名将言行録 / 『名将言行録』伊達政宗 鷹場の笑い話
○元和の初、將軍鷹場近邊にて、政宗にも鷹場を賜はりしが、或時政宗、將軍の鷹場へ密に入りて鳥三つ四つ合はせ、鶴を取りたる所へ、家康は引違て餘多の人を召具し、鷹使ひながら參られしを、政宗周章狼狽、鷹も鳥も取隱くし、漸ゝと迯去り、竹藪の陰に潛り居る間、家康は馬を急がせ過られけり。其後登城の時、家康、先日は其元の鷹場へ鳥を盜みに入り込みたる所を、其方に見付けられ、はう/\に迯れんとせしに、其方竹藪の陰に蹲り居たれば、態ざと見ぬふりしたると思ひ、息を限りと迯たりと言はれければ、政宗承はりて、左樣のことに候べしや、某も其日は御鷹場へ盜み狩りに參りしに、御成の樣子を見て、息をこらし隱れ居たりと申ければ、家康大に笑はれ、其時互に斯くと知らば、迯ながらも、少しは息を休むべきものを、双方各人なれば殊の外周章たりと、家康も、政宗も聲を發して笑ければ、伺候の輩も、皆ゝ腹を抱へたりとぞ。 ○寬永四年二月、加藤嘉明會津に封ぜらる。是日政宗、殿中にて嘉明が子、明成に行き逢しかば、足下父子に會津の地預け給ひたると承はる、會津は全く陸奧の鎭衞の地なれば、此老耄を能く防げとの御事なりや、足下父子の爲めに、容易は防ぎ留められまじと言て、大聲を發して笑ひたり。明成、其聲の下より、老黃門、若し今の祿に倍して百二十萬石をも領し給はゞ、今にても取掛け申すべきをと申しけりとぞ。
新字:○元和の初、将軍鷹場近辺にて、政宗にも鷹場を賜はりしが、或時政宗、将軍の鷹場へ密に入りて鳥三つ四つ合はせ、鶴を取りたる所へ、家康は引違て余多の人を召具し、鷹使ひながら参られしを、政宗周章狼狽、鷹も鳥も取隠くし、漸ゝと迯去り、竹藪の陰に潜り居る間、家康は馬を急がせ過られけり。其後登城の時、家康、先日は其元の鷹場へ鳥を盗みに入り込みたる所を、其方に見付けられ、はう/\に迯れんとせしに、其方竹藪の陰に蹲り居たれば、態ざと見ぬふりしたると思ひ、息を限りと迯たりと言はれければ、政宗承はりて、左様のことに候べしや、某も其日は御鷹場へ盗み狩りに参りしに、御成の様子を見て、息をこらし隠れ居たりと申ければ、家康大に笑はれ、其時互に斯くと知らば、迯ながらも、少しは息を休むべきものを、双方各人なれば殊の外周章たりと、家康も、政宗も声を発して笑ければ、伺候の輩も、皆ゝ腹を抱へたりとぞ。 ○寛永四年二月、加藤嘉明会津に封ぜらる。是日政宗、殿中にて嘉明が子、明成に行き逢しかば、足下父子に会津の地預け給ひたると承はる、会津は全く陸奥の鎮衛の地なれば、此老耄を能く防げとの御事なりや、足下父子の為めに、容易は防ぎ留められまじと言て、大声を発して笑ひたり。明成、其声の下より、老黄門、若し今の禄に倍して百二十万石をも領し給はゞ、今にても取掛け申すべきをと申しけりとぞ。
書き下し
○元和の初、將軍鷹場近邊にて、政宗にも鷹場を賜はりしが、或時政宗、將軍の鷹場へ密に入りて鳥三つ四つ合はせ、鶴を取りたる所へ、家康は引違て餘多の人を召具し、鷹使ひながら參られしを、政宗周章狼狽、鷹も鳥も取隱くし、漸ゝと迯去り、竹藪の陰に潛り居る間、家康は馬を急がせ過られけり。其後登城の時、家康、先日は其元の鷹場へ鳥を盜みに入り込みたる所を、其方に見付けられ、はう/\に迯れんとせしに、其方竹藪の陰に蹲り居たれば、態ざと見ぬふりしたると思ひ、息を限りと迯たりと言はれければ、政宗承はりて、左樣のことに候べしや、某も其日は御鷹場へ盜み狩りに參りしに、御成の樣子を見て、息をこらし隱れ居たりと申ければ、家康大に笑はれ、其時互に斯くと知らば、迯ながらも、少しは息を休むべきものを、双方各人なれば殊の外周章たりと、家康も、政宗も聲を發して笑ければ、伺候の輩も、皆ゝ腹を抱へたりとぞ。 ○寬永四年二月、加藤嘉明會津に封ぜらる。是日政宗、殿中にて嘉明が子、明成に行き逢しかば、足下父子に會津の地預け給ひたると承はる、會津は全く陸奧の鎭衞の地なれば、此老耄を能く防げとの御事なりや、足下父子の爲めに、容易は防ぎ留められまじと言て、大聲を發して笑ひたり。明成、其聲の下より、老黃門、若し今の祿に倍して百二十萬石をも領し給はゞ、今にても取掛け申すべきをと申しけりとぞ。
現代語訳
元和の初め、将軍の鷹場の近辺で、政宗にも鷹場を賜った。あるとき政宗は将軍の鷹場へひそかに入り込み、鳥を三、四羽合わせ、鶴を取ったところへ、家康が思いがけず多くの人を連れ、鷹狩りをしながらやって来られたので、政宗は慌てふためき、鷹も鳥も取り隠し、やっとのことで逃げ去り、竹藪の陰に潜んでいる間に、家康は馬を急がせて通り過ぎた。その後、登城したとき、家康は「先日はそなたの鷹場へ鳥を盗みに入り込んだところを、そなたに見つけられ、這々の体で逃げようとした。そなたが竹藪の陰にうずくまっていたので、わざと見ぬふりをしたのだと思い、息の続く限りに逃げた」と言われると、政宗は承って「そのようなことでございましたか。私もその日は御鷹場へ盗み狩りに参っておりましたが、お成りの様子を見て、息をこらして隠れておりました」と申したので、家康は大いに笑い、「その時お互いにそうだと知っていたなら、逃げながらも、少しは息を休めたものを。双方とも老人であるから、ことのほか慌てたものだ」と言い、家康も政宗も声を上げて笑ったので、居合わせた人々も皆、腹を抱えたという。 寛永四年二月、加藤嘉明が会津に封じられた。この日、政宗は殿中で嘉明の子、明成に行き会い、「あなた方父子に会津の地をお預けになったと聞く。会津は全く陸奥の鎮めの地であるから、この老いぼれをよく防げとのお考えなのか。あなた方父子では、容易には防ぎ止められまい」と言って、大声で笑った。明成はその声の下から「老黄門殿、もし今の禄の倍の百二十万石を領されるなら、今でも取りかかりましょうものを」と言ったという。
解説

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