名将言行録 / 『名将言行録』島津義久 悪しき事例を壁に描く
○義久、居間に和漢の圖畫を書せける、皆惡行無道にて、國を亡し家を喪ふ人の事跡なり。當に曰く、善き事の五つは眞似易く、惡き事の一つは去り難し、古の惡き事のみ耳目に觸れて、世の中を迂濶と心得ぬ時は、善き事は自から出來るものなり。子息等へも、能く心を留め見覺あるべしと言はれけり。 ○義久、晩年意を治道に屬せり。一日、弟義弘曰く、近來兵亂鎭まりて事故なかりし故に、何つとなく若者共慢む心出て作法に背くこと候間、嚴しく正し給はゞ宜しからんと言ひしかば、義久聞て尤ものことなり、我等も左思へり、但目付のなきを如何せん、誰か宜しからんと問ふ。義弘思ひより候はず、只君の御目利然るべしと言ふ。義久去らば、我目付とならん御身は副使と心得られよ、但し其心得如何にと思はるゝぞ、家中の者に恐れられんと思ひては、却て害の出來るものなり、上より禮義正しく、臣下は其恩惠の忝さに感じて恥る樣に有度ものにこそと言はれしかば、義弘感涙を流して退けり。
新字:○義久、居間に和漢の図画を書せける、皆悪行無道にて、国を亡し家を喪ふ人の事跡なり。当に曰く、善き事の五つは真似易く、悪き事の一つは去り難し、古の悪き事のみ耳目に触れて、世の中を迂濶と心得ぬ時は、善き事は自から出来るものなり。子息等へも、能く心を留め見覚あるべしと言はれけり。 ○義久、晩年意を治道に属せり。一日、弟義弘曰く、近来兵乱鎮まりて事故なかりし故に、何つとなく若者共慢む心出て作法に背くこと候間、厳しく正し給はゞ宜しからんと言ひしかば、義久聞て尤ものことなり、我等も左思へり、但目付のなきを如何せん、誰か宜しからんと問ふ。義弘思ひより候はず、只君の御目利然るべしと言ふ。義久去らば、我目付とならん御身は副使と心得られよ、但し其心得如何にと思はるゝぞ、家中の者に恐れられんと思ひては、却て害の出来るものなり、上より礼義正しく、臣下は其恩恵の忝さに感じて恥る様に有度ものにこそと言はれしかば、義弘感涙を流して退けり。
書き下し
○義久、居間に和漢の圖畫を書せける、皆惡行無道にて、國を亡し家を喪ふ人の事跡なり。當に曰く、善き事の五つは眞似易く、惡き事の一つは去り難し、古の惡き事のみ耳目に觸れて、世の中を迂濶と心得ぬ時は、善き事は自から出來るものなり。子息等へも、能く心を留め見覺あるべしと言はれけり。 ○義久、晩年意を治道に屬せり。一日、弟義弘曰く、近來兵亂鎭まりて事故なかりし故に、何つとなく若者共慢む心出て作法に背くこと候間、嚴しく正し給はゞ宜しからんと言ひしかば、義久聞て尤ものことなり、我等も左思へり、但目付のなきを如何せん、誰か宜しからんと問ふ。義弘思ひより候はず、只君の御目利然るべしと言ふ。義久去らば、我目付とならん御身は副使と心得られよ、但し其心得如何にと思はるゝぞ、家中の者に恐れられんと思ひては、却て害の出來るものなり、上より禮義正しく、臣下は其恩惠の忝さに感じて恥る樣に有度ものにこそと言はれしかば、義弘感涙を流して退けり。
現代語訳
義久は、居間に和漢の絵を描かせました。みな悪行無道で、国を亡ぼし家を失った人の事跡でした。そして言いました。善いことの五つは真似しやすく、悪いことの一つは去りがたい。昔の悪いことばかりを耳や目に触れさせて、世の中を迂闊に心得ないようにすれば、善いことは自然にできてくるものである。子息たちへも、よく心を留めて見覚えておくようにせよ、と言われました。 義久は、晩年、治道に心を向けました。ある日、弟の義弘が言いました。近ごろ兵乱が鎮まって事故がなかったので、いつとなく若者たちに怠る心が出て、作法に背くことがありますから、厳しく正されればよいでしょう、と。義久は聞いて、もっともなことである。私もそう思っていた。ただ、目付がないのをどうしようか、誰がよかろう、と尋ねました。義弘は、思い至りません。ただ、あなたのお目利きがよろしいでしょう、と言いました。義久は、それならば、私が目付になろう。あなたは副使と心得られよ。ただし、その心得をどう思うか。家中の者に恐れられようと思っては、かえって害が出るものである。上から礼義が正しく、臣下はその恩恵のありがたさに感じて恥じるようにありたいものだ、と言われたので、義弘は感涙を流して退きました。
解説

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