名将言行録 / 『名将言行録』伊達政宗 評・政宗と家康
野心があり、膽略があり、肚が据つてゐたのである。が、德川の天下が安定しかけたと見ると、惡あがきをせず、奥羽の大封を確保することにつとめた。關ヶ原の功績に依つて、家康から百萬石の墨付を貰つてゐたが、實現しない裡に、井伊直孝が、その墨付を火中したと云ふ傳説がある。墨付を貰つてゐたことは、恐らく事實であらう。長子の秀宗が、伊豫の宇和島十萬石に封ぜられたことなども、百萬石の埋め合はせであらう。この家は、明治維新の時の功績で、侯爵を授けられた。宗家は、奥羽聯盟の責任で伯爵である。 家康とは、頭がよく、くせものである點が共通してゐるので、案外話も合つたのであらう。秀吉に罪を獲かゝつたときは、いつも家康が救濟してゐるのである。從つて、だん/\家康と結托することになつた。家康に取つて有力な味方であつたわけだ。家光なども、子供扱ひした位だから、酒井忠勝や旗本の乘松など、齒牙にかけてゐなかつたのであらう。 伊達氏の九世に、政宗と云ふ人があり、なか/\につゞら折なる道絶えて雪に隣の近き山里 山あひの霧はさながら海に似て 波かときけば松風の音 などの名歌を詠んでゐる。政宗は、十七世だが、同名を名乗つた丈あり、歌も相當なものである。支倉をローマへ遣つたことなども、彼の大志の現はれの一つである。
新字:野心があり、胆略があり、肚が据つてゐたのである。が、徳川の天下が安定しかけたと見ると、悪あがきをせず、奥羽の大封を確保することにつとめた。関ヶ原の功績に依つて、家康から百万石の墨付を貰つてゐたが、実現しない裡に、井伊直孝が、その墨付を火中したと云ふ伝説がある。墨付を貰つてゐたことは、恐らく事実であらう。長子の秀宗が、伊予の宇和島十万石に封ぜられたことなども、百万石の埋め合はせであらう。この家は、明治維新の時の功績で、侯爵を授けられた。宗家は、奥羽聯盟の責任で伯爵である。 家康とは、頭がよく、くせものである点が共通してゐるので、案外話も合つたのであらう。秀吉に罪を獲かゝつたときは、いつも家康が救済してゐるのである。従つて、だん/\家康と結托することになつた。家康に取つて有力な味方であつたわけだ。家光なども、子供扱ひした位だから、酒井忠勝や旗本の乗松など、歯牙にかけてゐなかつたのであらう。 伊達氏の九世に、政宗と云ふ人があり、なか/\につゞら折なる道絶えて雪に隣の近き山里 山あひの霧はさながら海に似て 波かときけば松風の音 などの名歌を詠んでゐる。政宗は、十七世だが、同名を名乗つた丈あり、歌も相当なものである。支倉をローマへ遣つたことなども、彼の大志の現はれの一つである。
書き下し
野心があり、膽略があり、肚が据つてゐたのである。が、德川の天下が安定しかけたと見ると、惡あがきをせず、奥羽の大封を確保することにつとめた。關ヶ原の功績に依つて、家康から百萬石の墨付を貰つてゐたが、實現しない裡に、井伊直孝が、その墨付を火中したと云ふ傳説がある。墨付を貰つてゐたことは、恐らく事實であらう。長子の秀宗が、伊豫の宇和島十萬石に封ぜられたことなども、百萬石の埋め合はせであらう。この家は、明治維新の時の功績で、侯爵を授けられた。宗家は、奥羽聯盟の責任で伯爵である。 家康とは、頭がよく、くせものである點が共通してゐるので、案外話も合つたのであらう。秀吉に罪を獲かゝつたときは、いつも家康が救濟してゐるのである。從つて、だん/\家康と結托することになつた。家康に取つて有力な味方であつたわけだ。家光なども、子供扱ひした位だから、酒井忠勝や旗本の乘松など、齒牙にかけてゐなかつたのであらう。 伊達氏の九世に、政宗と云ふ人があり、なか/\につゞら折なる道絶えて雪に隣の近き山里 山あひの霧はさながら海に似て 波かときけば松風の音 などの名歌を詠んでゐる。政宗は、十七世だが、同名を名乗つた丈あり、歌も相當なものである。支倉をローマへ遣つたことなども、彼の大志の現はれの一つである。
現代語訳
