名将言行録 / 『名将言行録』島津義久 娘との別れの歌
○十五年、義久、秀吉に降り、其愛女を質とす。義久京師に至り秀吉に謁し、終て後歸らんとする時、娘と別るゝに忍びず、一首の和歌を詠じ、細川藤孝に贈る。『二た世とは契らぬものを、親と子の、別れむ袖の、哀れをも知れ。』藤孝之を秀吉に示す。秀吉之を見て惘然として、卽ち其質を返せり。義久、和歌を善くし、古今の傳授まで濟みたり。合戰の暇ある時は、此道に怠らずと云ふ。 ○家康、大阪にて本多忠勝をして、島津中務大輔豐久を召し、家康には簾內に在り、大友家、高城に寄來る時、義久後詰にて合戰に及びたる始末を聞かる。豐久退出の後、忠勝如何樣に召されしやと問ふ。家康舌を出され、首を振られ、偖々義久は兼ねて聞きしより巧者なる大將なり、其故は大友は軍議調はざる樣なれども、目に餘る大勢なり、然るを齋藤を始め、名ある武勇の者共を、義久方に打取り、味方に差したる者死せざる内、其勢を拔かさず鹽合能く人數を引揚げ、味方の損ぜざる樣に要害の地に引入て、負けて引きたる樣に大友が諸將に思はせけるは、能き怖ろしき謀なり、故に大友の諸軍勢、うか〳〵と義久が陣に掛り、もろき敗軍せしこと、古、楠木正成が須田高橋を詭はりて、天王寺に引付けたるに異ならず、義久心中如何なることを思ひ設けて、斯くは謀りしならん、豐久、田舍武士にて、言語聞屆け難きこと多しと言はれたりとぞ。
新字:○十五年、義久、秀吉に降り、其愛女を質とす。義久京師に至り秀吉に謁し、終て後帰らんとする時、娘と別るゝに忍びず、一首の和歌を詠じ、細川藤孝に贈る。『二た世とは契らぬものを、親と子の、別れむ袖の、哀れをも知れ。』藤孝之を秀吉に示す。秀吉之を見て惘然として、即ち其質を返せり。義久、和歌を善くし、古今の伝授まで済みたり。合戦の暇ある時は、此道に怠らずと云ふ。 ○家康、大阪にて本多忠勝をして、島津中務大輔豊久を召し、家康には簾内に在り、大友家、高城に寄来る時、義久後詰にて合戦に及びたる始末を聞かる。豊久退出の後、忠勝如何様に召されしやと問ふ。家康舌を出され、首を振られ、偖々義久は兼ねて聞きしより巧者なる大将なり、其故は大友は軍議調はざる様なれども、目に余る大勢なり、然るを斎藤を始め、名ある武勇の者共を、義久方に打取り、味方に差したる者死せざる内、其勢を抜かさず塩合能く人数を引揚げ、味方の損ぜざる様に要害の地に引入て、負けて引きたる様に大友が諸将に思はせけるは、能き怖ろしき謀なり、故に大友の諸軍勢、うか〳〵と義久が陣に掛り、もろき敗軍せしこと、古、楠木正成が須田高橋を詭はりて、天王寺に引付けたるに異ならず、義久心中如何なることを思ひ設けて、斯くは謀りしならん、豊久、田舎武士にて、言語聞届け難きこと多しと言はれたりとぞ。
書き下し
○十五年、義久、秀吉に降り、其愛女を質とす。義久京師に至り秀吉に謁し、終て後歸らんとする時、娘と別るゝに忍びず、一首の和歌を詠じ、細川藤孝に贈る。『二た世とは契らぬものを、親と子の、別れむ袖の、哀れをも知れ。』藤孝之を秀吉に示す。秀吉之を見て惘然として、卽ち其質を返せり。義久、和歌を善くし、古今の傳授まで濟みたり。合戰の暇ある時は、此道に怠らずと云ふ。 ○家康、大阪にて本多忠勝をして、島津中務大輔豐久を召し、家康には簾內に在り、大友家、高城に寄來る時、義久後詰にて合戰に及びたる始末を聞かる。豐久退出の後、忠勝如何樣に召されしやと問ふ。家康舌を出され、首を振られ、偖々義久は兼ねて聞きしより巧者なる大將なり、其故は大友は軍議調はざる樣なれども、目に餘る大勢なり、然るを齋藤を始め、名ある武勇の者共を、義久方に打取り、味方に差したる者死せざる内、其勢を拔かさず鹽合能く人數を引揚げ、味方の損ぜざる樣に要害の地に引入て、負けて引きたる樣に大友が諸將に思はせけるは、能き怖ろしき謀なり、故に大友の諸軍勢、うか〳〵と義久が陣に掛り、もろき敗軍せしこと、古、楠木正成が須田高橋を詭はりて、天王寺に引付けたるに異ならず、義久心中如何なることを思ひ設けて、斯くは謀りしならん、豐久、田舍武士にて、言語聞屆け難きこと多しと言はれたりとぞ。
現代語訳
十五年、義久は秀吉に降り、その愛娘を人質に差し出しました。義久は京都に至り、秀吉に謁し、終わったのち帰ろうとするとき、娘との別れに忍びず、一首の和歌を詠んで、細川藤孝に贈りました。『二た世とは契らぬものを、親と子の、別れむ袖の、哀れをも知れ。』藤孝がこれを秀吉に示しました。秀吉はこれを見て呆然として、すぐにその人質を返しました。義久は和歌を善くし、古今の伝授まで済んでいました。合戦の暇のあるときは、この道に怠らなかったということです。 家康が、大阪で、本多忠勝に命じて、島津中務大輔豊久を召し、家康は簾の内にいて、大友家が高城に寄せ来たとき、義久が後詰めで合戦に及んだ始末を聞かれました。豊久が退出したのち、忠勝は、どのように召されたのかと尋ねました。家康は舌を出され、首を振られて、さてさて、義久は前から聞いたよりも巧者な大将である。そのわけは、大友は軍議がまとまらないようだが、目に余る大勢である。それなのに、斎藤をはじめ、名のある武勇の者どもを、義久方で打ち取り、味方に差した者が死なないうちに、その勢いを抜かさず、潮合よく人数を引き揚げ、味方が損じないように要害の地に引き入れて、負けて引いたように大友の諸将に思わせたのは、よくも恐ろしい謀である。それゆえに大友の諸軍勢は、うかうかと義久の陣に掛かって、もろい敗軍をしたのは、昔、楠木正成が須田・高橋を欺いて、天王寺に引き付けたのと変わらない。義久は心の中でどのようなことを思い設けて、こう謀ったのだろう。豊久は田舎武士で、言葉が聞き届けにくいことが多い、と言われたということです。
解説

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