名将言行録 / 『名将言行録』島津家久 島原の戦いの軍令
陸奧守貴久の四子中務大輔と稱す、兄義久義弘の羽翼と成り、屢々戰功を立つ。天正十五年六月五日卒、年四十一。 ○天正十二年三月、龍造寺隆信、大兵を率る、有馬左衞門佐義純を島原城に攻む。義純、援を島津に乞ふ。義久、乃ち家久をして之を援はしむ。家久兵三千を率る至る。義純、使を遣はし城に入らんことを乞ふ。家久曰く、城に入り大軍に取圍まれては惡しかるべし、只明日手詰の一戰すべしとて、軍命を下して曰く、下知なきに鳥銃を放つべからず、令に應じて連發すべし、只銃丸三つ、外に要心一つ、殘りを奪て、皆舟中に投ず。一番鎗、一番功名を用ひず、左右を顧みず、一文字に掛るべし、一隊となりて分散すべからず、一太刀切て捨て、一鎗突て倒れなば他の敵を突くべし、更に首を取るべからず、組打す可らず、勤めて之を討つべしと令し、船の櫓桿を悉く山に投じ、自ら走路を絶し、偖家久一千騎、姉津村に出張し、伊集院一千騎、姉津の側に伏す。新納は西の山際に伏す。隆信我が小勢なるを見て、戰を始めし時、家久則ち二た放し打たせ、一同に隆信の旗本に切掛る時に、左右の伏起り、是も一同に切て掛りければ、隆信の旗本右往左往に亂る。島津の臣川上左京、萬膳覺兵衞の二人終に隆信を討取りたり。家久勝て誇らず、人數を纏め陣を整へける所に、隆信の臣江里口藤兵衞、首一つ血に染みたる刀に持副へ、大將は何國に御座ますぞ、功名の印の候と言て、家久に近づき寄り、首を投げ捨て、馬の上なる家久を一と太刀斬りたりしに、家久心疾く馬より飛び下りたれば、左の草摺を切て、餘る刀膝に當りたり。江里口を中に取籠めて討んとすれば、家久あたら者を討なせぞと下知しければ、生捕らんとすれども、素より今日最期と思ひ定め、切て廻はりし程に、終に討れてけり。
新字:陸奥守貴久の四子中務大輔と称す、兄義久義弘の羽翼と成り、屡々戦功を立つ。天正十五年六月五日卒、年四十一。 ○天正十二年三月、竜造寺隆信、大兵を率る、有馬左衛門佐義純を島原城に攻む。義純、援を島津に乞ふ。義久、乃ち家久をして之を援はしむ。家久兵三千を率る至る。義純、使を遣はし城に入らんことを乞ふ。家久曰く、城に入り大軍に取囲まれては悪しかるべし、只明日手詰の一戦すべしとて、軍命を下して曰く、下知なきに鳥銃を放つべからず、令に応じて連発すべし、只銃丸三つ、外に要心一つ、残りを奪て、皆舟中に投ず。一番鎗、一番功名を用ひず、左右を顧みず、一文字に掛るべし、一隊となりて分散すべからず、一太刀切て捨て、一鎗突て倒れなば他の敵を突くべし、更に首を取るべからず、組打す可らず、勤めて之を討つべしと令し、船の櫓桿を悉く山に投じ、自ら走路を絶し、偖家久一千騎、姉津村に出張し、伊集院一千騎、姉津の側に伏す。新納は西の山際に伏す。隆信我が小勢なるを見て、戦を始めし時、家久則ち二た放し打たせ、一同に隆信の旗本に切掛る時に、左右の伏起り、是も一同に切て掛りければ、隆信の旗本右往左往に乱る。島津の臣川上左京、万膳覚兵衛の二人終に隆信を討取りたり。家久勝て誇らず、人数を纏め陣を整へける所に、隆信の臣江里口藤兵衛、首一つ血に染みたる刀に持副へ、大将は何国に御座ますぞ、功名の印の候と言て、家久に近づき寄り、首を投げ捨て、馬の上なる家久を一と太刀斬りたりしに、家久心疾く馬より飛び下りたれば、左の草摺を切て、余る刀膝に当りたり。江里口を中に取籠めて討んとすれば、家久あたら者を討なせぞと下知しければ、生捕らんとすれども、素より今日最期と思ひ定め、切て廻はりし程に、終に討れてけり。
書き下し
陸奧守貴久の四子中務大輔と稱す、兄義久義弘の羽翼と成り、屢々戰功を立つ。天正十五年六月五日卒、年四十一。 ○天正十二年三月、龍造寺隆信、大兵を率る、有馬左衞門佐義純を島原城に攻む。義純、援を島津に乞ふ。義久、乃ち家久をして之を援はしむ。家久兵三千を率る至る。義純、使を遣はし城に入らんことを乞ふ。家久曰く、城に入り大軍に取圍まれては惡しかるべし、只明日手詰の一戰すべしとて、軍命を下して曰く、下知なきに鳥銃を放つべからず、令に應じて連發すべし、只銃丸三つ、外に要心一つ、殘りを奪て、皆舟中に投ず。一番鎗、一番功名を用ひず、左右を顧みず、一文字に掛るべし、一隊となりて分散すべからず、一太刀切て捨て、一鎗突て倒れなば他の敵を突くべし、更に首を取るべからず、組打す可らず、勤めて之を討つべしと令し、船の櫓桿を悉く山に投じ、自ら走路を絶し、偖家久一千騎、姉津村に出張し、伊集院一千騎、姉津の側に伏す。