ春の、しるしとて、軒端に近き、鶯の声』。また八月十五日の夜、松島での歌、『心なき、身にだに月を、松島や、秋の最中の、夕暮れの空』。また「武蔵野の月」、『出づるより、入る山の端は、いづくぞと、月に問はまし、武蔵野の原』。また題知らず、『山深み、なかなか友と、なりにけり、小夜更け方の、ふくろうの声』。また「関の雪」、『ささずとも、誰かは越えん、逢坂の、関の戸埋む、夜半の白雪』。後水尾法皇が「集外歌仙」を撰ばれたとき、この「関の戸」の歌を入れられたという。
解説

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