古典を学びたいすべての人に 法人向けワークシート法人向けワークシート

名将言行録 / 『名将言行録』長曾我部元親 初陣と鑓の問い

宮内少輔元國の子、從四位下に敍し、侍從兼土佐守に任じ、岡豐城に住す。慶長四年五月十九日卒、年六十一。 ○元親、初め彌三郎と曰ふ。年十八、用兵の道を泰泉寺豐後に問ふ。豐後教ふるに、兵理を以てす。元親大に喜び、是より日夜兵書を講究し、手に卷を捐てず。又儒教を侑び、信西堂忍性を以て師と爲し、月中六日士庶を集め書を讀み、武を講ぜしむ。 ○永祿三年五月二十六日、元國本山梅慶が屬城長濱を拔く。元親曰く、梅慶長濱を陷るを聞かば、必ず兵を出し、城を取返さんとせん、我未だ鎗の突樣を知らずとて、泰泉寺豐後に問ふ。豐後鎗は敵の眼を突と申候と言ふ。元親、又大將は先きに行くか、後に行くかと問ふ。豐後、大將は掛らずと申事候と言ふ、二十九日、梅慶果して一千餘人を率ゐ、長濱に打出る。元親三百餘人を以て潮堤の上に出逢ひ戰ひしが、衆寡敵せず、味方散々に打成さる。元親五十餘人を以て堤の上に折り敷、鎗を以て敵二人を突伏る、味方其銳氣を見て一旦逃げし者取て返し突掛る、爰に於て敵又崩立て、元親牛里程追擊し、首七十餘級を得たり。夫より鹽江村と曰ふ所まで追て行く、敵返さずして本山の居城朝倉を指して引退く。爰に一城あり、元親之を攻取らんとす。兵士皆曰く、味方の寡兵手を碎きて戰勝つことを得たり。勝て胄の緒をしむることあり、必ず戰ひ給ふこと勿れと。元親、勝べきの機あり、掛れと言て、眞先に進みて攻上り、總兵續き攻上り、城中を見れば敵一人もなし、元親遂に二城を得たり。老功の者共打集り、何の故を以て此城の落べきを知り給ひしやと問ふ。元親、本山が敗卒此城に集まるべきことなるに左なくして本山へ引きたるは、此城主も謀反の人なるか、謀反するものならば、味方のものなり、我に向て弓を彎くべからず、若し又敵なりとも、此勝たる勢を以て攻上り、和平を入るならば、必ず降參すべしと思ひしと言はれしかば、人々手を拍て君大將として弓箭を取り給はば、土佐の内は儲置き四國も程なく治めらるべし。箇樣に深き謀を廻らし給ふこと凡慮の及ぶ所にあらずと言て、元親を稱讚せり。此時までは元親は内氣にて、弟の利發なるに如かず、長曾我部の家は繼ぐこと成間敷と、人々騷きしを、此戰より國の士は勿論、一條家の人々までも、土佐の出來人と言て譽ぬ者はなかりけり。

