名将言行録 / 『名将言行録』島津義弘 泗川の大勝
○慶長元年九月、明と和平成り、明使揚方亭、沈惟敬等聚樂に至る。之に依り在韓の諸將をして、師を班さしむ。衆營を出で汲々として還らんとす。和平遂にならず、秀吉又令して師を班さゞらしむ。衆復た擾々として陣營に入る。初め歸朝の命下るの時、義弘、本田讚岐を使とし子息忠恒に告げて曰く、和平の信僞未だ知るべからず、師を班すは諸將の後にあるべしと。故に義弘未だ陣營の中に在り、營中寂として動搖することなし。衆義弘の高明に服す。 ○三年七月、明の大軍分つて、蔚山、順天、泗川に向ふ。兵勢大に震ふ。義弘曰く、大軍來侵す。我軍固と寡し、泗川、望津、永春、故館に散在するは謀の宜きにあらず、泗川は要害の地なり、一は此に會し城郭を堅固にして、敵を俟んと。爰に於て泗川城を修築し、望津永春を棄て、泗川に歸る。時に九月二十一日なり。明日明兵、昆陽を攻む。亦棄てゝ退く。明兵三營を取り勇み進む。義弘は敵をして悉く泗川に集らしめ、銳氣の衰るを待て、一擧に之を擊んと欲す。二十八日又舊館を棄つ。明兵進躡我軍利あらず。明兵既に泗川に近づく、忠常之を追はんとす。衆皆之に同ず。義弘制して曰く、大軍後に在り、既に川を渡る、泗川を攻んこと近きにあらん、其時一擧して之を擊つべしと。故に諸軍之を追はず、時に、明兵悉く晉州川を渡し、望津三里の間に露宿す。薩軍夜之を襲はんとす。義弘曰く、其不意を襲はゞ破らんこと必せり、然れども大軍三里に充滿す、我軍の微なる頃刻の間に殄滅することを得んや、夜明大軍來り攻めば勝敗知るべからず、既に川を渡るの敵久しからずして城を攻めん、彼は野に在り疲勞し、我は喩に據て銳氣を養ひ、逸を以て勞を待ち、疲劇を邀へて之を擊たば勝んこと掌を指すが如し、衆服して止む。十月朔日明兵二十萬泗川城を攻む。旌旗天を掩ひ、金鼓地に震ふ。薩軍打出て、戰はんとす。義弘二回城中を巡り、堅く禁じて出さず、又鳥銃を發することなからしむ。是弱を示し、敵を驕らしめ、其銳氣の衰ろを擊んとなり。自ら門左の櫓に登り、忠恒右の櫓に在りて指揮す。巳刻、明兵壘に臨む、薩軍奮激して矢砲を發せんことを乞ふ。既に壁に附かんとするに至りて之を許す。爰に於て諸軍競て矢砲を發し敵を斃すこと幾千萬なることを知らず。此時薩軍城を傾けて出づ、勢烈風の枯葉を拂ふが如し、明兵潰崩す。是日打取る首三萬八千七百十七、味方死する者僅に二人、義弘親ら四人を斬り、忠恒七人を斬る。
新字:○慶長元年九月、明と和平成り、明使揚方亭、沈惟敬等聚楽に至る。之に依り在韓の諸将をして、師を班さしむ。衆営を出で汲々として還らんとす。和平遂にならず、秀吉又令して師を班さゞらしむ。衆復た擾々として陣営に入る。初め帰朝の命下るの時、義弘、本田讃岐を使とし子息忠恒に告げて曰く、和平の信偽未だ知るべからず、師を班すは諸将の後にあるべしと。故に義弘未だ陣営の中に在り、営中寂として動揺することなし。衆義弘の高明に服す。 ○三年七月、明の大軍分つて、蔚山、順天、泗川に向ふ。兵勢大に震ふ。義弘曰く、大軍来侵す。我軍固と寡し、泗川、望津、永春、故館に散在するは謀の宜きにあらず、泗川は要害の地なり、一は此に会し城郭を堅固にして、敵を俟んと。爰に於て泗川城を修築し、望津永春を棄て、泗川に帰る。時に九月二十一日なり。明日明兵、昆陽を攻む。亦棄てゝ退く。明兵三営を取り勇み進む。義弘は敵をして悉く泗川に集らしめ、鋭気の衰るを待て、一挙に之を撃んと欲す。二十八日又旧館を棄つ。明兵進躡我軍利あらず。