名将言行録 / 『名将言行録』北條氏康 歌と書を好む武将
○氏康、和歌を善くせり、或歳の夏の夕、高樓に上り涼み居たり。其近邊に狐來て鳴きければ、人皆夏は狐の鳴く節にあらず、凶事にてもなければ善しと言あへり。氏康聞て一首の歌を詠じて曰く、『夏はきつ、ねに鳴く蟬の、から衣、己々の、身の上にきよ。』夜明けて見れば狐鳴きける所に倒れ死せり。此狐歌の德に依て凶事を己が身に衣てけり。又『中々に、清めぬ庭は、塵もなし、風に任かする、山の下菴。』等の歌あり。氏康嘗て領國を巡視し、歷る所の詠歌を名付て武藏野路の記と曰ふ。世に行はる。又詩を善くす、嘗て笠原越前守を悼むの詩あり。悼二雲昌庵主一と云題にて、沒後秋風殘夢驚。忌辰七月已相迎。雙星又有二年々會一。離恨明朝別樣情。氏康弓箭打物執て並びなきのみならず、又讀書を好めり、依て數年儲る所の書、數千百卷あり、東鑑も北條家に傳はりし書なり。
新字:○氏康、和歌を善くせり、或歳の夏の夕、高楼に上り涼み居たり。其近辺に狐来て鳴きければ、人皆夏は狐の鳴く節にあらず、凶事にてもなければ善しと言あへり。氏康聞て一首の歌を詠じて曰く、『夏はきつ、ねに鳴く蝉の、から衣、己々の、身の上にきよ。』夜明けて見れば狐鳴きける所に倒れ死せり。此狐歌の徳に依て凶事を己が身に衣てけり。又『中々に、清めぬ庭は、塵もなし、風に任かする、山の下菴。』等の歌あり。氏康嘗て領国を巡視し、歴る所の詠歌を名付て武蔵野路の記と曰ふ。世に行はる。又詩を善くす、嘗て笠原越前守を悼むの詩あり。悼二雲昌庵主一と云題にて、没後秋風残夢驚。忌辰七月已相迎。双星又有二年々会一。離恨明朝別様情。氏康弓箭打物執て並びなきのみならず、又読書を好めり、依て数年儲る所の書、数千百巻あり、東鑑も北条家に伝はりし書なり。
書き下し
○氏康、和歌を善くせり、或歳の夏の夕、高樓に上り涼み居たり。其近邊に狐來て鳴きければ、人皆夏は狐の鳴く節にあらず、凶事にてもなければ善しと言あへり。氏康聞て一首の歌を詠じて曰く、『夏はきつ、ねに鳴く蟬の、から衣、己々の、身の上にきよ。』夜明けて見れば狐鳴きける所に倒れ死せり。此狐歌の德に依て凶事を己が身に衣てけり。又『中々に、清めぬ庭は、塵もなし、風に任かする、山の下菴。』等の歌あり。氏康嘗て領國を巡視し、歷る所の詠歌を名付て武藏野路の記と曰ふ。世に行はる。又詩を善くす、嘗て笠原越前守を悼むの詩あり。悼二雲昌庵主一と云題にて、沒後秋風殘夢驚。忌辰七月已相迎。雙星又有二年々會一。離恨明朝別樣情。氏康弓箭打物執て並びなきのみならず、又讀書を好めり、依て數年儲る所の書、數千百卷あり、東鑑も北條家に傳はりし書なり。
現代語訳
氏康は和歌をよくしました。ある年の夏の夕方、高い楼に上って涼んでいたところ、近くに狐が来て鳴きました。人々はみな、夏は狐が鳴く季節ではないが、凶事でもないのだから良いだろうと言い合いました。氏康はこれを聞いて一首を詠んで言いました。「夏はきつ、ねに鳴く蝉の、から衣、おのおのの、身の上にきよ」。夜が明けて見ると、狐が鳴いたところに倒れて死んでいました。この狐は歌の徳によって、凶事を自分の身に着たのです。また「なかなかに、清めぬ庭は、塵もなし、風に任かする、山の下庵」などの歌があります。氏康は領国を巡視したことがあり、通った所々で詠んだ歌を「武蔵野路の記」と名づけました。世に行われています。また詩もよくし、かつて笠原越前守を悼む詩があります。「悼雲昌庵主」という題で、「没後秋風残夢驚、忌辰七月已相迎、双星又有年々会、離恨明朝別様情」とあります。氏康は弓矢や刀を取って並ぶ者がないだけでなく、読書も好みました。そのため数年かけてたくわえた書物が数千百巻あり、「東鑑」も北條家に伝わった書です。
解説

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