名将言行録 / 『名将言行録』島津義久 評・赤星のその後
赤星は、勤王の名家菊池氏の分家であり、宗家が亡んだ後もなほ殘つてゐたのだが、間もなく亡んだのである。
新字:赤星は、勤王の名家菊池氏の分家であり、宗家が亡んだ後もなほ残つてゐたのだが、間もなく亡んだのである。
書き下し
赤星は、勤王の名家菊池氏の分家であり、宗家が亡んだ後もなほ殘つてゐたのだが、間もなく亡んだのである。
現代語訳
赤星は、勤王の名家である菊池氏の分家で、宗家が亡んだあとも、なお残っていたのですが、間もなく亡んだのです。
解説
菊池寛は評で、前の章句に出た赤星氏が、勤王の名家である菊池氏の分家であり、宗家が亡んだあとも残っていたが、まもなく亡んだと補います。簡単な補足ですが、勤王という語は1943年の戦時下の価値観に立ったものであり、菊池の見方であることに留意したいところです。この注記は、島津が兵を出した理由となった赤星家の運命がその後どうなったかを、短く示しています。出兵の目的を果たしたあとも、その家が長く残らなかったという事実は、戦国の世の無常さを物語ります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
菊池寛赤星菊池氏勤王分家島津義久
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