名将言行録 / 『名将言行録』伊達政宗 呂宋遣使と歌舞伎
○耶蘇敎盛りに天下に行はる。政宗、南蠻を征し、其根を拔んと欲し、向井將監忠勝に依り、幕府より篙師十人を借受け、支倉六右衞門、松本忠作、西九郎、田中太郎右衞門等を呂宋に遣はし、其形勢を窺視せしむ。支倉等歲を經て呂宋王の書及び、奇貨珍寶を齎らして返る。且つ曰く、南蠻風俗柔脆なり。之を征せんには腐朽を挫くが如くならんと言ふ。政宗其志を成さんと欲す。時に耶蘇を禁ずるの令甚だ嚴にして、政宗其志を遂ぐることを得ずして止めり。 ○加藤清正、嘗て曰く、政宗、上方より、圖助と曰ふ遊女を呼下だし、歌舞妓を興行致したるが、内府の氣色に相應したると側に聞きたり。其故は石田等が亂を事故なく平げられ、旣に六十餘州掌の内に入られたることなれば、政宗如き國持を始め、太刀も入らぬ太平の世と思ひ歌舞遊興のみにて月日を暮せば、心元なきことなしと思はるゝが故なりとて、殊の外稱譽し、頻て清正にも歌舞妓を催せりとぞ。
新字:○耶蘇教盛りに天下に行はる。政宗、南蠻を征し、其根を抜んと欲し、向井将監忠勝に依り、幕府より篙師十人を借受け、支倉六右衛門、松本忠作、西九郎、田中太郎右衛門等を呂宋に遣はし、其形勢を窺視せしむ。支倉等歳を経て呂宋王の書及び、奇貨珍宝を齎らして返る。且つ曰く、南蠻風俗柔脆なり。之を征せんには腐朽を挫くが如くならんと言ふ。政宗其志を成さんと欲す。時に耶蘇を禁ずるの令甚だ厳にして、政宗其志を遂ぐることを得ずして止めり。 ○加藤清正、嘗て曰く、政宗、上方より、図助と曰ふ遊女を呼下だし、歌舞妓を興行致したるが、内府の気色に相応したると側に聞きたり。其故は石田等が乱を事故なく平げられ、既に六十余州掌の内に入られたることなれば、政宗如き国持を始め、太刀も入らぬ太平の世と思ひ歌舞遊興のみにて月日を暮せば、心元なきことなしと思はるゝが故なりとて、殊の外称誉し、頻て清正にも歌舞妓を催せりとぞ。
書き下し
○耶蘇敎盛りに天下に行はる。政宗、南蠻を征し、其根を拔んと欲し、向井將監忠勝に依り、幕府より篙師十人を借受け、支倉六右衞門、松本忠作、西九郎、田中太郎右衞門等を呂宋に遣はし、其形勢を窺視せしむ。支倉等歲を經て呂宋王の書及び、奇貨珍寶を齎らして返る。且つ曰く、南蠻風俗柔脆なり。之を征せんには腐朽を挫くが如くならんと言ふ。政宗其志を成さんと欲す。時に耶蘇を禁ずるの令甚だ嚴にして、政宗其志を遂ぐることを得ずして止めり。 ○加藤清正、嘗て曰く、政宗、上方より、圖助と曰ふ遊女を呼下だし、歌舞妓を興行致したるが、内府の氣色に相應したると側に聞きたり。其故は石田等が亂を事故なく平げられ、旣に六十餘州掌の内に入られたることなれば、政宗如き國持を始め、太刀も入らぬ太平の世と思ひ歌舞遊興のみにて月日を暮せば、心元なきことなしと思はるゝが故なりとて、殊の外稱譽し、頻て清正にも歌舞妓を催せりとぞ。
現代語訳
キリスト教が盛んに天下に広がっていた。政宗は南蛮を征服し、その根を抜こうと望み、向井将監忠勝を通じて、幕府から船頭十人を借り受け、支倉六右衛門、松本忠作、西九郎、田中太郎右衛門らを呂宋に遣わして、その形勢を探らせた。支倉らは年を経て、呂宋王の書状と珍しい宝物を持ち帰った。そして「南蛮の風俗は柔弱です。これを征するのは、腐ったものを砕くようなものでしょう」と言った。政宗はその志を成し遂げようとした。しかし、そのとき、キリスト教を禁じる命令がたいへん厳しく、政宗はその志を遂げることができず、中止した。 加藤清正はかつて言った。「政宗は上方から図助という遊女を呼び下し、歌舞伎を興行したが、これが内府(家康)の気に入ったと、側で聞いた。その理由は、石田らの乱が事なく平定され、すでに六十余州が掌中に入ったのだから、政宗のような国持ち大名をはじめ、太刀もいらない太平の世だと思って、歌舞や遊興ばかりで月日を暮らすなら、気がかりなことはないと思われるからだ」と言って、ことのほかほめたたえ、しきりに清正にも歌舞伎を催させたという。
解説

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