明兵既に泗川に近づく、忠常之を追はんとす。衆皆之に同ず。義弘制して曰く、大軍後に在り、既に川を渡る、泗川を攻んこと近きにあらん、其時一挙して之を撃つべしと。故に諸軍之を追はず、時に、明兵悉く晋州川を渡し、望津三里の間に露宿す。薩軍夜之を襲はんとす。義弘曰く、其不意を襲はゞ破らんこと必せり、然れども大軍三里に充満す、我軍の微なる頃刻の間に殄滅することを得んや、夜明大軍来り攻めば勝敗知るべからず、既に川を渡るの敵久しからずして城を攻めん、彼は野に在り疲労し、我は喩に拠て鋭気を養ひ、逸を以て労を待ち、疲劇を邀へて之を撃たば勝んこと掌を指すが如し、衆服して止む。十月朔日明兵二十万泗川城を攻む。旌旗天を掩ひ、金鼓地に震ふ。薩軍打出て、戦はんとす。義弘二回城中を巡り、堅く禁じて出さず、又鳥銃を発することなからしむ。是弱を示し、敵を驕らしめ、其鋭気の衰ろを撃んとなり。自ら門左の櫓に登り、忠恒右の櫓に在りて指揮す。巳刻、明兵塁に臨む、薩軍奮激して矢砲を発せんことを乞ふ。既に壁に附かんとするに至りて之を許す。爰に於て諸軍競て矢砲を発し敵を斃すこと幾千万なることを知らず。此時薩軍城を傾けて出づ、勢烈風の枯葉を払ふが如し、明兵潰崩す。是日打取る首三万八千七百十七、味方死する者僅に二人、義弘親ら四人を斬り、忠恒七人を斬る。
書き下し
○慶長元年九月、明と和平成り、明使揚方亭、沈惟敬等聚樂に至る。之に依り在韓の諸將をして、師を班さしむ。衆營を出で汲々として還らんとす。和平遂にならず、秀吉又令して師を班さゞらしむ。衆復た擾々として陣營に入る。初め歸朝の命下るの時、義弘、本田讚岐を使とし子息忠恒に告げて曰く、和平の信僞未だ知るべからず、師を班すは諸將の後にあるべしと。故に義弘未だ陣營の中に在り、營中寂として動搖することなし。衆義弘の高明に服す。 ○三年七月、明の大軍分つて、蔚山、順天、泗川に向ふ。兵勢大に震ふ。義弘曰く、大軍來侵す。我軍固と寡し、泗川、望津、永春、故館に散在するは謀の宜きにあらず、泗川は要害の地なり、一は此に會し城郭を堅固にして、敵を俟んと。爰に於て泗川城を修築し、望津永春を棄て、泗川に歸る。時に九月二十一日なり。明日明兵、昆陽を攻む。亦棄てゝ退く。明兵三營を取り勇み進む。義弘は敵をして悉く泗川に集らしめ、銳氣の衰るを待て、一擧に之を擊んと欲す。二十八日又舊館を棄つ。明兵進躡我軍利あらず。明兵既に泗川に近づく、忠常之を追はんとす。衆皆之に同ず。義弘制して曰く、大軍後に在り、既に川を渡る、泗川を攻んこと近きにあらん、其時一擧して之を擊つべしと。故に諸軍之を追はず、時に、明兵悉く晉州川を渡し、望津三里の間に露宿す。薩軍夜之を襲はんとす。義弘曰く、其不意を襲はゞ破らんこと必せり、然れども大軍三里に充滿す、我軍の微なる頃刻の間に殄滅することを得んや、夜明大軍來り攻めば勝敗知るべからず、既に川を渡るの敵久しからずして城を攻めん、彼は野に在り疲勞し、我は喩に據て銳氣を養ひ、逸を以て勞を待ち、疲劇を邀へて之を擊たば勝んこと掌を指すが如し、衆服して止む。十月朔日明兵二十萬泗川城を攻む。旌旗天を掩ひ、金鼓地に震ふ。薩軍打出て、戰はんとす。義弘二回城中を巡り、堅く禁じて出さず、又鳥銃を發することなからしむ。是弱を示し、敵を驕らしめ、其銳氣の衰ろを擊んとなり。自ら門左の櫓に登り、忠恒右の櫓に在りて指揮す。巳刻、明兵壘に臨む、薩軍奮激して矢砲を發せんことを乞ふ。既に壁に附かんとするに至りて之を許す。爰に於て諸軍競て矢砲を發し敵を斃すこと幾千萬なることを知らず。此時薩軍城を傾けて出づ、勢烈風の枯葉を拂ふが如し、明兵潰崩す。是日打取る首三萬八千七百十七、味方死する者僅に二人、義弘親ら四人を斬り、忠恒七人を斬る。
