名将言行録 / 『名将言行録』毛利元就 善柔を用いず雪を打つ
○元就常に曰く、主將の人を用ふるに、心を用ふべきことあり。善柔なる者は、能く人の心に忤はず、故に朋輩も最負する者多し、主將過ちて之を用ひなば、國を治ること成り難し、何となれば惡を懲し善を勸むること能はず、故に家中無事と稱するとも、亂の端なり、主將自ら眼を開かざればならぬものなりと。 ○元就、或年の冬雪の降たりし時、常にも雪を好めども高年のこととて、尋常の老人ならば炬燵にのみ居るべきに、左はなくて雪こそ降りたれ、心地能き有樣哉、我年老て歩行心の儘ならず、去れば座敷の上にて雪打すべし、急ぎ庭上の雪を多く取來れと言ふ故、近習の者共は老耄せしやと思へども、强て申す故詮方なく大きなる器に雪を盛來れば、寒き氣色もなく自ら取りて翫び、若士共に雪打すべしと其座にて雪打を爲さしめて、娛みとせり。是は餘り、童心の樣なれども、左はなし、元就の心には方今弓箭の道衰へ、若き者まで寒氣に病み、炬燵計りにあたり、身を自由に持ち、若き者の嗜に違へり。我七十に及びてさへ雪打をしたると、家中の若者共聞きたらんには、出て雪打をすべし、然らば寒氣に身を習はし、斯くすれば、切息れず、手足も痙まぬと云所を知るべしとのことなり。 ○元就、弓箭の道に暗からざるのみならず、又頗る書を讀み、和歌を好み、秀逸の作多し。三條西家の判者として、詠草一卷を撰み、大江朝臣元就詠草と目して、世に行はれり。
新字:○元就常に曰く、主将の人を用ふるに、心を用ふべきことあり。善柔なる者は、能く人の心に忤はず、故に朋輩も最負する者多し、主将過ちて之を用ひなば、国を治ること成り難し、何となれば悪を懲し善を勧むること能はず、故に家中無事と称するとも、乱の端なり、主将自ら眼を開かざればならぬものなりと。 ○元就、或年の冬雪の降たりし時、常にも雪を好めども高年のこととて、尋常の老人ならば炬燵にのみ居るべきに、左はなくて雪こそ降りたれ、心地能き有様哉、我年老て歩行心の儘ならず、去れば座敷の上にて雪打すべし、急ぎ庭上の雪を多く取来れと言ふ故、近習の者共は老耄せしやと思へども、強て申す故詮方なく大きなる器に雪を盛来れば、寒き気色もなく自ら取りて翫び、若士共に雪打すべしと其座にて雪打を為さしめて、娯みとせり。是は余り、童心の様なれども、左はなし、元就の心には方今弓箭の道衰へ、若き者まで寒気に病み、炬燵計りにあたり、身を自由に持ち、若き者の嗜に違へり。我七十に及びてさへ雪打をしたると、家中の若者共聞きたらんには、出て雪打をすべし、然らば寒気に身を習はし、斯くすれば、切息れず、手足も痙まぬと云所を知るべしとのことなり。 ○元就、弓箭の道に暗からざるのみならず、又頗る書を読み、和歌を好み、秀逸の作多し。三条西家の判者として、詠草一巻を撰み、大江朝臣元就詠草と目して、世に行はれり。
書き下し
○元就常に曰く、主將の人を用ふるに、心を用ふべきことあり。善柔なる者は、能く人の心に忤はず、故に朋輩も最負する者多し、主將過ちて之を用ひなば、國を治ること成り難し、何となれば惡を懲し善を勸むること能はず、故に家中無事と稱するとも、亂の端なり、主將自ら眼を開かざればならぬものなりと。 ○元就、或年の冬雪の降たりし時、常にも雪を好めども高年のこととて、尋常の老人ならば炬燵にのみ居るべきに、左はなくて雪こそ降りたれ、心地能き有樣哉、我年老て歩行心の儘ならず、去れば座敷の上にて雪打すべし、急ぎ庭上の雪を多く取來れと言ふ故、近習の者共は老耄せしやと思へども、强て申す故詮方なく大きなる器に雪を盛來れば、寒き氣色もなく自ら取りて翫び、若士共に雪打すべしと其座にて雪打を爲さしめて、娛みとせり。是は餘り、童心の樣なれども、左はなし、元就の心には方今弓箭の道衰へ、若き者まで寒氣に病み、炬燵計りにあたり、身を自由に持ち、若き者の嗜に違へり。我七十に及びてさへ雪打をしたると、家中の若者共聞きたらんには、出て雪打をすべし、然らば寒氣に身を習はし、斯くすれば、切息れず、手足も痙まぬと云所を知るべしとのことなり。 ○元就、弓箭の道に暗からざるのみならず、又頗る書を讀み、和歌を好み、秀逸の作多し。三條西家の判者として、詠草一卷を撰み、大江朝臣元就詠草と目して、世に行はれり。
現代語訳
○元就はつねに言いました。主将が人を用いるには、心を用いるべきことがある。善柔な者は、人の心に逆らわないので、同僚にも負けず嫌いな者が多い。主将が誤ってこれを用いれば、国を治めることは難しい。なぜなら悪を懲らし善を勧めることができないからだ。ゆえに家中が無事と言われても、乱の端である。主将は自ら眼を開かなければならない、と。 ○元就は、ある年の冬、雪の降ったとき、常から雪を好んでいましたが、高年のことでもあり、普通の老人であれば炬燵にばかりいるはずなのに、そうはせず、雪が降った、心地よいありさまだ、我は年老いて歩行も思うままにならない、それゆえ座敷の上で雪打ちをしよう、急ぎ庭上の雪を多く取って来い、と言ったので、近習の者たちは老いぼれたかと思いましたが、強いて言うので仕方なく大きな器に雪を盛って来ると、寒がる様子もなく、自ら取って弄び、若い者たちに雪打ちをさせて楽しみとしました。これはあまりに童心のようですが、そうではありません。元就の心には、いまは弓矢の道が衰え、若い者まで寒気で病み、炬燵ばかりにあたり、身を甘やかし、若い者のたしなみに違っている。私が七十になってさえ雪打ちをしたと、家中の若者たちが聞けば、出て雪打ちをするだろう。そうして寒気に身を慣らせば、息も切れず、手足もつらないということを知るだろう、ということでした。 ○元就は、弓矢の道に暗くないばかりか、また書をよく読み、和歌を好み、秀作が多くありました。三条西家の判者として詠草一巻を撰び、大江朝臣元就詠草と名づけ、世に行われました。
解説

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