名将言行録 / 『名将言行録』竹中重治 評・二兵衛の参謀長
竹中半兵衞は、黑田官兵衞(如水孝高)と並んで秀吉幕下の二兵衞と云はれた謀將である。 謀將と云つても、たゞ頭腦だけでなく、武斷勇略のあることは、その主龍興を岐阜城から追ひ出した事でも分る。しかし、それを亦龍興に返し與へたと云ふから、下剋上的な野心がなかつたことも感じがよい。 秀吉の中國征伐の前期に活躍した參謀長である。重治が死んだ後、主として如水が用ゐられたわけである。 わづか三十六で死んだのは、惜しい人物である。天壽を完うしてゐたら、三四十萬の大名にはなつてゐたらう。しかし、講釋の中などでも、軍師として今でも傳つてゐる位だから、當時名聲があつたことが分る。 だから、逸話は相當に面白い。重治が、黑田孝高の持つてゐた誓文を火中したと云ふ話は、井伊直孝が、伊達政宗の持つてゐた家康の墨付を火中したと云ふ話と同じである。これは、一つの話が、他に誤り傳へられたか、それとも兩方共に、そんな話があつたのか、どちらだか分らない。 「八木」と云ふのは、米の事である。米と云ふ字の隱語である。又「述懷」と云ふのは、當時は不平、愚痴と云ふやうな意味である。「葉隱」と云ふ本などは、常にその意味で使はれてゐる。
新字:竹中半兵衛は、黒田官兵衛(如水孝高)と並んで秀吉幕下の二兵衛と云はれた謀将である。 謀将と云つても、たゞ頭脳だけでなく、武断勇略のあることは、その主竜興を岐阜城から追ひ出した事でも分る。しかし、それを亦竜興に返し与へたと云ふから、下剋上的な野心がなかつたことも感じがよい。 秀吉の中国征伐の前期に活躍した参謀長である。重治が死んだ後、主として如水が用ゐられたわけである。 わづか三十六で死んだのは、惜しい人物である。天寿を完うしてゐたら、三四十万の大名にはなつてゐたらう。しかし、講釈の中などでも、軍師として今でも伝つてゐる位だから、当時名声があつたことが分る。 だから、逸話は相当に面白い。重治が、黒田孝高の持つてゐた誓文を火中したと云ふ話は、井伊直孝が、伊達政宗の持つてゐた家康の墨付を火中したと云ふ話と同じである。これは、一つの話が、他に誤り伝へられたか、それとも両方共に、そんな話があつたのか、どちらだか分らない。 「八木」と云ふのは、米の事である。米と云ふ字の隠語である。又「述懐」と云ふのは、当時は不平、愚痴と云ふやうな意味である。「葉隠」と云ふ本などは、常にその意味で使はれてゐる。
書き下し
竹中半兵衞は、黑田官兵衞(如水孝高)と並んで秀吉幕下の二兵衞と云はれた謀將である。 謀將と云つても、たゞ頭腦だけでなく、武斷勇略のあることは、その主龍興を岐阜城から追ひ出した事でも分る。しかし、それを亦龍興に返し與へたと云ふから、下剋上的な野心がなかつたことも感じがよい。 秀吉の中國征伐の前期に活躍した參謀長である。重治が死んだ後、主として如水が用ゐられたわけである。 わづか三十六で死んだのは、惜しい人物である。天壽を完うしてゐたら、三四十萬の大名にはなつてゐたらう。しかし、講釋の中などでも、軍師として今でも傳つてゐる位だから、當時名聲があつたことが分る。 だから、逸話は相當に面白い。重治が、黑田孝高の持つてゐた誓文を火中したと云ふ話は、井伊直孝が、伊達政宗の持つてゐた家康の墨付を火中したと云ふ話と同じである。これは、一つの話が、他に誤り傳へられたか、それとも兩方共に、そんな話があつたのか、どちらだか分らない。 「八木」と云ふのは、米の事である。米と云ふ字の隱語である。又「述懷」と云ふのは、當時は不平、愚痴と云ふやうな意味である。「葉隱」と云ふ本などは、常にその意味で使はれてゐる。
現代語訳
竹中半兵衛は、黒田官兵衛(如水孝高)と並んで、秀吉の幕下の「二兵衛」と言われた謀将です。 謀将といっても、ただ頭脳だけでなく、武断と勇略があったことは、主君の龍興を岐阜城から追い出したことでも分かります。しかし、それをまた龍興に返し与えたというのですから、下剋上的な野心がなかったことも、好ましく感じられます。 秀吉の中国征伐の前期に活躍した参謀長です。重治が死んだあとは、主として如水が用いられたわけです。 わずか三十六で死んだのは、惜しい人物です。天寿を全うしていたら、三、四十万石の大名にはなっていたでしょう。しかし、講釈の中などでも、軍師として今でも伝わっているくらいですから、当時、名声があったことが分かります。 だから、逸話はかなり面白いのです。重治が、黒田孝高の持っていた誓文を火中に投じたという話は、井伊直孝が、伊達政宗の持っていた家康の墨付を火中に投じたという話と同じです。これは、一つの話が他に誤って伝えられたのか、それとも両方ともにそういう話があったのか、どちらか分かりません。 「八木」というのは、米のことです。米という字の隠語です。また「述懐」というのは、当時は不平、愚痴というような意味です。『葉隠』という本などは、いつもその意味で使っています。
