名将言行録 / 『名将言行録』長曾我部元親 逸る味方を押しとどめる
○八年八月、安喜修理亮六千餘騎を率る、豐岡城を攻んとす。元親之を聞き、江村孫左衞門に六百餘騎を差副へ、鏡野に伏さしめ、自ら城に籠り守禦の備を爲す、安喜、城を攻むること甚だ急なり。元親、令して鳥銃を續けさまに打せける故、寄手手負死人數知れず、此勢に乘じ久武桑名の人々突て出んと勇みけるを、元親誓し押留め、爰を切て出るならば、敵も流石遁れぬ所と知て、身命を惜まず働くべし、左ありては十分に打勝とも、味方も多く損すべし、是古より良將の制する所なり、敵寄せば幾度も弓銃にて打留めん、其上鏡野に向けし兵の合圖の時も至らねば、旁々以て時刻早し、敵の氣を飽くまで疲らし一卷りに追下ろすべしと、矢の一筋も射出さず、靜まり返て控たり。安喜が先陣平野彌之助、修理亮に向ひ、此城の有樣を見るに、急に攻て取るにあらずんば、味方挾み擊に逢はん、殊に元親は尋常の將にあらず、今此時に一同に攻入り、城を落さんこと、今日に在りと、言を盡して諫めしかども、安喜聽かず。平野淚を流し、詮方なくて己が陣にぞ歸りける。夜に入りければ、鏡野に向ひし江村合圖の刻限に、寄手の陣へ切て入れば、陣々騷ぐ所を城中より切て出で、前後より挾み擊ち、大に之を敗り、首九百餘級を獲たり。
新字:○八年八月、安喜修理亮六千余騎を率る、豊岡城を攻んとす。元親之を聞き、江村孫左衛門に六百余騎を差副へ、鏡野に伏さしめ、自ら城に籠り守禦の備を為す、安喜、城を攻むること甚だ急なり。元親、令して鳥銃を続けさまに打せける故、寄手手負死人数知れず、此勢に乗じ久武桑名の人々突て出んと勇みけるを、元親誓し押留め、爰を切て出るならば、敵も流石遁れぬ所と知て、身命を惜まず働くべし、左ありては十分に打勝とも、味方も多く損すべし、是古より良将の制する所なり、敵寄せば幾度も弓銃にて打留めん、其上鏡野に向けし兵の合図の時も至らねば、旁々以て時刻早し、敵の気を飽くまで疲らし一巻りに追下ろすべしと、矢の一筋も射出さず、静まり返て控たり。安喜が先陣平野弥之助、修理亮に向ひ、此城の有様を見るに、急に攻て取るにあらずんば、味方挟み撃に逢はん、殊に元親は尋常の将にあらず、今此時に一同に攻入り、城を落さんこと、今日に在りと、言を尽して諫めしかども、安喜聴かず。平野涙を流し、詮方なくて己が陣にぞ帰りける。夜に入りければ、鏡野に向ひし江村合図の刻限に、寄手の陣へ切て入れば、陣々騷ぐ所を城中より切て出で、前後より挟み撃ち、大に之を敗り、首九百余級を獲たり。
書き下し
○八年八月、安喜修理亮六千餘騎を率る、豐岡城を攻んとす。元親之を聞き、江村孫左衞門に六百餘騎を差副へ、鏡野に伏さしめ、自ら城に籠り守禦の備を爲す、安喜、城を攻むること甚だ急なり。元親、令して鳥銃を續けさまに打せける故、寄手手負死人數知れず、此勢に乘じ久武桑名の人々突て出んと勇みけるを、元親誓し押留め、爰を切て出るならば、敵も流石遁れぬ所と知て、身命を惜まず働くべし、左ありては十分に打勝とも、味方も多く損すべし、是古より良將の制する所なり、敵寄せば幾度も弓銃にて打留めん、其上鏡野に向けし兵の合圖の時も至らねば、旁々以て時刻早し、敵の氣を飽くまで疲らし一卷りに追下ろすべしと、矢の一筋も射出さず、靜まり返て控たり。安喜が先陣平野彌之助、修理亮に向ひ、此城の有樣を見るに、急に攻て取るにあらずんば、味方挾み擊に逢はん、殊に元親は尋常の將にあらず、今此時に一同に攻入り、城を落さんこと、今日に在りと、言を盡して諫めしかども、安喜聽かず。平野淚を流し、詮方なくて己が陣にぞ歸りける。夜に入りければ、鏡野に向ひし江村合圖の刻限に、寄手の陣へ切て入れば、陣々騷ぐ所を城中より切て出で、前後より挾み擊ち、大に之を敗り、首九百餘級を獲たり。
現代語訳
