名将言行録 / 『名将言行録』島津義弘 石曼子と馬の叱責
此時秀吉薨じ、我國の軍勢難なく引て歸らんこと如何にも叶ふべからず、と皆人危ぶみ思ひしに、義弘一戰の功に依て軍を全うして引歸れり。頓て其勳功の賞として薩摩國出水郡及び、長島等五萬石の地を加へ賜はり、參議に進み、子息忠恒、左近衞少將と爲る。明韓島津を呼で石曼子と曰ふ。大に其威名を怖れ、以て兒啼を止むと云ふ。 ○義弘、鎌倉流の馬術を善くす。朝鮮にて、鍋島直茂、義弘方に來りて曰く、能き馬を得たれども駈出しを留兼候、率かせて參り候間、御一覽の上直し方もあらば、御傳授あれと乞ふ。義弘、了諾し、其馬の口合を見て、側小姓矢野主膳、二十歲計りの者に命じて、之に乘らしむ。地道より漸く乘立る時、叶はず駈出しける頃に、かくを打込みければ、駈出されしとも見えず、留り口見事にて直茂之を感稱せり。直茂歸陣ありて、鍋島の陣にて乘れざる馬を、薩摩の陣にては角前髪が乘得たらんとの沙汰あらんこと無念の至りなりとて後悔せりとぞ。直茂歸りの後、義弘腹立し、主膳に謂て曰く、頃日相應に馬を乘習候と思ひ、今日申付し所大坪のはみすらしを用ひ、漸く乘仕舞たる段、近頃以て卑怯の乘樣なり。以後右樣のこと之あるに於ては、流義の傳授は致す間敷と叱られしとぞ。
新字:此時秀吉薨じ、我国の軍勢難なく引て帰らんこと如何にも叶ふべからず、と皆人危ぶみ思ひしに、義弘一戦の功に依て軍を全うして引帰れり。頓て其勲功の賞として薩摩国出水郡及び、長島等五万石の地を加へ賜はり、参議に進み、子息忠恒、左近衛少将と為る。明韓島津を呼で石曼子と曰ふ。大に其威名を怖れ、以て児啼を止むと云ふ。 ○義弘、鎌倉流の馬術を善くす。朝鮮にて、鍋島直茂、義弘方に来りて曰く、能き馬を得たれども駈出しを留兼候、率かせて参り候間、御一覧の上直し方もあらば、御伝授あれと乞ふ。義弘、了諾し、其馬の口合を見て、側小姓矢野主膳、二十歳計りの者に命じて、之に乗らしむ。地道より漸く乗立る時、叶はず駈出しける頃に、かくを打込みければ、駈出されしとも見えず、留り口見事にて直茂之を感称せり。直茂帰陣ありて、鍋島の陣にて乗れざる馬を、薩摩の陣にては角前髪が乗得たらんとの沙汰あらんこと無念の至りなりとて後悔せりとぞ。直茂帰りの後、義弘腹立し、主膳に謂て曰く、頃日相応に馬を乗習候と思ひ、今日申付し所大坪のはみすらしを用ひ、漸く乗仕舞たる段、近頃以て卑怯の乗様なり。以後右様のこと之あるに於ては、流義の伝授は致す間敷と叱られしとぞ。
書き下し
此時秀吉薨じ、我國の軍勢難なく引て歸らんこと如何にも叶ふべからず、と皆人危ぶみ思ひしに、義弘一戰の功に依て軍を全うして引歸れり。頓て其勳功の賞として薩摩國出水郡及び、長島等五萬石の地を加へ賜はり、參議に進み、子息忠恒、左近衞少將と爲る。明韓島津を呼で石曼子と曰ふ。大に其威名を怖れ、以て兒啼を止むと云ふ。 ○義弘、鎌倉流の馬術を善くす。朝鮮にて、鍋島直茂、義弘方に來りて曰く、能き馬を得たれども駈出しを留兼候、率かせて參り候間、御一覽の上直し方もあらば、御傳授あれと乞ふ。義弘、了諾し、其馬の口合を見て、側小姓矢野主膳、二十歲計りの者に命じて、之に乘らしむ。地道より漸く乘立る時、叶はず駈出しける頃に、かくを打込みければ、駈出されしとも見えず、留り口見事にて直茂之を感稱せり。直茂歸陣ありて、鍋島の陣にて乘れざる馬を、薩摩の陣にては角前髪が乘得たらんとの沙汰あらんこと無念の至りなりとて後悔せりとぞ。直茂歸りの後、義弘腹立し、主膳に謂て曰く、頃日相應に馬を乘習候と思ひ、今日申付し所大坪のはみすらしを用ひ、漸く乘仕舞たる段、近頃以て卑怯の乘樣なり。以後右樣のこと之あるに於ては、流義の傳授は致す間敷と叱られしとぞ。