解説

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名将言行録・『名将言行録』竹中重治 病を押して陣に死す○天正七年の春、重治、秀吉を助け、三木城を攻む、心地例ならず、醫療を加へんとて京に登り療治せり。病深うして癒ゆること能はずと聞て、去らば軍中にてこそ死なめとて、播磨に馳下り同年六月平山の陣にて卒す。重治、勇謀武略、人恐れ敬はずと云ふことなく、昔の楠木、今の竹中と申しゝなり。重治、三木の陣に在りし日、書寫山にて僧の具數を求めて、高野山に登せ置き、城を攻落したる後は、必ず世を遁れんとせり。是は秀吉、我勢の起るに從ひ、重治に及ばぬ事を知り、彼を深く忌み思ひしに依て斯く思ひ立ちしことゝぞ。死後秀吉人に語て曰く、重治存生の時は、何事にても世に無け敷と思ひしことはなかりしと。 ○重治常に好み書を讀み能く兵に通ぜり。軍書八卷あり、世に行はる、後世竹中流と稱し、其遺法を講ずる者少なからずと云ふ。
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名将言行録・『名将言行録』竹中重治 誓文を破り黒田孝高を励ます○又曰く、刀を常に帶して座敷に就くこと、古より然り。近頃は刀を脱て別所に置き、或は多くの刀と共に一つに置くことになれり。志あらん輩、其心得あるべきことなり、同所に刀多くあれば、急なる時に取違ることあるものなれば、人の刀は横に致さば、我刀は立掛け置き、又は人の刀と振違て置き、人の刀のあらん所を除きて、別所に置くことと心得べし、大勢の入込に刀を置かずして叶はざる時は、我刀のまた知れる樣に心得べしと。 ○黑田孝高、秀吉と交り深し、秀吉嘗て誓文を以て、他日知行を與んとの約あり。後ち秀吉次第に出身せしかども、其言を踏まず、孝高毎に其不足を鳴らせり。重治、孝高と友とし善し、一日孝高を尋ねければ、孝高誓文の事を言出して、不平を述ぶ。重治夫は如何樣の誓文ぞと尋ねければ、爾々なりと言て出だす。重治之を見終て、何とも言はず引裂き、火中に投棄す。孝高大に驚きければ、重治此誓文あればこそ、不足も起り不勸にもなりぬ。結句身の爲めにならずと言ければ、孝高も致し方なく、勉勵せしかば、夫より次第に出身せしとぞ。 ○重治、常に諸士に語て曰く、己が屋敷の雨落を出る時、早や敵ありて、我を窺ふと心得べし、迂濶々々と雨落を越すは甚だ粗略なりと。 ○重治、斬首捕虜の功はなかりしかども、秀吉を助け軍務を參畫し、敵を制すること神の如し。秀吉以て腹心と爲し、毎時諮詢せり。重治益々心を傾け結納す。秀吉多くの軍功を顯はし信長の股肱となりしは、重治羽翼の功許多なり。
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名将言行録・『名将言行録』竹中重治 老臣を黙らせた講義と静かな将○重治、當時武道の功者と呼ばれ、其名甚だ高し。織田家の老臣柴田瀧川等之を聞て、竹中は年若く、未だ戰功を積まざれば、定めて虛名ならん、若し彼に逢はゞ、武道の論談し、一言に挫んと密議す。時に重治、秀吉より信長に言上の使者と成り、中國より上京すれば、柴田、瀧川之を聞て、先づ柴田が宅に招待し、諸將も列座して一禮終り、勝家、重治に向て、今度毛利對陣の樣子貴殿定めて始終を知らん、筑州の所存を語られよと言ふ。重治聞て、某は別に筑前守が所存を承はりたること、曾て侍らず、去れば何事をか申べきやと言ふ。然らば貴殿の思入もあらば、願くは語り聞かせられよと言ふ。重治止むこと得ず、毛利弓箭の格、我師の會繹逐一に述べ、某未だ筑前守が口上を述べざれば、先づ御前を濟まし、追て會談すべしと言て退出す。柴田、瀧川、丹羽、佐久間等の諸將始終を聞て大に嗟歎し、聞きしより猶勝りて、今日の講義一ッとして批判すべき所なし、去れば弓箭の才は、事に遇、遇ざるには寄ろべからずと言て何れも讃歎せりとぞ。 ○重治狀貌婦人の如し、軍に臨む時も、猛威なることなく、如何にも靜なる馬に乘り、虎御前と曰ふ刀を常の如く差し、馬の皮にて包めろ甲の上に、木綿の羽織を著、一の谷と名付けたろ冑の緒をしめ、靜まり返て居たり。