新字:宮内少輔元国の子、従四位下に叙し、侍従兼土佐守に任じ、岡豊城に住す。慶長四年五月十九日卒、年六十一。 ○元親、初め弥三郎と曰ふ。年十八、用兵の道を泰泉寺豊後に問ふ。豊後教ふるに、兵理を以てす。元親大に喜び、是より日夜兵書を講究し、手に巻を捐てず。又儒教を侑び、信西堂忍性を以て師と為し、月中六日士庶を集め書を読み、武を講ぜしむ。 ○永禄三年五月二十六日、元国本山梅慶が属城長浜を抜く。元親曰く、梅慶長浜を陥るを聞かば、必ず兵を出し、城を取返さんとせん、我未だ鎗の突様を知らずとて、泰泉寺豊後に問ふ。豊後鎗は敵の眼を突と申候と言ふ。元親、又大将は先きに行くか、後に行くかと問ふ。豊後、大将は掛らずと申事候と言ふ、二十九日、梅慶果して一千余人を率ゐ、長浜に打出る。元親三百余人を以て潮堤の上に出逢ひ戦ひしが、衆寡敵せず、味方散々に打成さる。元親五十余人を以て堤の上に折り敷、鎗を以て敵二人を突伏る、味方其鋭気を見て一旦逃げし者取て返し突掛る、爰に於て敵又崩立て、元親牛里程追撃し、首七十余級を得たり。夫より塩江村と曰ふ所まで追て行く、敵返さずして本山の居城朝倉を指して引退く。爰に一城あり、元親之を攻取らんとす。兵士皆曰く、味方の寡兵手を砕きて戦勝つことを得たり。勝て胄の緒をしむることあり、必ず戦ひ給ふこと勿れと。元親、勝べきの機あり、掛れと言て、真先に進みて攻上り、総兵続き攻上り、城中を見れば敵一人もなし、元親遂に二城を得たり。老功の者共打集り、何の故を以て此城の落べきを知り給ひしやと問ふ。元親、本山が敗卒此城に集まるべきことなるに左なくして本山へ引きたるは、此城主も謀反の人なるか、謀反するものならば、味方のものなり、我に向て弓を彎くべからず、若し又敵なりとも、此勝たる勢を以て攻上り、和平を入るならば、必ず降参すべしと思ひしと言はれしかば、人々手を拍て君大将として弓箭を取り給はば、土佐の内は儲置き四国も程なく治めらるべし。箇様に深き謀を廻らし給ふこと凡慮の及ぶ所にあらずと言て、元親を称讃せり。此時までは元親は内気にて、弟の利発なるに如かず、長曽我部の家は継ぐこと成間敷と、人々騷きしを、此戦より国の士は勿論、一条家の人々までも、土佐の出来人と言て誉ぬ者はなかりけり。

書き下し

宮内少輔元國の子、從四位下に敍し、侍從兼土佐守に任じ、岡豐城に住す。慶長四年五月十九日卒、年六十一。 ○元親、初め彌三郎と曰ふ。年十八、用兵の道を泰泉寺豐後に問ふ。豐後教ふるに、兵理を以てす。元親大に喜び、是より日夜兵書を講究し、手に卷を捐てず。又儒教を侑び、信西堂忍性を以て師と爲し、月中六日士庶を集め書を讀み、武を講ぜしむ。 ○永祿三年五月二十六日、元國本山梅慶が屬城長濱を拔く。元親曰く、梅慶長濱を陷るを聞かば、必ず兵を出し、城を取返さんとせん、我未だ鎗の突樣を知らずとて、泰泉寺豐後に問ふ。豐後鎗は敵の眼を突と申候と言ふ。元親、又大將は先きに行くか、後に行くかと問ふ。豐後、大將は掛らずと申事候と言ふ、二十九日、梅慶果して一千餘人を率ゐ、長濱に打出る。元親三百餘人を以て潮堤の上に出逢ひ戰ひしが、衆寡敵せず、味方散々に打成さる。元親五十餘人を以て堤の上に折り敷、鎗を以て敵二人を突伏る、味方其銳氣を見て一旦逃げし者取て返し突掛る、爰に於て敵又崩立て、元親牛里程追擊し、首七十餘級を得たり。夫より鹽江村と曰ふ所まで追て行く、敵返さずして本山の居城朝倉を指して引退く。爰に一城あり、元親之を攻取らんとす。兵士皆曰く、味方の寡兵手を碎きて戰勝つことを得たり。勝て胄の緒をしむることあり、必ず戰ひ給ふこと勿れと。元親、勝べきの機あり、掛れと言て、眞先に進みて攻上り、總兵續き攻上り、城中を見れば敵一人もなし、元親遂に二城を得たり。老功の者共打集り、何の故を以て此城の落べきを知り給ひしやと問ふ。元親、本山が敗卒此城に集まるべきことなるに左なくして本山へ引きたるは、此城主も謀反の人なるか、謀反するものならば、味方のものなり、我に向て弓を彎くべからず、若し又敵なりとも、此勝たる勢を以て攻上り、和平を入るならば、必ず降參すべしと思ひしと言はれしかば、人々手を拍て君大將として弓箭を取り給はば、土佐の内は儲置き四國も程なく治めらるべし。箇樣に深き謀を廻らし給ふこと凡慮の及ぶ所にあらずと言て、元親を稱讚せり。此時までは元親は内氣にて、弟の利發なるに如かず、長曾我部の家は繼ぐこと成間敷と、人々騷きしを、此戰より國の士は勿論、一條家の人々までも、土佐の出來人と言て譽ぬ者はなかりけり。

