名将言行録 / 『名将言行録』島津家久 谷川大膳と高橋鎮種
○十四年、家久、高橋鎭種を岩屋の城に攻む。時に鎭種より立花へ、谷川大膳を使として遣りたり、七月二十六日、山傳ひに立花の城へ參り、卽ち返事を取り、二十七日の夜、岩屋落城のことを知らず、大手の門に忍寄り、大膳ぞ明けて入れ候へと言ふ。敵大勢出取籠め繩を掛け、家久の前に連來りたり、如何樣の者ぞと尋ぬれば、少しも隱さず名乘りし故、家久、鎭種は、今日戰死を遂げられたり。其方最早此方へ相隨はれ候へ、鎭種よりの加恩の程には、何時も遣はすべくと言へば、大膳忝きこと身に餘り候、然れども、此節に及び、左樣の望み之なく候、只御芳志に預り度こと一つあり、立花よりの返札、某懷中致し居るを、首を刎られて後、御披見賜はりなば、何事か之に過ぎたる喜び候はんと申ければ、家久、淚を流し、誠の士にて候、其狀披見の望みなく候、御持參候て御歸りあるべき由、懇に申て、繩を解き人を副へ、立花へ送り遣はせり。偖鎭種討死せし物具の引合はせに、一封の書あり。島津中務殿と書たれば、家久之を讀むに、今度降參を勸めらるゝ諫めに從はざりしは、義の重きに依てなりと、別に一封の書を大友に送り届け給はり候へとなり。家久、之を見て類ひ希なる勇將を殺しけるよ、此人を友とせば、如何計りか嬉しからんに、惜きことよ、弓箭執る身程恨め敷ものはなしとて、僧を供養し、葬禮を執り行ひ、壇を築て、家久、香を燒き、再拜しければ、義を感ずる國風にて、薩摩武者、皆燒香して淚を流し、皆鎭種を稱美せり。島津家の軍法に、武者引導と言へるあり、是は敵軍戰亡の屍を埋葬し、恭く祭式を執り行ふを言ふ。是後、家久、豐久及び國老川田駿河守祭主となりて、是祭式を執行へり。何れの戰にも皆然らざることなし、後治世に至りては、每年七月一二三の三日間、城北福昌寺にて大施餓鬼と唱へ、藩主親しく參拜し、在江戶の時は一門の者を名代として、國老其他臨場する例規なりとぞ。
新字:○十四年、家久、高橋鎮種を岩屋の城に攻む。時に鎮種より立花へ、谷川大膳を使として遣りたり、七月二十六日、山伝ひに立花の城へ参り、即ち返事を取り、二十七日の夜、岩屋落城のことを知らず、大手の門に忍寄り、大膳ぞ明けて入れ候へと言ふ。敵大勢出取籠め縄を掛け、家久の前に連来りたり、如何様の者ぞと尋ぬれば、少しも隠さず名乗りし故、家久、鎮種は、今日戦死を遂げられたり。其方最早此方へ相随はれ候へ、鎮種よりの加恩の程には、何時も遣はすべくと言へば、大膳忝きこと身に余り候、然れども、此節に及び、左様の望み之なく候、只御芳志に預り度こと一つあり、立花よりの返札、某懐中致し居るを、首を刎られて後、御披見賜はりなば、何事か之に過ぎたる喜び候はんと申ければ、家久、涙を流し、誠の士にて候、其状披見の望みなく候、御持参候て御帰りあるべき由、懇に申て、縄を解き人を副へ、立花へ送り遣はせり。偖鎮種討死せし物具の引合はせに、一封の書あり。島津中務殿と書たれば、家久之を読むに、今度降参を勧めらるゝ諫めに従はざりしは、義の重きに依てなりと、別に一封の書を大友に送り届け給はり候へとなり。家久、之を見て類ひ希なる勇将を殺しけるよ、此人を友とせば、如何計りか嬉しからんに、惜きことよ、弓箭執る身程恨め敷ものはなしとて、僧を供養し、葬礼を執り行ひ、壇を築て、家久、香を焼き、再拝しければ、義を感ずる国風にて、薩摩武者、皆焼香して涙を流し、皆鎮種を称美せり。島津家の軍法に、武者引導と言へるあり、是は敵軍戦亡の屍を埋葬し、恭く祭式を執り行ふを言ふ。是後、家久、豊久及び国老川田駿河守祭主となりて、是祭式を執行へり。何れの戦にも皆然らざることなし、後治世に至りては、毎年七月一二三の三日間、城北福昌寺にて大施餓鬼と唱へ、藩主親しく参拝し、在江戸の時は一門の者を名代として、国老其他臨場する例規なりとぞ。
書き下し
○十四年、家久、高橋鎭種を岩屋の城に攻む。時に鎭種より立花へ、谷川大膳を使として遣りたり、七月二十六日、山傳ひに立花の城へ參り、卽ち返事を取り、二十七日の夜、岩屋落城のことを知らず、大手の門に忍寄り、大膳ぞ明けて入れ候へと言ふ。敵大勢出取籠め繩を掛け、家久の前に連來りたり、如何樣の者ぞと尋ぬれば、少しも隱さず名乘りし故、家久、鎭種は、今日戰死を遂げられたり。其方最早此方へ相隨はれ候へ、鎭種よりの加恩の程には、何時も遣はすべくと言へば、大膳忝きこと身に餘り候、然れども、此節に及び、左樣の望み之なく候、只御芳志に預り度こと一つあり、立花よりの返札、某懷中致し居るを、首を刎られて後、御披見賜はりなば、何事か之に過ぎたる喜び候はんと申ければ、家久、淚を流し、誠の士にて候、其狀披見の望みなく候、御持參候て御歸りあるべき由、懇に申て、繩を解き人を副へ、立花へ送り遣はせり。偖鎭種討死せし物具の引合はせに、一封の書あり。島津中務殿と書たれば、家久之を讀むに、今度降參を勸めらるゝ諫めに從はざりしは、義の重きに依てなりと、別に一封の書を大友に送り届け給はり候へとなり。家久、之を見て類ひ希なる勇將を殺しけるよ、此人を友とせば、如何計りか嬉しからんに、惜きことよ、弓箭執る身程恨め敷ものはなしとて、僧を供養し、葬禮を執り行ひ、壇を築て、家久、香を燒き、再拜しければ、義を感ずる國風にて、薩摩武者、皆燒香して淚を流し、皆鎭種を稱美せり。島津家の軍法に、武者引導と言へるあり、是は敵軍戰亡の屍を埋葬し、恭く祭式を執り行ふを言ふ。是後、家久、豐久及び國老川田駿河守祭主となりて、是祭式を執行へり。何れの戰にも皆然らざることなし、後治世に至りては、每年七月一二三の三日間、城北福昌寺にて大施餓鬼と唱へ、藩主親しく參拜し、在江戶の時は一門の者を名代として、國老其他臨場する例規なりとぞ。