現代語訳
このとき秀吉が亡くなり、我が国の軍勢が無事に引き揚げることはとても叶うまいと、皆が危ぶみ思っていましたが、義弘は一戦の功によって軍を全うして引き揚げました。やがてその勲功の賞として、薩摩国の出水郡および長島など五万石の地を加え賜り、参議に進み、子息の忠恒は左近衛少将となりました。明と朝鮮は島津を呼んで石曼子といいました。大いにその威名を恐れ、それによって子どもの夜泣きを止めるとまで言われたということです。 義弘は、鎌倉流の馬術を善くしました。朝鮮で、鍋島直茂が義弘のもとへ来て言いました。よい馬を得ましたが、駆け出しを止めかねます。引かせて参りましたので、ご覧のうえ、直し方がありましたら、ご伝授ください、と乞いました。義弘は承諾し、その馬の口合いを見て、側小姓の矢野主膳、二十歳ばかりの者に命じて、これに乗らせました。地道から次第に乗り立てるとき、叶わず駆け出したころに、鞭を打ち込んだところ、駆け出されたとも見えず、止まり方が見事で、直茂はこれを感心して称えました。直茂は帰陣して、鍋島の陣で乗れなかった馬を、薩摩の陣では角前髪の者が乗りこなしたというと、評判が立つのは無念の至りだと後悔したということです。直茂が帰ったあと、義弘は腹を立て、主膳に言いました。先ごろ、相応に馬を乗り習ったと思い、今日申し付けたところ、大坪の轡を用い、ようやく乗り終えたのは、近ごろ卑怯な乗り方である。以後、このようなことがあれば、流儀の伝授はするまい、と叱られたということです。
解説

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名将言行録・『名将言行録』島津義弘 敵中を突破して帰国○十五日、西軍大崩の際に當り、義弘、東軍と壘戰し、殺傷する所甚だ多し。然れども、衆寡敵せず、既に討死せんとしけるに、中務大輔豐久、義弘を諫め、我身は取て返し時移るまで戰て討死す、義弘希有に死を出でて、家康の陣に、郎等河上四郎兵衞忠元を遣はし、此度義弘思はずも御敵となりしこと、年來の御芳志を忘れたるに似たり、尤も是入道が本意にあらず候、今御陣頭を罷り過ぎ候に依て、使者を參らせて候、委きことは歸國の後陳謝し申べき所なりと言捨てゝ、道遁らんとせし野伏原を一々に蹴散して近江の甲賀に掛り、老翁一人道知るべさせ、奈良に出づ。是より彼老翁には、刀に差副へし金龍の笄を與へ、是を印に必ず薩摩に來れ、今度の勞に報ぜんとて歸し、夫より大坂に至り、毛利輝元、增田長盛に、是まで切拔け參りたり、秀頼公御籠城遊ばされんには、我等も籠り申べきとなり。兩人より返事に、無事に御引退き目出度候、秀頼公御籠城の御心掛之なく候間、早々國元へ越され候へと申來りし故、大坂に在りし父子の妻子を始め、悉くに取て船五十餘艘に乘取り、日向國に着きにけり。其後彼老翁、薩摩に行かばやと思へども、道遠ければ、空く過ぎしに、程經て人に誘引せられ、鹿兒島に行て笄を出しければ、義弘大に喜び、など疾く來らざりしぞとて様々饗し、黄金若干與へ、誘引せし人にも、黄金與へて、人を副へて返されけり。
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