野心があり、胆略があり、腹が据わっていたのである。が、徳川の天下が安定しかけたと見ると、悪あがきをせず、奥羽の大封を確保することにつとめた。関ヶ原の功績によって、家康から百万石の墨付をもらっていたが、実現しないうちに、井伊直孝がその墨付を火中したという伝説がある。墨付をもらっていたことは、おそらく事実であろう。長子の秀宗が、伊予の宇和島十万石に封ぜられたことなども、百万石の埋め合わせであろう。この家は、明治維新の時の功績で、侯爵を授けられた。宗家は、奥羽連盟の責任で伯爵である。 家康とは、頭がよく、くせ者である点が共通しているので、案外話も合ったのであろう。秀吉に罪を獲そうになったときは、いつも家康が救済している。従って、だんだん家康と結託することになった。家康にとって有力な味方であったわけだ。家光なども、子供扱いしたくらいだから、酒井忠勝や旗本の乗松など、歯牙にもかけていなかったのであろう。 伊達氏の九世に、政宗という人があり、なかなかにつづら折なる道絶えて雪に隣の近き山里、山あひの霧はさながら海に似て波かときけば松風の音、などの名歌を詠んでいる。政宗は、十七世だが、同名を名乗っただけあり、歌も相当なものである。支倉をローマへ遣ったことなども、彼の大志のあらわれの一つである。
解説

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名将言行録・『名将言行録』伊達政宗 評・政宗の観望○伊達氏は、藤原氏で左大臣魚名の後である。藤原利仁、田原藤太、九州の菊池、少貳大友、工藤祐經など、藤原氏出身の武將も、可なり多かつたが、殘つたのは伊達氏位である。祖先の朝宗が、賴朝に從つて藤原泰衡を討つて功あり、伊達信夫二郡を貰つて伊達氏を稱したのである。大名としては名家でもあり、古くもある。政宗は、天正十二年十八歲で、父の後を繼ぎ、天正十七年には、會津の蘆名氏を斃して、その所領は百五十萬石に達して、寶に奧羽の一大勢力となり、居を黑川城(後の若松城)に移して、南下の勢を示してゐたのである。彼は、小田原の北條と結んで、常陸の佐竹を衝かうとしてゐたのである。ところが、翌十八年三月に、秀吉の小田原征伐が始まつたのである。政宗は、外交家としても相當なもので、兼てから秀吉の側臣達とも音問を通じたり、付け届けをしてゐるのだから、小田原へ馳けつければ、舊領安堵は心配ないのだが、秀吉の意に反して攻め取つた會津領は返さなければならない。折角、攻め取つた五、六十萬石を返すのは残念である。北條が、どの程度に頑張るか、秀吉がよほど手古づるやうなら、北條と示し合はせて前後から挾撃してやらう。さうした肚もあつて、形勢を觀望したわけである。少し、觀望し過ぎたのである。だが、彼はこりや駄目だと氣がつくと、裸になつて秀吉の膝下に飛び込んで、死中に活を求めたのである。
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名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 政宗の偽書と家康の評○秀吉、蒲生氏鄕を會津に封じて曰く、此所は奥羽の鎭壓なれば、能く守護すべし、家中の侍の義は、假令秀吉に敵を爲し、又勘當の者なりとも、文武を得たる侍ならば扶持せられよ、只文臣武臣を持つこと肝要たるべし、其外法度の條々は、追て書付を以て申渡すべしと。後、氏鄕會津を賜はりし禮に出ければ、秀吉外のことは何にも言はずして、汝手を能く書けり、謠本を一番書て吳れよとて、料紙硯を取寄せ出されたり。 ○小田原平ぎし後、葛西、大崎一揆起る時に、伊達政宗之に通ぜしかども、蒲生氏鄕の威に歴せられて發すること能はず、賊平ぎて後、秀吉、政宗を召す。其明年、政宗、氏鄕と共に上京す。秀吉、賊に通ずるの書を以て、詰問せられければ、政宗、臣實に賊に通ぜず、然るを通ぜりと申は讒言なり、其故は鶺鴒の判形に何つも瞳を付けしが、此判には瞳なく候、全く謀書なりと言ふ。秀吉、大小名より政宗の書狀を取集め見らるゝに、政宗の言の如し。依て政宗を赦されけり。井伊直政之を聞き、家康に告て曰く、某去冬奥州へ下り見聞するに、政宗の異心歷然たり、然るに太閤敕免せらるゝこと、紕明の足らざるにあらずやと。家康曰く、太閤實に政宗の異心を知らざるにあらず、太閤の性質を以て考ふるに、政宗此時速に上京すること大勇なり、是一ッ。次には自書の檄文を反て、僞書なりと言ふ不敵の心、即ち器量ある將なり、是二ッ。夫のみならず鶺鴒の花押に、前年より心を用ひ、諸家の贈答の書簡にも、一同ならざる遠慮、是大將の器なり。三條、尋常人の及ぶべきにもあらず、依て太閤之を感ぜられて罪を赦されたり。太閤の大器、政宗に百倍すと言はれて感ぜらる。後秀吉那古耶に在りし時、施藥院、側に侍し、頻りに政宗の功を稱す。秀吉色を作して曰く、去年奥州賊に通ぜしこと我之を熟知せり、去れども今方に三韓に事あり、之をして力を行間に效さしむるに如かず、且つ毛利輝元、島津義弘の如き、初め跳梁すと雖も、終に能く屈服せり。故に政宗の罪を赦して、以て反側の心を安ぜり。汝何ぞ之を譽るの大過なる、此必ず政宗の爲めに遊説するならんと。時人其大量に服せり。