新納は西の山際に伏す。隆信我が小勢なるを見て、戰を始めし時、家久則ち二た放し打たせ、一同に隆信の旗本に切掛る時に、左右の伏起り、是も一同に切て掛りければ、隆信の旗本右往左往に亂る。島津の臣川上左京、萬膳覺兵衞の二人終に隆信を討取りたり。家久勝て誇らず、人數を纏め陣を整へける所に、隆信の臣江里口藤兵衞、首一つ血に染みたる刀に持副へ、大將は何國に御座ますぞ、功名の印の候と言て、家久に近づき寄り、首を投げ捨て、馬の上なる家久を一と太刀斬りたりしに、家久心疾く馬より飛び下りたれば、左の草摺を切て、餘る刀膝に當りたり。江里口を中に取籠めて討んとすれば、家久あたら者を討なせぞと下知しければ、生捕らんとすれども、素より今日最期と思ひ定め、切て廻はりし程に、終に討れてけり。
現代語訳
陸奥守貴久の四男で、中務大輔と称した。兄の義久・義弘の補佐役となり、しばしば戦功を立てた。天正十五年六月五日に没した。享年四十一。 天正十二年三月、龍造寺隆信が大軍を率いて、有馬左衛門佐義純を島原城に攻めた。義純は島津に援軍を求めた。義久はそこで家久に援助させた。家久は兵三千を率いて到着した。義純が使者を送り、城に入ってほしいと願うと、家久は「城に入って大軍に取り囲まれてはまずい。ただ明日、接近して一戦しよう」と言い、軍令を下した。「指示がないのに鉄砲を撃ってはならない。命令に応じて連発せよ。弾は三発のみ、予備に一発とし、残りは取り上げて皆、船に投げ込め。一番槍や一番手柄にこだわらず、左右を顧みず一直線にかかれ。一つの隊となり、分散してはならない。一太刀斬って捨て、一突きして倒したなら、ほかの敵を突け。首を取ってはならない。組み討ちはするな。努めて討て」と命じ、船の櫓や棹をすべて山に捨てて、自分たちで退路を断った。さて家久は千騎で姉津村に出て、伊集院は千騎で姉津の側に伏せ、新納は西の山際に伏せた。隆信は我が方が小勢なのを見て戦を始めた。家久はすぐ二度鉄砲を撃たせ、一同で隆信の本陣に斬りかかった。そのとき左右の伏兵が起こり、これも一斉に斬りかかったので、隆信の本陣は右往左往に乱れた。島津の家臣、川上左京と万膳覚兵衛の二人がついに隆信を討ち取った。家久は勝っても誇らず、兵をまとめて陣を整えていた。そこへ隆信の家臣、江里口藤兵衛が、首一つを血に染まった刀に添えて持ち、「大将はどちらにおられるか。手柄の印がございます」と言って家久に近づき、首を投げ捨て、馬上の家久に一太刀斬りつけた。家久は素早く馬から飛び降りたので、左の草摺を切り、余った刀が膝に当たった。江里口を取り囲んで討とうとすると、家久は「惜しい者を討ち殺すな」と命じた。生け捕ろうとしたが、江里口は最初から今日が最期と覚悟していたので、斬って回り、ついに討たれてしまった。
解説

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名将言行録・『名将言行録』鍋島直茂 寝ずの番と有馬出陣の諫め○隆信田尻を攻めし時、柳川城にて酒宴す、侍女ども御庭の隅に人影見え候と申す、隆信則ち出て見て何者ぞと咎めければ、左衞門太夫にて候と申し、拔身の鎗を持居たり。何故に夫に居るやと尋ねければ、世上敵多く、御油斷ばさるゝ時節にて之なく候、今夜御酒宴と承はりたるに付き、心元なく御番仕候と言ければ、隆信殊の外喜び、是にて酒を參り候へと言はるゝに付、其席へ出でし所寒夜にて、手こゞえ持ちたる鎗手より離れざりしとぞ。 ○天正十年、隆信、織田信長父子弑に遇ふを聞き、天下必ず秀吉に歸すべきことを知りて、屢々直茂をして、音信を通ぜしむ、前年石田備中守をして、音信を通ず、今年、又土肥出雲守家實をして南蠻帽子を贈る、秀吉大に喜び、返翰を贈らろ、是皆直茂の策なり。 ○十二年、有馬の役、直茂、隆信を諫めて曰く、今度有馬へ御發向然るべからず、御鎗先強く、五箇國の太守に成らせられ、是體の小事に御出馬は輕々敷候、殊に島津當方の大軍を知りながら、催の人數を遣はし、有馬勢を合し一萬に過ぐべからず、左れば是れ皆必死の勢にて候、味方は大軍なれども、所々の集り勢なれば、軍配揃兼ね申べく、然る時は人多く損し申べし、今大友、島津の大敵を御抱へ、催の事に人數を損ぜらるゝこと、御武略の足らざるに似たり、御免候はゞ、某彼地へ罷向ひ平均仕るべしと、再三申しけれども、承引なく、五萬の人數にて有馬に發向し、遂に敗死せり。
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