名将言行録 / 『名将言行録』伊達政宗 睨む家臣と曾我の舞
○政宗、江戶城大廣間の溜の間に在りし時、德川賴房の臣、鈴木石見と曰ふ者、賴房の刀を持して、其座に在り。目を放たず政宗を見居る故、政宗不審に思ひ、石見に向ひ、其方我等に目を放さず見られ候、如何樣のことに左程見られ候や、其方は何者ぞと問ければ、石見、我等事は聞きも及ばれ候べし、水戶殿の內に、鈴木石見とて隱れなき者にて候、御自分のこと、晋には聞きしかど、見ることは今が始めなり。然れば、水戶は奧州の御先手にて、奧州にて逆心をすべき者は、御自分より外になし。之に依て御自分の顏を能く見覺置き、若し逆心あらば、其方御首を取るべき爲めに斯の如く見申候、水戶の內にて其方御首を取るべき者は、拙者ならではなしと答ければ、政宗大に感じ、我ならで奧州にて逆心者はなきと見られ候は、如何にも能き目利にて候と申され、偖何つ何日に參らるべしとて、則ち賴房にも、斷はり申て、私邸は招き、自身給仕をして殊の外、馳走し終日顏を見せられしとぞ。 ○政宗、內藤左馬助政長が方に招請にて往きし時、兼松又四郎も參りたり。政宗兼松が側を通るとて、袴の裾、兼松が膝を引けるに、怒て扇子にて政宗の袴の腰を打つ。人々打寄り色々取扱ひ、政宗に趣意なき上はとて和睦の盃に成たり。其時政宗いで肴申さんとて、曾我を舞はれける。打て腹だに癒るならば、打てや/\犬坊と舞はれしとぞ。一座の人々流石政宗なりと言あへり。
新字:○政宗、江戸城大広間の溜の間に在りし時、徳川頼房の臣、鈴木石見と曰ふ者、頼房の刀を持して、其座に在り。目を放たず政宗を見居る故、政宗不審に思ひ、石見に向ひ、其方我等に目を放さず見られ候、如何様のことに左程見られ候や、其方は何者ぞと問ければ、石見、我等事は聞きも及ばれ候べし、水戸殿の内に、鈴木石見とて隠れなき者にて候、御自分のこと、晋には聞きしかど、見ることは今が始めなり。然れば、水戸は奥州の御先手にて、奥州にて逆心をすべき者は、御自分より外になし。之に依て御自分の顔を能く見覚置き、若し逆心あらば、其方御首を取るべき為めに斯の如く見申候、水戸の内にて其方御首を取るべき者は、拙者ならではなしと答ければ、政宗大に感じ、我ならで奥州にて逆心者はなきと見られ候は、如何にも能き目利にて候と申され、偖何つ何日に参らるべしとて、則ち頼房にも、断はり申て、私邸は招き、自身給仕をして殊の外、馳走し終日顔を見せられしとぞ。 ○政宗、内藤左馬助政長が方に招請にて往きし時、兼松又四郎も参りたり。政宗兼松が側を通るとて、袴の裾、兼松が膝を引けるに、怒て扇子にて政宗の袴の腰を打つ。人々打寄り色々取扱ひ、政宗に趣意なき上はとて和睦の盃に成たり。其時政宗いで肴申さんとて、曽我を舞はれける。打て腹だに癒るならば、打てや/\犬坊と舞はれしとぞ。一座の人々流石政宗なりと言あへり。
書き下し
○政宗、江戶城大廣間の溜の間に在りし時、德川賴房の臣、鈴木石見と曰ふ者、賴房の刀を持して、其座に在り。目を放たず政宗を見居る故、政宗不審に思ひ、石見に向ひ、其方我等に目を放さず見られ候、如何樣のことに左程見られ候や、其方は何者ぞと問ければ、石見、我等事は聞きも及ばれ候べし、水戶殿の內に、鈴木石見とて隱れなき者にて候、御自分のこと、晋には聞きしかど、見ることは今が始めなり。然れば、水戶は奧州の御先手にて、奧州にて逆心をすべき者は、御自分より外になし。之に依て御自分の顏を能く見覺置き、若し逆心あらば、其方御首を取るべき爲めに斯の如く見申候、水戶の內にて其方御首を取るべき者は、拙者ならではなしと答ければ、政宗大に感じ、我ならで奧州にて逆心者はなきと見られ候は、如何にも能き目利にて候と申され、偖何つ何日に參らるべしとて、則ち賴房にも、斷はり申て、私邸は招き、自身給仕をして殊の外、馳走し終日顏を見せられしとぞ。 ○政宗、內藤左馬助政長が方に招請にて往きし時、兼松又四郎も參りたり。政宗兼松が側を通るとて、袴の裾、兼松が膝を引けるに、怒て扇子にて政宗の袴の腰を打つ。人々打寄り色々取扱ひ、政宗に趣意なき上はとて和睦の盃に成たり。其時政宗いで肴申さんとて、曾我を舞はれける。打て腹だに癒るならば、打てや/\犬坊と舞はれしとぞ。一座の人々流石政宗なりと言あへり。
現代語訳
政宗が江戸城大広間の溜の間にいたとき、徳川頼房の家臣、鈴木石見という者が頼房の刀を持ってその座にいた。目を離さず政宗を見ているので、政宗は不審に思い、石見に向かい「そなたは我らから目を離さず見ている。どういうことで、それほど見るのか。そなたは何者か」と尋ねた。石見は「私のことは、お聞き及びでしょう。水戸殿の家中で、鈴木石見といって隠れなき者です。あなたのことは噂には聞いていましたが、見るのは今が初めてです。さて、水戸は奥州の先手であり、奥州で謀反を起こす者は、あなたのほかにありません。そこであなたの顔をよく見覚えておき、もし謀反があれば、あなたの首を取るために、このように見ております。水戸家中であなたの首を取る者は、私をおいてほかにありません」と答えたので、政宗は大いに感心し、「私のほかに奥州で謀反する者はいないと見られるのは、まことによい目利きだ」と申して、「何月何日に参られよ」と言い、頼房にも断って、自分の屋敷に招き、自ら給仕をして、ことのほかもてなし、一日中、顔を見せたという。 政宗が、内藤左馬助政長のもとに招かれて行ったとき、兼松又四郎も参っていた。政宗が兼松の側を通るとき、袴の裾が兼松の膝に引っかかったので、兼松は怒って扇子で政宗の袴の腰を打った。人々が集まって色々取りなし、政宗に落ち度はないということで、和睦の盃となった。そのとき政宗は「さあ肴を出そう」と言って、曾我を舞った。「打って腹さえ癒えるのなら、打てよ打てよ、犬坊」と舞ったという。一座の人々は、さすが政宗だと言い合った。
解説

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