名将言行録 / 『名将言行録』島津義弘 敵中を突破して帰国
○十五日、西軍大崩の際に當り、義弘、東軍と壘戰し、殺傷する所甚だ多し。然れども、衆寡敵せず、既に討死せんとしけるに、中務大輔豐久、義弘を諫め、我身は取て返し時移るまで戰て討死す、義弘希有に死を出でて、家康の陣に、郎等河上四郎兵衞忠元を遣はし、此度義弘思はずも御敵となりしこと、年來の御芳志を忘れたるに似たり、尤も是入道が本意にあらず候、今御陣頭を罷り過ぎ候に依て、使者を參らせて候、委きことは歸國の後陳謝し申べき所なりと言捨てゝ、道遁らんとせし野伏原を一々に蹴散して近江の甲賀に掛り、老翁一人道知るべさせ、奈良に出づ。是より彼老翁には、刀に差副へし金龍の笄を與へ、是を印に必ず薩摩に來れ、今度の勞に報ぜんとて歸し、夫より大坂に至り、毛利輝元、增田長盛に、是まで切拔け參りたり、秀頼公御籠城遊ばされんには、我等も籠り申べきとなり。兩人より返事に、無事に御引退き目出度候、秀頼公御籠城の御心掛之なく候間、早々國元へ越され候へと申來りし故、大坂に在りし父子の妻子を始め、悉くに取て船五十餘艘に乘取り、日向國に着きにけり。其後彼老翁、薩摩に行かばやと思へども、道遠ければ、空く過ぎしに、程經て人に誘引せられ、鹿兒島に行て笄を出しければ、義弘大に喜び、など疾く來らざりしぞとて様々饗し、黄金若干與へ、誘引せし人にも、黄金與へて、人を副へて返されけり。
新字:○十五日、西軍大崩の際に当り、義弘、東軍と塁戦し、殺傷する所甚だ多し。然れども、衆寡敵せず、既に討死せんとしけるに、中務大輔豊久、義弘を諫め、我身は取て返し時移るまで戦て討死す、義弘希有に死を出でて、家康の陣に、郎等河上四郎兵衛忠元を遣はし、此度義弘思はずも御敵となりしこと、年来の御芳志を忘れたるに似たり、尤も是入道が本意にあらず候、今御陣頭を罷り過ぎ候に依て、使者を参らせて候、委きことは帰国の後陳謝し申べき所なりと言捨てゝ、道遁らんとせし野伏原を一々に蹴散して近江の甲賀に掛り、老翁一人道知るべさせ、奈良に出づ。是より彼老翁には、刀に差副へし金竜の笄を与へ、是を印に必ず薩摩に来れ、今度の労に報ぜんとて帰し、夫より大坂に至り、毛利輝元、增田長盛に、是まで切抜け参りたり、秀頼公御籠城遊ばされんには、我等も籠り申べきとなり。両人より返事に、無事に御引退き目出度候、秀頼公御籠城の御心掛之なく候間、早々国元へ越され候へと申来りし故、大坂に在りし父子の妻子を始め、悉くに取て船五十余艘に乗取り、日向国に着きにけり。其後彼老翁、薩摩に行かばやと思へども、道遠ければ、空く過ぎしに、程経て人に誘引せられ、鹿児島に行て笄を出しければ、義弘大に喜び、など疾く来らざりしぞとて様々饗し、黄金若干与へ、誘引せし人にも、黄金与へて、人を副へて返されけり。
書き下し
○十五日、西軍大崩の際に當り、義弘、東軍と壘戰し、殺傷する所甚だ多し。然れども、衆寡敵せず、既に討死せんとしけるに、中務大輔豐久、義弘を諫め、我身は取て返し時移るまで戰て討死す、義弘希有に死を出でて、家康の陣に、郎等河上四郎兵衞忠元を遣はし、此度義弘思はずも御敵となりしこと、年來の御芳志を忘れたるに似たり、尤も是入道が本意にあらず候、今御陣頭を罷り過ぎ候に依て、使者を參らせて候、委きことは歸國の後陳謝し申べき所なりと言捨てゝ、道遁らんとせし野伏原を一々に蹴散して近江の甲賀に掛り、老翁一人道知るべさせ、奈良に出づ。是より彼老翁には、刀に差副へし金龍の笄を與へ、是を印に必ず薩摩に來れ、今度の勞に報ぜんとて歸し、夫より大坂に至り、毛利輝元、增田長盛に、是まで切拔け參りたり、秀頼公御籠城遊ばされんには、我等も籠り申べきとなり。兩人より返事に、無事に御引退き目出度候、秀頼公御籠城の御心掛之なく候間、早々國元へ越され候へと申來りし故、大坂に在りし父子の妻子を始め、悉くに取て船五十餘艘に乘取り、日向國に着きにけり。其後彼老翁、薩摩に行かばやと思へども、道遠ければ、空く過ぎしに、程經て人に誘引せられ、鹿兒島に行て笄を出しければ、義弘大に喜び、など疾く來らざりしぞとて様々饗し、黄金若干與へ、誘引せし人にも、黄金與へて、人を副へて返されけり。
現代語訳
十五日、西軍が大いに崩れる際に当たって、義弘は東軍と塁の戦いをし、殺傷するところが甚だ多くありました。しかし、衆寡敵せず、すでに討ち死にしようとしたところ、中務大輔豊久が義弘を諫めて、私は取って返し、時の移るまで戦って討ち死にします、と言いました。義弘はまれにも死地を脱して、家康の陣に、家来の河上四郎兵衛忠元を遣わして、このたび、義弘が思わずもお敵となったことは、年来のご厚志を忘れたに似ております。もとより入道の本意ではございません。今、御陣頭を通り過ぎますので、使者を参らせました。くわしいことは帰国の後に陳謝申し上げるべきところでございます、と言い捨てて、道を遁れようとして出た野伏原を一人一人蹴散らして、近江の甲賀に掛かり、老翁一人に道案内をさせ、奈良に出ました。これよりその老翁には、刀に差し添えた金龍の笄を与え、これを印として必ず薩摩に来い、このたびの苦労に報いようと言って帰し、それから大坂に至り、毛利輝元、増田長盛に、ここまで切り抜けて参りました。秀頼公が御籠城あそばされるならば、我らも籠もりましょうと言いました。両人から返事に、無事に御引き退きめでたく存じます。秀頼公には御籠城の御心掛けはございませんので、早々に国元へ越されませ、と言ってきたので、大坂にあった父子の妻子をはじめ、ことごとく取り集めて、船五十余艘に乗り取り、日向国に着きました。その後、その老翁は、薩摩に行きたいと思ったけれども、道が遠いので空しく過ごしていましたが、程経て人に誘われて、鹿児島に行き、笄を出したところ、義弘は大いに喜び、どうして早く来なかったのかと、さまざまに饗応し、黄金若干を与え、誘引した人にも黄金を与えて、人を添えて帰されました。
解説

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