名将言行録 / 『名将言行録』伊達政宗 幼少の気質と戦場の目
左京太夫輝宗の子、陸奧守に任ず、後從三位權中納言と爲り、仙臺城に住し、六十四萬石を領す、寬永十三年五月二十四日薨、年七十。 ○政宗、幼名梵天丸と曰ふ。五歲の時城下の寺に參詣し、佛壇の不動を見て、近臣に是は何たるものぞ最と猛々敷姿なりと問ふ。近臣、是は不動明王と申て、面は猛々敷座ませども、慈悲深くして衆生を救はせ給ふと答ふ。政宗聞て、偖は武將たるべき者の心得と成るものなりと言はれけり。八九歲小學に入り、禮樂を學び、詩を誦し、射御を習ふ、一を聞て十を知る、才能人に過ぐ。然れども性寬仁人に對し羞色あり、近臣、或は其將器にあらざるを誹る者あり。獨り片倉景綱其英姿不凡を歎ず。後皆景綱の鑒識に服すと云ふ。 ○十七年、須賀川の役、敵將二人善く戰ふ、向ふ所披靡す。政宗遙に之を見て曰く、壯士なり。其の一人は二十許り、其一人は三十餘歲なるべし、田村月齋、橋本刑部をして生擒せしめ、其年を問ふ。大浪新四郎二十一、遠藤武藏三十五、果して其言の如し、人其故を問ふ。政宗曰く、一人は勇を恃み、難夷を擇ばす、弱冠の所爲なり、一人は强を避け、弱を驅り、進退度を失はず、壯年にあらざれば爰に至らずと。
新字:左京太夫輝宗の子、陸奥守に任ず、後従三位権中納言と為り、仙台城に住し、六十四万石を領す、寛永十三年五月二十四日薨、年七十。 ○政宗、幼名梵天丸と曰ふ。五歳の時城下の寺に参詣し、仏壇の不動を見て、近臣に是は何たるものぞ最と猛々敷姿なりと問ふ。近臣、是は不動明王と申て、面は猛々敷座ませども、慈悲深くして衆生を救はせ給ふと答ふ。政宗聞て、偖は武将たるべき者の心得と成るものなりと言はれけり。八九歳小学に入り、礼楽を学び、詩を誦し、射御を習ふ、一を聞て十を知る、才能人に過ぐ。然れども性寛仁人に対し羞色あり、近臣、或は其将器にあらざるを誹る者あり。独り片倉景綱其英姿不凡を嘆ず。後皆景綱の鑒識に服すと云ふ。 ○十七年、須賀川の役、敵将二人善く戦ふ、向ふ所披靡す。政宗遥に之を見て曰く、壮士なり。其の一人は二十許り、其一人は三十余歳なるべし、田村月斎、橋本刑部をして生擒せしめ、其年を問ふ。大浪新四郎二十一、遠藤武蔵三十五、果して其言の如し、人其故を問ふ。政宗曰く、一人は勇を恃み、難夷を択ばす、弱冠の所為なり、一人は強を避け、弱を駆り、進退度を失はず、壮年にあらざれば爰に至らずと。
書き下し
左京太夫輝宗の子、陸奧守に任ず、後從三位權中納言と爲り、仙臺城に住し、六十四萬石を領す、寬永十三年五月二十四日薨、年七十。 ○政宗、幼名梵天丸と曰ふ。五歲の時城下の寺に參詣し、佛壇の不動を見て、近臣に是は何たるものぞ最と猛々敷姿なりと問ふ。近臣、是は不動明王と申て、面は猛々敷座ませども、慈悲深くして衆生を救はせ給ふと答ふ。政宗聞て、偖は武將たるべき者の心得と成るものなりと言はれけり。八九歲小學に入り、禮樂を學び、詩を誦し、射御を習ふ、一を聞て十を知る、才能人に過ぐ。然れども性寬仁人に對し羞色あり、近臣、或は其將器にあらざるを誹る者あり。獨り片倉景綱其英姿不凡を歎ず。後皆景綱の鑒識に服すと云ふ。 ○十七年、須賀川の役、敵將二人善く戰ふ、向ふ所披靡す。政宗遙に之を見て曰く、壯士なり。其の一人は二十許り、其一人は三十餘歲なるべし、田村月齋、橋本刑部をして生擒せしめ、其年を問ふ。大浪新四郎二十一、遠藤武藏三十五、果して其言の如し、人其故を問ふ。政宗曰く、一人は勇を恃み、難夷を擇ばす、弱冠の所爲なり、一人は强を避け、弱を驅り、進退度を失はず、壯年にあらざれば爰に至らずと。
