名将言行録 / 『名将言行録』島津義弘 飫肥の養子となる
陸奧守貴久の二子、初め又四郎と稱す、兄義久の嗣と爲り、封を襲ひ、兵庫頭に任ず、征韓の役、功最大なるを以て、特に從三位に敍し、參議に任ず、後髪を削り、惟新と號し、加治木城に住す、元和五年七月二十一日薨す、年八十五。 ○伊東義祐、累りに飫肥を攻む。島津忠親、多く其良を喪ひ、危急日に逼る。永祿三年三月、島津貴久、義弘をして忠親の養子と爲さしむ。義弘曰く、伊東は勁敵なり。飫肥は蕞爾たる一邑なり、如何ぞ能く之に相抗衡するを得んや、殊に飫肥にて名ある程の者は皆累年の弓箭に戰死を遂げ、今は只其殘衆の餘裔のみ、殊に薩摩は遠路なり、容易に援兵を得難し、然れども危を見て命を投くるは、臣子の常なり、我以て辭すべからずとて、遂に往けり。居ること三年、中頃鹿兒島に歸省す。會々伊東氏飫肥を攻め、益々急なり。義弘報を得て馳歸らんとす。貴久、義久之を止めて遣らず。義弘曰く、已に結びて人の子となり、今座ながら其難を視て救はず、兒何の面目か復た世に立んやと、卽日馳歸る。既にして島津氏、肝屬兼續の爲めに困められ、國殆んど保たず、貴久、義弘を召還さんとす。義弘聞かず。忠親涕を攬りて曰く、辱く高誼を拜す、然れども、國寶に危急、今子還り力を父兄に戮はせられば、幸に保全を得ん、國既に保全ならば、則ち我家も亦頼て以て安きを得ん。我に負くを以て念と爲すこと勿れとありしにぞ、義弘は止むを得ず還りたり。
新字:陸奥守貴久の二子、初め又四郎と称す、兄義久の嗣と為り、封を襲ひ、兵庫頭に任ず、征韓の役、功最大なるを以て、特に従三位に叙し、参議に任ず、後髪を削り、惟新と号し、加治木城に住す、元和五年七月二十一日薨す、年八十五。 ○伊東義祐、累りに飫肥を攻む。島津忠親、多く其良を喪ひ、危急日に逼る。永禄三年三月、島津貴久、義弘をして忠親の養子と為さしむ。義弘曰く、伊東は勁敵なり。飫肥は蕞爾たる一邑なり、如何ぞ能く之に相抗衡するを得んや、殊に飫肥にて名ある程の者は皆累年の弓箭に戦死を遂げ、今は只其残衆の余裔のみ、殊に薩摩は遠路なり、容易に援兵を得難し、然れども危を見て命を投くるは、臣子の常なり、我以て辞すべからずとて、遂に往けり。居ること三年、中頃鹿児島に帰省す。会々伊東氏飫肥を攻め、益々急なり。義弘報を得て馳帰らんとす。貴久、義久之を止めて遣らず。義弘曰く、已に結びて人の子となり、今座ながら其難を視て救はず、児何の面目か復た世に立んやと、即日馳帰る。既にして島津氏、肝属兼続の為めに困められ、国殆んど保たず、貴久、義弘を召還さんとす。義弘聞かず。忠親涕を攬りて曰く、辱く高誼を拝す、然れども、国宝に危急、今子還り力を父兄に戮はせられば、幸に保全を得ん、国既に保全ならば、則ち我家も亦頼て以て安きを得ん。我に負くを以て念と為すこと勿れとありしにぞ、義弘は止むを得ず還りたり。
書き下し
陸奧守貴久の二子、初め又四郎と稱す、兄義久の嗣と爲り、封を襲ひ、兵庫頭に任ず、征韓の役、功最大なるを以て、特に從三位に敍し、參議に任ず、後髪を削り、惟新と號し、加治木城に住す、元和五年七月二十一日薨す、年八十五。 ○伊東義祐、累りに飫肥を攻む。島津忠親、多く其良を喪ひ、危急日に逼る。永祿三年三月、島津貴久、義弘をして忠親の養子と爲さしむ。義弘曰く、伊東は勁敵なり。飫肥は蕞爾たる一邑なり、如何ぞ能く之に相抗衡するを得んや、殊に飫肥にて名ある程の者は皆累年の弓箭に戰死を遂げ、今は只其殘衆の餘裔のみ、殊に薩摩は遠路なり、容易に援兵を得難し、然れども危を見て命を投くるは、臣子の常なり、我以て辭すべからずとて、遂に往けり。居ること三年、中頃鹿兒島に歸省す。會々伊東氏飫肥を攻め、益々急なり。義弘報を得て馳歸らんとす。貴久、義久之を止めて遣らず。義弘曰く、已に結びて人の子となり、今座ながら其難を視て救はず、兒何の面目か復た世に立んやと、卽日馳歸る。既にして島津氏、肝屬兼續の爲めに困められ、國殆んど保たず、貴久、義弘を召還さんとす。義弘聞かず。忠親涕を攬りて曰く、辱く高誼を拜す、然れども、國寶に危急、今子還り力を父兄に戮はせられば、幸に保全を得ん、國既に保全ならば、則ち我家も亦頼て以て安きを得ん。我に負くを以て念と爲すこと勿れとありしにぞ、義弘は止むを得ず還りたり。
現代語訳
陸奥守貴久の二男。初め又四郎と称しました。兄の義久の後を継ぎ、封を襲い、兵庫頭に任じられました。征韓の役で、功が最も大きいことから、特に従三位に叙され、参議に任じられました。のちに髪を剃り、惟新と号し、加治木城に住みました。元和五年七月二十一日に亡くなりました。享年八十五。 伊東義祐が、たびたび飫肥を攻めました。島津忠親は多くの良い将を失い、危急が日に迫りました。永禄三年三月、島津貴久は、義弘を忠親の養子としました。義弘は言いました。伊東は強い敵です。飫肥は小さな一邑です。どうしてこれに対抗することができましょうか。ことに飫肥で名のある者は、みな年来の戦に戦死を遂げ、今はただその残りの子孫だけです。ことに薩摩は遠路です。援兵を容易に得がたい。しかし、危うきを見て命を投げ出すのは、臣下・子の常です。私は辞退すべきではありません、と言って、ついに赴きました。居ること三年、中ごろ鹿児島に帰省しました。たまたま伊東氏が飫肥を攻め、ますます急になりました。義弘は報せを得て、馳せ帰ろうとしました。貴久と義久はこれを止めて遣りませんでした。義弘は言いました。すでに契りを結んで人の子となり、今、座ってその難を見て救わなければ、私は何の面目あって再び世に立ちましょうか、と、即日馳せ帰りました。やがて、島津氏が肝付兼続のために苦しめられ、国がほとんど保てなくなり、貴久は義弘を召還しようとしました。義弘は聞きませんでした。忠親は涙を拭って言いました。かたじけなくも高い誼を拝します。しかし、国の宝が危急にあります。今、あなたが帰って力を父兄に合わせられれば、幸いに保全を得るでしょう。国がすでに保全されれば、我が家もまた頼って安きを得ます。私に背くことを気にかけられますな、とありましたので、義弘はやむを得ず帰りました。
解説

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