名将言行録 / 『名将言行録』島津義弘 初見えの子への言葉
○義弘に、諸士の子供初めて目見の時、側近く呼寄せ、奏者より何某子何にと披露せば、義弘、篤くと見て、其父手柄ある者あらば、何某は何方の合戰に殊の外働手柄致したり、其方の樣子父に似たり、手柄も父に增はするとも、劣りはせまじ、隨分忠孝を勵み奉公致すべき旨、申聞らる。又親のしかと手柄も之なき者の子なれば、其方の親も、成程心掛はありつれども、場所惡敷不仕合にて一度の手柄なし、其方を見れば、親にも優りたる樣子なり、向後は隨分手柄もあるべし、忠孝を心掛奉公致すべき旨、申され、幾人にても、一人づゝ召寄せ、其人相應の挨拶之あり、扇子一本づゝ手渡しに賜はり、退出せしめしとぞ。 ○義弘、愛する所の名馬あり、長壽院栗毛と曰ふ。木崎原の役、伊東の臣、柚木崎丹後、弓に矢を番ひて駈來る。義弘退口なりしが引返し、鎗を以て丹後を突く。丹後は少し卑き所なり。義弘は高き所にて、馬上にては少し鎗合遠かりしを、彼馬其儘膝を突きしかば、義弘の鎗合程能くなりて丹後を突留めしかば、是よりして此馬を膝突栗毛と稱す。義弘一生五十二度の戰に、二十度餘は此馬に乘りしと。此馬八十六歲まで生きたりと云ふ。
新字:○義弘に、諸士の子供初めて目見の時、側近く呼寄せ、奏者より何某子何にと披露せば、義弘、篤くと見て、其父手柄ある者あらば、何某は何方の合戦に殊の外働手柄致したり、其方の様子父に似たり、手柄も父に增はするとも、劣りはせまじ、随分忠孝を励み奉公致すべき旨、申聞らる。又親のしかと手柄も之なき者の子なれば、其方の親も、成程心掛はありつれども、場所悪敷不仕合にて一度の手柄なし、其方を見れば、親にも優りたる様子なり、向後は随分手柄もあるべし、忠孝を心掛奉公致すべき旨、申され、幾人にても、一人づゝ召寄せ、其人相応の挨拶之あり、扇子一本づゝ手渡しに賜はり、退出せしめしとぞ。 ○義弘、愛する所の名馬あり、長寿院栗毛と曰ふ。木崎原の役、伊東の臣、柚木崎丹後、弓に矢を番ひて駈来る。義弘退口なりしが引返し、鎗を以て丹後を突く。丹後は少し卑き所なり。義弘は高き所にて、馬上にては少し鎗合遠かりしを、彼馬其儘膝を突きしかば、義弘の鎗合程能くなりて丹後を突留めしかば、是よりして此馬を膝突栗毛と称す。義弘一生五十二度の戦に、二十度余は此馬に乗りしと。此馬八十六歳まで生きたりと云ふ。
書き下し
○義弘に、諸士の子供初めて目見の時、側近く呼寄せ、奏者より何某子何にと披露せば、義弘、篤くと見て、其父手柄ある者あらば、何某は何方の合戰に殊の外働手柄致したり、其方の樣子父に似たり、手柄も父に增はするとも、劣りはせまじ、隨分忠孝を勵み奉公致すべき旨、申聞らる。又親のしかと手柄も之なき者の子なれば、其方の親も、成程心掛はありつれども、場所惡敷不仕合にて一度の手柄なし、其方を見れば、親にも優りたる樣子なり、向後は隨分手柄もあるべし、忠孝を心掛奉公致すべき旨、申され、幾人にても、一人づゝ召寄せ、其人相應の挨拶之あり、扇子一本づゝ手渡しに賜はり、退出せしめしとぞ。 ○義弘、愛する所の名馬あり、長壽院栗毛と曰ふ。木崎原の役、伊東の臣、柚木崎丹後、弓に矢を番ひて駈來る。義弘退口なりしが引返し、鎗を以て丹後を突く。丹後は少し卑き所なり。義弘は高き所にて、馬上にては少し鎗合遠かりしを、彼馬其儘膝を突きしかば、義弘の鎗合程能くなりて丹後を突留めしかば、是よりして此馬を膝突栗毛と稱す。義弘一生五十二度の戰に、二十度餘は此馬に乘りしと。此馬八十六歲まで生きたりと云ふ。
現代語訳
義弘は、家臣の子供が初めて目通りに来ると、側近くに呼び寄せ、取次役に「誰それの子、何某」と披露させた。義弘はじっとよく見て、その父に手柄があれば「そなたの父は某の合戦でことのほか働き、手柄を立てた。そなたの様子は父に似ている。手柄も父に勝ることはあっても劣りはすまい。しっかり忠孝に励み、奉公せよ」と言い聞かせた。また、親にこれといった手柄がない者の子には「そなたの親も心がけはあったが、場所が悪く運に恵まれず、一度も手柄を立てなかった。そなたを見ると親にも勝る様子である。これからは手柄もあろう。忠孝を心がけて奉公せよ」と言い、何人いても一人ずつ呼び寄せ、その人に合った言葉をかけ、扇子を一本ずつ手渡しして退出させたという。 義弘には愛する名馬がいて、長寿院栗毛といった。木崎原の戦いのとき、伊東方の家臣、柚木崎丹後が弓に矢をつがえて駆けてきた。義弘は退却中だったが引き返し、槍で丹後を突こうとした。丹後は少し低い所におり、義弘は高い所にいたので、馬上ではやや槍の間合いが遠かった。ところが、その馬がそのまま膝をついたため、義弘の槍はちょうどよい間合いになり、丹後を突き止めた。以来この馬を膝突栗毛と呼ぶ。義弘は生涯五十二度の戦いのうち二十度余りをこの馬に乗り、馬は八十六歳まで生きたという。
解説

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