名将言行録 / 『名将言行録』島津義久 加増と首の礼
○義久、兵を有馬に出だす以前、先づ軍士を集め、三增倍の地を加封し、皆書判を與へ、又其子供を召出し、生前に皆之を讓り與ふ。之に依て三千の士彌々必死の志を堅固にせりとぞ。 ○義久、龍造寺隆信を打取り、其首を幕下なりし赤星が仇なればとて、後室の方に送りければ、後室大に喜び、其首を熟視し、夫や子の敵なればとて、大に罵り木履を以て其首を踏みたり。義久之を聞き、凡そ敵の首は實驗するに禮儀あり、如何に女なればとて、軍帥の首を足下の耻に及すことやある、禮もなき義もなき女哉とて、夫よりは音信を絶れけり。此役は赤星家の哀訴默止し難きを以て、兵を出したるものなり。
新字:○義久、兵を有馬に出だす以前、先づ軍士を集め、三增倍の地を加封し、皆書判を与へ、又其子供を召出し、生前に皆之を譲り与ふ。之に依て三千の士弥々必死の志を堅固にせりとぞ。 ○義久、竜造寺隆信を打取り、其首を幕下なりし赤星が仇なればとて、後室の方に送りければ、後室大に喜び、其首を熟視し、夫や子の敵なればとて、大に罵り木履を以て其首を踏みたり。義久之を聞き、凡そ敵の首は実験するに礼儀あり、如何に女なればとて、軍帥の首を足下の耻に及すことやある、礼もなき義もなき女哉とて、夫よりは音信を絶れけり。此役は赤星家の哀訴黙止し難きを以て、兵を出したるものなり。
書き下し
○義久、兵を有馬に出だす以前、先づ軍士を集め、三增倍の地を加封し、皆書判を與へ、又其子供を召出し、生前に皆之を讓り與ふ。之に依て三千の士彌々必死の志を堅固にせりとぞ。 ○義久、龍造寺隆信を打取り、其首を幕下なりし赤星が仇なればとて、後室の方に送りければ、後室大に喜び、其首を熟視し、夫や子の敵なればとて、大に罵り木履を以て其首を踏みたり。義久之を聞き、凡そ敵の首は實驗するに禮儀あり、如何に女なればとて、軍帥の首を足下の耻に及すことやある、禮もなき義もなき女哉とて、夫よりは音信を絶れけり。此役は赤星家の哀訴默止し難きを以て、兵を出したるものなり。
現代語訳
義久は、兵を有馬に出す以前、まず軍士を集め、三倍に増した地を加封し、皆に書判を与え、またその子どもを召し出して、生前にみな譲り与えました。これによって、三千の士はいよいよ必死の志を堅固にしたということです。 義久は、龍造寺隆信を討ち取り、その首を、幕下であった赤星の仇だからとして、後室の方に送りましたところ、後室は大いに喜び、その首をよく見て、夫や子の敵だからと、大いに罵り、木履でその首を踏みました。義久はこれを聞いて、およそ敵の首は検分するのに礼儀がある。いくら女だからといって、軍の大将の首を足下の恥にまで及ぼすことがあろうか。礼もなく義もない女だと言って、それ以後は音信を絶たれました。この戦いは、赤星家の哀訴を黙止しがたいことから、兵を出したものでした。
解説

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