現代語訳
天正十四年、家久は高橋鎮種を岩屋の城に攻めた。そのとき鎮種から立花へ、谷川大膳が使者として遣わされていた。七月二十六日、山伝いに立花の城へ参り、すぐ返事を受け取り、二十七日の夜、岩屋が落城したことを知らず、大手の門に忍び寄り、「大膳である。開けて入れてくれ」と言った。敵は大勢で出て取り囲み、縄をかけ、家久の前に連れてきた。家久が「どのような者か」と尋ねると、大膳は少しも隠さず名乗ったので、家久は「鎮種は今日、戦死を遂げられた。そなたはもうこちらに従われよ。鎮種からの恩賞に劣らぬものを、いつでも与えよう」と言った。大膳は「かたじけなく身に余ることですが、この期に及んで、そのような望みはございません。ただ、ご厚意にあずかりたいことが一つあります。立花からの返書を私が懐に持っております。首をはねられた後にご覧いただければ、これ以上の喜びはありません」と言うと、家久は涙を流し、「まことの武士である。その書状を見る望みはない。持参してお帰りなさい」と懇ろに言って、縄を解き、人を添えて立花へ送り届けさせた。さて、鎮種が討ち死にしたときの持ち物を照合していると、一通の書状があった。「島津中務殿」と書いてあったので、家久がこれを読むと、「今回降参を勧められたのに従わなかったのは、義が重いからです」とあり、別の一通を大友に届けてほしいとのことだった。家久はこれを見て、「類いまれな勇将を殺してしまった。この人を友としたなら、どれほど嬉しかっただろうに、惜しいことだ。弓矢を取る身ほど恨めしいものはない」と言って、僧を招いて供養し、葬儀を執り行い、壇を築き、家久は香を焚いて再拝した。義を重んじる国風であるから、薩摩武者は皆、焼香して涙を流し、鎮種をほめたたえた。島津家の軍法に武者引導というものがある。これは敵軍の戦死者の遺体を埋葬し、恭しく祭式を執り行うことをいう。この後、家久、豊久および国老の川田駿河守が祭主となって、この祭式を執り行った。どの戦いでも必ずそうしたという。のちに治世になってからは、毎年七月一日・二日・三日の三日間、城の北の福昌寺で大施餓鬼と称して行い、藩主が自ら参拝し、江戸にいるときは一門の者を名代として、国老その他が出席するのが決まりであったという。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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『弁名』義人多く礼の先王の礼為るを知りて、義も亦た先王の義為るを知らず。故に其の解皆通ぜず。蓋し義は道の分なり。千差万別、各〻宜しき所有り。故に曰く、「義は宜なり」と。先王既に其の千差万別なる者を以て、制して以て礼と為す。学者猶ほ其の之を制する所以の意を伝ふ。是れ所謂礼の義なり。而して其の空言を以て伝ふる者、是れ所謂義なり。故に礼義は皆古より之を伝ふ。豈に先王の義に非ずや。
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『武士訓』卷三・第6段たとえば。人ありて。命を千貫萬貫にかへんかといふとも。かゆるものあるべからず。さほど大切なる命なれども。義によつて拋こと。塵よりも輕し。しかるときは。義ほどにおもきもの。世にあるべからず。源致雄歌に「いのちをばかろきになしてものゝふの道よりおもき道やらめやは(風雅集に見えたり。)
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『五常訓』巻之四・義一中庸曰く、義は宜なり、賢を尊ぶを大なりと為す。朱子章句に云く、宜とは事理を分別して、各宜しき所有るなり。周子も、宜を義と曰ふ。釈名曰く、義は宜なり、事物を裁制して、宜しきに合はしむるなり。諸説皆宜しきを以て義とす。宜しきとは、万事万物の品にしたがひ、其理をわきまへて、相応するを云ふ。朱子は、義は心の制、事の宜といへり。制とは、たちわかつ意。裁判するなり。心の制とは、心中に善悪をわかつ所の理あるを云ふ。義の心にあるは、利刀の如し。物来れば、刀を以てたてば二となる。善悪を決断する事、かくの如し。是心の制なり。義の体とす。事之宜とは、諸事に相応して、其理の宜しきにしたがふを云ふ。是義の用とす。事之宜は、心の制ありて、善悪をたちわかちて後の事なり。人を愛するは仁なり。
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