現代語訳
左京太夫輝宗の子で、陸奥守に任じられ、のちに従三位権中納言となり、仙台城に住み、六十四万石を領した。寛永十三年五月二十四日に没した。享年七十。 政宗は幼名を梵天丸といった。五歳のとき城下の寺に参詣し、仏壇の不動明王を見て、近臣に「これは何というものか。ひどく猛々しい姿だ」と尋ねた。近臣が「これは不動明王といって、顔は猛々しくいらっしゃるが、慈悲深く衆生をお救いになります」と答えると、政宗は聞いて「それでは武将たる者の心得となるものだ」と言った。八、九歳で小学に入り、礼楽を学び、詩を暗誦し、弓と馬を習い、一を聞いて十を知り、才能は人に勝っていた。しかし性格は寛大で穏やか、人に対して恥ずかしがる様子があり、近臣の中には、将の器ではないと非難する者もいた。ただ片倉景綱だけが、その優れた姿の非凡さに感嘆していた。のちには皆、景綱の見識に敬服したという。 十七年、須賀川の戦いで、敵の将二人がよく戦い、向かう所をなぎ倒していた。政宗は遠くからこれを見て「壮士である。その一人は二十ばかり、もう一人は三十余歳であろう」と言い、田村月斎と橋本刑部に生け捕りにさせて年を尋ねると、大浪新四郎は二十一、遠藤武蔵は三十五で、果たして政宗の言ったとおりであった。人がその理由を尋ねると、政宗は言った。「一人は勇に頼み、難しい相手と容易な相手を選ばない。これは若者のすることだ。もう一人は強い相手を避けて弱い相手を追い、進退に度を失わない。壮年でなければここまでは至らない」と。
解説

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名将言行録・『名将言行録』伊達政宗 相撲と茶杓、茶碗○政宗、嘗て江戶城にて酒井忠勝に行き逢ひ、讚岐守殿、相撲一番參らふと言ふ。忠勝聞て、公用ありて、只今御前を退きたり。重ねてのことに仕らんと辭退せしかど、政宗承引せず、忽ち組付ぬ。諸大名列座にて、政宗、忠勝の相撲なれば、晴れごとなり、時に井伊直孝進み出て若州負け給ひては、御譜第の名折ならん、我等關相撲に出で陸奧守殿を投げ申さんに、手間は取るべからずと申けるが、忠勝は力量ある人なれば政宗を大腰に掛けて投げられける。政宗むくと起上り、御邊は思ひの外相撲功者哉、と言て譽めたり。又或時政宗、忠勝方に茶の客に行き、利休の茶杓を見、繰返し見て、此茶杓は埒もなき物なりと言てへし折られたり。忠勝も驚きしかども、戲の體にて、事濟みたり。政宗歸邸の後、先刻は御茶賜はり忝き仕合に候、興に乘じ粗忽の義致し候、右代りに茶杓進上申とて、紹鷗の茶杓を贈られけり。 ○政宗、名物の茶碗を見るとて、取落さんとせし時、心を動かせしかば、名器と言ひながら、無念のことなり、政宗一生驚くことなかりしに、此茶碗の價千貫目と曰ふに、心を奪はれて驚きたるは、口惜とありて其茶碗を庭石に打付け、微塵に碎き捨られたり。