重治向ふ度每に士卒戰はずして旣に勝たりと勇みたりとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』竹中重治 牛の逸話と家の面目○重治陣中に於て常に牛に騎ると曰ふ。時人評して曰く、如何なる半兵衞にてもあれ、何つも心靜に牛に騎るべき所以なし、偶々一兩度牛に騎りたることありたるをば、談話に飾りたるならんと、其沈靜なること斯の如し。 ○重治、平生足の指を動し、寒中にも手を懷にせず、甚だ寒ゆれば、手を摩して居れり。秀吉の前に侍する時も、足を動し、左右片々づゝ休めける。或人怪みて之を問ふ。重治、主人の前にて自身逸樂の爲めに、手足を自由にするは甚だ無禮なり。君用の爲めを思ひ、手足四肢の痺痿んことを思ふは忠と言ふべし、士たる者武を心に忘るべからず、餘の作用は少々違所ありても苦しからず、武道の事に於て名を汚すは士の本意にあらず、若し不處に臨みて足痿れ手凍たると言はれては、其言譯立つべからずと言はれけり。 ○重治、秀吉より賜はる所の自筆の懇書を裂き捨て、此樣なる物を殘し置きては、自分にも後になりては殊に寄りて述懷を生じ、子孫に至りても、其身の不覺悟を忘れて、父には箇樣に御懇にてありし抔とて恨を生ずることあるものなり、と言て捨たり。 ○重治、軍物語の時、子の左京未だ幼なかりしが、座を立て何方へか行き、暫らくして歸り來る。重治軍物語の半に混立つことやあると叱りければ、左京、小便に立ち候と言ふ。重治怒て小便に立度は何にとて座敷にて小便を致さぬぞ、竹中が子が武道の咄に聞入り、座敷を汚したりと言はれなば、我家の面目なりと言はれけり。
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名将言行録・『名将言行録』竹中重治 稲葉山城の奇襲遠江守重元の子、半兵衞尉と稱し、菩提城に住す。天正七年六月十三日卒、年三十六。 ○重治、初め齋藤龍興に仕ふ。人と爲り沈勇溫毅にして、智慮多し。武道研究の外は、皆瑣末なりと思ひし故、小事に精しからず。若き時、人皆重治は心緖大樣にして、國主の長子抔によからん、抔と言はれし程のことなりけり。龍興も重治の愚に見えしを侮て無禮のことゞも多かりける。十九歲の時城に登りてありしに、龍興が侍共、主の常々侮ろに習ひて、矢倉に上り、小便をしかけてけり。重治去らぬ體にもてなし、押拭て己が城に歸り、舅の安藤伊賀守が許に行て、重治は屋形を恨むることの候へば、襲ひ參らせんと思ふなり、加勢賜はるべしと言ふ。安藤も哀れ愚なる人哉、我等が小勢を以て、屋形を傾んこと叶ふ間敷と思ひしかば、此事努々然るべからずと敎訓して歸へす。重治、弟久作重矩兼ねて質として城中に置きけるが、煩ふことあり、傍に侍り居て、醫藥を加へよとて、侍六七人を城中に入れ置き、其日暮方に長持に物具入れて雜人に昇せ、自ら侍十人ばかり引具して城に登る。是は舍弟が病を訪ひ、人々をも饗應せん料の酒飯樣の物にて候と言ひし程に、門每に咎むる者もなく入てけり。詰の城に入すまし、物具ひし〱と固めて、切て入ろ。其夜の番の侍大將齋藤飛驒守をば、重治眞二つに切つて伏せ、斯く小勢なるべしとも思ひも寄らず、俄事にてあり、城中に有合ふ輩周章る所を、十七人の者共爰彼所に切て廻はり、討ろ丶者寡からず、龍興辛き命を助かりて落行きたり。城中には早鐘鳴出で、以の外に騷動しける程に、安藤、偖は重治攻入りけりと、大に驚き手勢引具し鞭鐙合はせて、馳來るに、城をば旣に重治が手に取りてけり。時に永祿五年五月八日なり。
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名将言行録・『名将言行録』竹中重治 備えを正す腰の低さ○重治、戰場にて備立我思ふ樣にあらざれば、秀吉の命なくても備を替させけり。或時の合戰に去る大名、家老に向つて、何つも竹中が下知に隨ひ快よからず、此度は受引せずと言ける折節、重治馬に乘り來りけるが、如何思ひけん、二三反此方より、馬より下りて如何にも靜に步み行き、寄て手を突き、備の場所、旗色まで能く候、御感に思召候と謹みて言けろ。彼大名、悅氣に入り御前然ろべき樣にと申す時、重治重ねて秀吉公の思召には、此備の足輕、旗の立て所彼れ是れに置かれ候は丶、彌々然るべくとの御意にて候と言ければ、御尤もの御意なりとて、重治が申しゝ如くに、備を立直しけり。偖重治歸りて後、家老に向て、竹中が下知と思ひながら違變ならざることよ、と大に笑けるとぞ。