現代語訳

宮内少輔元国の子。従四位下に叙され、侍従兼土佐守に任じられ、岡豊城に住みました。慶長四年五月十九日に亡くなりました。享年六十一。 元親は、初め弥三郎といいました。十八歳のとき、用兵の道を泰泉寺豊後に尋ねました。豊後は兵理をもって教えました。元親は大いに喜び、これより日夜、兵書を究め、手から巻物を離しませんでした。また儒教を学び、信西堂忍性を師とし、月のうち六日、士や庶民を集めて書を読み、武を講じさせました。 永禄三年五月二十六日、元国は本山梅慶の属城の長浜を攻め取りました。元親は言いました。「梅慶は長浜が陥ちたと聞けば、必ず兵を出して城を取り返そうとするだろう。私はまだ鑓の突き方を知らない」と、泰泉寺豊後に尋ねました。豊後は「鑓は敵の眼を突くものです」と答えました。元親はまた、「大将は先に行くものか、後に行くものか」と尋ねました。豊後は「大将は掛からぬということがございます」と答えました。二十九日、梅慶は果たして千余人を率いて長浜に打って出ました。元親は三百余人で潮堤の上で出会って戦いましたが、多勢に無勢で、味方は散々に打ち負かされました。元親は五十余人で堤の上に折り敷き、鑓で敵二人を突き伏せました。味方はその鋭気を見て、いったん逃げた者も取って返して突きかかりました。ここに至って敵はまた崩れ立ち、元親は半里ほど追撃して首七十余級を得ました。それから塩江村というところまで追っていくと、敵は引き返さず、本山の居城朝倉を目指して引き退きました。ここに一城があり、元親はこれを攻め取ろうとしました。兵士たちはみな言いました。「味方の少ない兵が手を砕いて戦い勝つことができました。勝ってこそ兜の緒を締めるものです。どうか戦いなさいますな」と。元親は「勝つべき機がある。掛かれ」と言って、真っ先に進んで攻め上り、総勢が続いて攻め上りましたが、城中を見ると敵は一人もいません。元親はついに二つの城を得ました。老練の者たちが打ち集まって、「どういう理由でこの城が落ちるとお知りになったのですか」と尋ねました。元親は、「本山の敗卒がこの城に集まるはずなのに、そうせずに本山へ引いたのは、この城主も謀反の人なのか。謀反する者ならば味方の者だ、私に向かって弓を引くはずがない。もしまた敵であっても、この勝った勢いで攻め上り、和平を持ちかければ、必ず降参するだろうと思った」と言われたので、人々は手を打って、「あなたが大将として弓矢を取られるなら、土佐の内は取り置いて、四国もほどなく治められるでしょう。このように深い謀を巡らされることは、凡人の考えの及ぶところではありません」と言って、元親を称賛しました。この時までは、元親は内気で、弟の利発さに及ばず、長曽我部の家は継げまいと、人々が騒いでいましたが、この戦から後、国の士はもちろん、一条家の人々までも、土佐の傑物と言ってほめない者はありませんでした。

解説

長宗我部元親の若き日の初陣を伝える長い章句です。内気で家を継げまいと案じられた若者が、教えを乞い、勝ち戦の勢いをどこで使うかを読み切って評価を一変させた、という筋です。城が無人と見抜いた理由を語る場面は、敵の動きの不自然さから相手の事情を推し量る、状況判断の例として読めます。もっとも、細部は岡谷が諸書から集めた逸話であり、史実としての確かさは分かりません。現代でも、新任のリーダーは実績の前に評価されにくいものですが、基本を人に問う姿勢と、一つの機を逃さない判断が信頼を動かします。
『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。

本の中身を見る

この章句が説くこと

長宗我部元親初陣泰泉寺豊後勝ちて兜の緒状況判断評価の転換

関連する章句

本2冊(人生の方程式・人生の教科書)+師導1か月=700円本を見る