名将言行録 / 『名将言行録』島津家久 敵の勇士を弔う
家久、江里口が首を膝の上に置き、並びなき剛の者、義勇の士とは、是をこそ言べけれ、生捕て對面し、龍造寺に送り返さんと思ひしに、思ひ切りたる戰死せしかば、力及ばずとて、近所の僧を請じ、江里口が弔のこと念頃に沙汰し、其有樣詳に記して、其僧に頼み、故鄕に遣られけり。 ○此役、家久、子の又七郎豐久十五歲なりけるを、近付け、天晴武者振よ、只上帶の結び斯くするものとて結び直し、脇差を拔て其端を切て後、能く聞け、若し軍に打勝て討死せずば、此上帶我解くべし。今日の軍に、尸を戰場に暴さんには、島津が家に生れたる者の思ひ切たりと、敵も知り、我も黃泉に喜ばんものを、と言もあへず打立ちしが、戰終て後、豐久を呼びて、今朝の約の如く、上帶を解きたりしとぞ。 ○此役、義久、有馬へ加勢を遣はす時、義弘か、家久か兩人の中を遣はすべしと思ひ、新納武藏守忠元に問ふ。忠元、兵庫殿は耳臆病に、目甲斐々々敷大將なり。中務殿は、耳甲斐々々敷目臆病なる大將なり、目に見たる時、大事に存ずる大將は、軍の仕損じなきものなり、必ず中務殿を遣はされ然るべしと答ふ。義久如何にもと思ひ、果して大勝を得たり。
新字:家久、江里口が首を膝の上に置き、並びなき剛の者、義勇の士とは、是をこそ言べけれ、生捕て対面し、竜造寺に送り返さんと思ひしに、思ひ切りたる戦死せしかば、力及ばずとて、近所の僧を請じ、江里口が弔のこと念頃に沙汰し、其有様詳に記して、其僧に頼み、故郷に遣られけり。 ○此役、家久、子の又七郎豊久十五歳なりけるを、近付け、天晴武者振よ、只上帯の結び斯くするものとて結び直し、脇差を抜て其端を切て後、能く聞け、若し軍に打勝て討死せずば、此上帯我解くべし。今日の軍に、尸を戦場に暴さんには、島津が家に生れたる者の思ひ切たりと、敵も知り、我も黄泉に喜ばんものを、と言もあへず打立ちしが、戦終て後、豊久を呼びて、今朝の約の如く、上帯を解きたりしとぞ。 ○此役、義久、有馬へ加勢を遣はす時、義弘か、家久か両人の中を遣はすべしと思ひ、新納武蔵守忠元に問ふ。忠元、兵庫殿は耳臆病に、目甲斐々々敷大将なり。中務殿は、耳甲斐々々敷目臆病なる大将なり、目に見たる時、大事に存ずる大将は、軍の仕損じなきものなり、必ず中務殿を遣はされ然るべしと答ふ。義久如何にもと思ひ、果して大勝を得たり。
書き下し
家久、江里口が首を膝の上に置き、並びなき剛の者、義勇の士とは、是をこそ言べけれ、生捕て對面し、龍造寺に送り返さんと思ひしに、思ひ切りたる戰死せしかば、力及ばずとて、近所の僧を請じ、江里口が弔のこと念頃に沙汰し、其有樣詳に記して、其僧に頼み、故鄕に遣られけり。 ○此役、家久、子の又七郎豐久十五歲なりけるを、近付け、天晴武者振よ、只上帶の結び斯くするものとて結び直し、脇差を拔て其端を切て後、能く聞け、若し軍に打勝て討死せずば、此上帶我解くべし。今日の軍に、尸を戰場に暴さんには、島津が家に生れたる者の思ひ切たりと、敵も知り、我も黃泉に喜ばんものを、と言もあへず打立ちしが、戰終て後、豐久を呼びて、今朝の約の如く、上帶を解きたりしとぞ。 ○此役、義久、有馬へ加勢を遣はす時、義弘か、家久か兩人の中を遣はすべしと思ひ、新納武藏守忠元に問ふ。忠元、兵庫殿は耳臆病に、目甲斐々々敷大將なり。中務殿は、耳甲斐々々敷目臆病なる大將なり、目に見たる時、大事に存ずる大將は、軍の仕損じなきものなり、必ず中務殿を遣はされ然るべしと答ふ。義久如何にもと思ひ、果して大勝を得たり。
現代語訳
家久は、江里口の首を膝の上に置き、「並ぶ者のない剛の者、義勇の士とは、この人をこそ言うのだ。生け捕りにして対面し、龍造寺方に送り返そうと思っていたのに、覚悟を決めて戦死したので、力が及ばなかった」と言い、近所の僧を招いて江里口の弔いを丁寧に執り行い、その有様を詳しく記して僧に託し、故郷へ届けさせた。 この戦いのとき、家久は子の又七郎豊久が十五歳であったのを近くに呼び、「見事な武者ぶりよ。ただ、上帯の結びはこうするものだ」と結び直し、脇差を抜いてその端を切ったのち、「よく聞け。もし戦に勝って討ち死にしなければ、この上帯は私が解こう。今日の戦で亡骸を戦場にさらすなら、島津の家に生まれた者の覚悟を決めた姿と、敵も知り、私もあの世で喜ぶだろう」と言い終わるや出陣した。戦が終わった後、豊久を呼び、今朝の約束どおり、上帯を解いたという。 この戦いのとき、義久が有馬へ加勢を送るにあたり、義弘か家久かどちらかを送ろうと思って、新納武蔵守忠元に尋ねた。忠元は「兵庫殿(義弘)は耳に臆病で、目に頼もしい大将です。中務殿(家久)は耳に頼もしく、目に臆病な大将です。目で見たときに事を重く考える大将は、戦の失敗がありません。ぜひ中務殿をお遣わしになるのがよろしいでしょう」と答えた。義久はなるほどと思い、遣わしたところ、果たして大勝を得た。
解説

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