八年八月、安喜修理亮が六千余騎を率いて、豊岡城を攻めようとしました。元親はこれを聞き、江村孫左衛門に六百余騎を添えて鏡野に伏せさせ、自らは城に籠もって守りの備えをしました。安喜の城攻めはきわめて激しいものでした。元親は命じて鉄砲を続けざまに撃たせたので、寄せ手の負傷者や死者は数知れず、この勢いに乗じて久武や桑名の人々が打って出ようと勇みましたが、元親はこれを制止して言いました。ここで斬って出れば、敵もさすがに逃れられぬと知って、命を惜しまず働くだろう。そうなれば十分に打ち勝っても、味方も多く損なう。これは昔から良将が戒めるところだ。敵が寄せるなら、何度でも弓銃で撃ち止めよう。そのうえ、鏡野に向けた兵の合図の時も至っていないから、あれこれ考えて時刻が早い。敵の気を存分に疲れさせ、一気に追い落とそう、と。矢の一筋も射出さず、静まり返って控えていました。安喜の先陣の平野弥之助は修理亮に向かって、この城の様子を見るに、急に攻めて取るのでなければ、味方は挟み撃ちに遭います。ことに元親は尋常の将ではありません。今この時、一同で攻め入って城を落とすことは、今日にかかっています、と言葉を尽くして諫めましたが、安喜は聞き入れませんでした。平野は涙を流し、どうしようもなく、自分の陣に帰りました。夜に入ると、鏡野に向かった江村が合図の刻限に寄せ手の陣へ斬り入り、陣々が騒ぐところを、城中から斬って出て、前後から挟み撃ちにして大いにこれを破り、首九百余級を獲ました。
解説

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史記 楽書上は朝廷より、下は人民に至るまで、以て歓喜を接し、殷勤を合するを得、此の和説に非ずんば通ぜず、解沢流れず、亦各々一世の化、時を度るの楽なり、何ぞ必ずしも華山の騄耳にして而る後に遠きを行かんや」と。二世之を然りとす。高祖、沛を過りて三侯の章を詩し、小児をして之を歌はしむ。高祖崩じ、沛をして四時に宗廟に歌舞するを得しむ。孝恵・孝文・孝景は増更する所無く、楽府に於いて常を習ひ旧を肄ふのみ。今上即位するに至り、十九章を作り、侍中李延年をして其の声を次序せしめ、拝して協律都尉と為す。一経に通ずるの士も独り其の辞を知る能はず、皆五経の家を集会し、相与に共に講習して之を読み、乃ち能く其の意を通知す、多く爾雅の文なり。漢家常に正月上辛を以て太一を甘泉に祠り、昏時を以て夜祠り、明に到りて終はる。常に流星の祠壇の上を経る有り。僮男僮女七十人をして俱に歌はしむ。春は青陽を歌ひ、夏は朱明を歌ひ、秋は西暤を歌ひ、冬は玄冥を歌ふ。世に多く有り、故に論ぜず。又嘗て神馬を渥洼の水中に得て、復た次して以て太一の歌と為す。歌曲に曰く、「太一貢ぎて天馬下る、赤汗に霑ひて沫赭を流す。騁せて容与として万里を跇ゆ、今安んぞ匹せん、龍を友と為す」と。後に大宛を伐ちて千里の馬を得、馬の名は蒲梢、次して作りて以て歌と為す。歌詩に曰く、「天馬来たる、西極よりす。万里を経て有徳に帰す。霊威を承けて外国を降し、流沙を渉りて四夷服す」と。中尉汲黯進みて曰く、「凡そ王者の楽を作るは、上は以て祖宗を承け、下は以て兆民を化す。今陛下馬を得て、詩して以て歌と為し、宗廟に協す、先帝百姓豈に能く其の音を知らんや」と。上黙然として説ばず。丞相公孫弘曰く、「黯は聖制を誹謗す、当に族すべし」と。凡そ音の起こるは、人心より生ずるなり。人心の動くは、物之をして然らしむるなり。
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『十善法語』巻第十・不邪見戒之上又喩ヘテ云ハ。賢君明主ハ忠臣ヲ信任シ。諫言ヲ用ル如クシヤ。漢ノ高祖カ諫ニ従フコト流ノ如ク。唐ノ太宗ノ魏徴カ苦諫ノ言ヲ用ヒアリシ類。ソノ如ク。正法ノ因縁アル者ハ必ス不邪見戒ニ随順スルシヤ。此ニ反シテ宿福ナキ者ハ。智者モ愚者モ。学者モ不学者モ仏アルコトヲ信セヌ。法アルコトヲ信セヌ。聖賢アルコトヲ信セヌ。神祇有コトヲ信セヌ。善悪報応有コトヲ信セヌシヤ。