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名将言行録・『名将言行録』伊達政宗 頼宣への見舞いと日常○家光嗣ぎ立ち年尙少なり、人皆德川賴宣の異心あらんことを疑ふ。是に於て、政宗大臣巨室の者に命じ、其養士の多寡を算せしむ。蓋し用ふる所あらんとすればなり。一日賴宣を訪ひ、將に歸らんとする時、賴宣玄關まで送られしに、廣間所々、座敷々々に家中の歷々伺公せしを見て、偖も/\御家中衆に目を驚かしたり。是程の御人數を持たせらるれば、假令如何樣の大國へ御取掛けあるとも、御勝利疑ひ有間敷なり、然し萬々一幕府へ御等閑の義之あるに於ては、箇樣申年寄日頃國元に祕藏仕置たる郞等共を召連れ、眞先掛て、紀州へ押寄せ參るべくの間、左樣御心得候へと言て、大に笑て去れり、此事府下に傳播し疑ふ者皆釋けり。家光之を聞て、甚だ其志を稱せり。 ○政宗、少より老に至り、未だ嘗て橫臥するを見ず。希れに柱に靠り假寢することあり、片時を空く過ごさず、常に手に卷を釋てず、性、强識、外臣商賈と雖も、一見の後姓名風丰必ず失忘せず。政宗詩歌を好み、常に騷筵を設け、詞客を招く。僧虎谿、林信春等と唱酬せり。
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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 評・人物と政宗との対抗人物から云つて、戰國時代六、七位には位する人である。天正十八年に、旣に會津百二十萬石に封ぜられてゐるのであるから、當時旣に家康、利家、政宗などと肩を比べてゐたことが分るのである。 葛西、大崎に一揆の起きたときの、氏鄕と政宗との對抗は、相當深刻であり、曾て幸田露伴氏も、「蒲生氏鄕」なる題で、書かれたことがある。政宗は、一揆と通謀して、秀吉に反抗しようと云ふのではない。一揆を操つて奧州の治安をかき擾し、之を討伐に向つた氏鄕を失策らせ、秀吉をして(奧州は結局政宗でなければ、駄目だ。いつそ、政宗に委せよう)と、思はせようと云ふ肚である。だから、氏鄕の立場は、むつかしかつたのである。もつとも、政宗もさうした策謀のために、秀吉から相當いぢめられたことは、政宗の項にある通である。
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名将言行録・『名将言行録』伊達政宗 幼少の気質と戦場の目左京太夫輝宗の子、陸奧守に任ず、後從三位權中納言と爲り、仙臺城に住し、六十四萬石を領す、寬永十三年五月二十四日薨、年七十。 ○政宗、幼名梵天丸と曰ふ。五歲の時城下の寺に參詣し、佛壇の不動を見て、近臣に是は何たるものぞ最と猛々敷姿なりと問ふ。近臣、是は不動明王と申て、面は猛々敷座ませども、慈悲深くして衆生を救はせ給ふと答ふ。政宗聞て、偖は武將たるべき者の心得と成るものなりと言はれけり。八九歲小學に入り、禮樂を學び、詩を誦し、射御を習ふ、一を聞て十を知る、才能人に過ぐ。然れども性寬仁人に對し羞色あり、近臣、或は其將器にあらざるを誹る者あり。獨り片倉景綱其英姿不凡を歎ず。後皆景綱の鑒識に服すと云ふ。 ○十七年、須賀川の役、敵將二人善く戰ふ、向ふ所披靡す。政宗遙に之を見て曰く、壯士なり。其の一人は二十許り、其一人は三十餘歲なるべし、田村月齋、橋本刑部をして生擒せしめ、其年を問ふ。大浪新四郎二十一、遠藤武藏三十五、果して其言の如し、人其故を問ふ。政宗曰く、一人は勇を恃み、難夷を擇ばす、弱冠の所爲なり、一人は强を避け、弱を驅り、進退度を失はず、壯年にあらざれば爰に至らずと。
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名将言行録・『名将言行録』伊達政宗 歌をよくする人○政宗、狀貌魁偉、人となり膽略あり、弓馬の道に長ぜしのみならず、又敷島の道にも長ぜり。年內立春と云題、『年の內に、今日立つ春の、しるしとて、軒端に近き、鶯の聲。』又八月十五日夜松島にて、『心なき、身にだに月を、松島や、秋の最中の、夕暮の空。』又武藏野月、『出るより、入る山の端は、いづくぞと、月にとはまし、武藏野の原。』又題知らず、『山深み、中々友と、なりにけり、小夜深け方の、ふくろふの聲。』又關の雪、『さゝずとも、誰かは越えん、逢坂の、關の戶埋む、夜半の白雪。』後水尾法皇、集外歌仙を撰み給ひし時、此の關の戶の歌を入れさせ給ひしとぞ。