現代語訳
慶長元年九月、明との和平がなり、明の使者の揚方亭、沈惟敬らが聚楽に至りました。これにより、在韓の諸将に軍を引き揚げさせることとなりました。諸営は営を出て、急ぎ急ぎ帰ろうとしました。和平はついにならず、秀吉はまた令して軍を引き揚げさせませんでした。諸将はまた騒がしく陣営に入りました。はじめ帰朝の命が下ったとき、義弘は、本田讃岐を使いとして、子息の忠恒に告げさせました。和平の真偽はまだ分からない。軍を引き揚げるのは諸将の後にするのがよい、と。ゆえに義弘はなお陣営の中にあって、営中は静まりかえって動揺することがありませんでした。諸将は義弘の見識の高さに服しました。 三年七月、明の大軍が分かれて、蔚山・順天・泗川に向かいました。兵勢は大いに振るいました。義弘は言いました。大軍が来侵する。我が軍はもとより少ない。泗川、望津、永春、故館に散在するのは、謀として適切ではない。泗川は要害の地である。一つにここに会して、城郭を堅固にして、敵を待とう、と。ここにおいて泗川城を修築し、望津・永春を捨てて、泗川に帰りました。時に九月二十一日です。明日、明兵が昆陽を攻めました。これも捨てて退きました。明兵は三つの営を取り、勇み進みました。義弘は、敵をことごとく泗川に集まらせ、鋭気の衰えるのを待って、一挙にこれを撃とうと思いました。二十八日、また旧館を捨てました。明兵は進んで追いかけ、我が軍は利がありません。明兵はすでに泗川に近づきました。忠常がこれを追おうとしました。皆これに同意しました。義弘は制して言いました。大軍が後ろにある。すでに川を渡っている。泗川を攻めることは近いだろう。そのとき一挙にこれを撃つべきである、と。ゆえに諸軍はこれを追いませんでした。このとき、明兵はことごとく晋州川を渡し、望津の三里の間に野宿しました。薩軍は夜これを襲おうとしました。義弘は言いました。その不意を襲えば破ることは必定である。しかし大軍が三里に満ちている。我が軍の微小さで、わずかな間に殲滅することができようか。夜が明けて大軍が来攻すれば、勝敗は分からない。すでに川を渡った敵は、久しからずして城を攻めるだろう。彼は野にあって疲労し、我は要害に拠って鋭気を養い、逸をもって労を待ち、疲れ切ったところを迎え撃てば、勝つことは掌を指すようである、と。皆、服して止めました。十月朔日、明兵二十万が泗川城を攻めました。旗は天を覆い、金鼓は地に震えました。薩軍は打って出て戦おうとしました。義弘は二回城中を巡り、堅く禁じて出させず、また鉄砲を発することもなくさせました。これは弱さを示し、敵を驕らせて、その鋭気の衰えるところを撃とうとしたのです。自ら門の左の櫓に登り、忠恒は右の櫓にあって指揮しました。巳の刻、明兵は塁に臨みました。薩軍は奮い立って矢砲を発することを願いました。すでに壁に取り付こうとするに至って、これを許しました。ここにおいて、諸軍は競って矢砲を発し、敵を倒すこと幾千万か分かりませんでした。このとき薩軍は城を傾けて出て、勢いは烈風が枯葉を払うようでした。明兵は潰れ崩れました。この日、打ち取った首は三万八千七百十七、味方の死者はわずかに二人、義弘みずから四人を斬り、忠恒は七人を斬りました。
解説

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