名将言行録 / 『名将言行録』竹中重治 老臣を黙らせた講義と静かな将
○重治、當時武道の功者と呼ばれ、其名甚だ高し。織田家の老臣柴田瀧川等之を聞て、竹中は年若く、未だ戰功を積まざれば、定めて虛名ならん、若し彼に逢はゞ、武道の論談し、一言に挫んと密議す。時に重治、秀吉より信長に言上の使者と成り、中國より上京すれば、柴田、瀧川之を聞て、先づ柴田が宅に招待し、諸將も列座して一禮終り、勝家、重治に向て、今度毛利對陣の樣子貴殿定めて始終を知らん、筑州の所存を語られよと言ふ。重治聞て、某は別に筑前守が所存を承はりたること、曾て侍らず、去れば何事をか申べきやと言ふ。然らば貴殿の思入もあらば、願くは語り聞かせられよと言ふ。重治止むこと得ず、毛利弓箭の格、我師の會繹逐一に述べ、某未だ筑前守が口上を述べざれば、先づ御前を濟まし、追て會談すべしと言て退出す。柴田、瀧川、丹羽、佐久間等の諸將始終を聞て大に嗟歎し、聞きしより猶勝りて、今日の講義一ッとして批判すべき所なし、去れば弓箭の才は、事に遇、遇ざるには寄ろべからずと言て何れも讃歎せりとぞ。 ○重治狀貌婦人の如し、軍に臨む時も、猛威なることなく、如何にも靜なる馬に乘り、虎御前と曰ふ刀を常の如く差し、馬の皮にて包めろ甲の上に、木綿の羽織を著、一の谷と名付けたろ冑の緒をしめ、靜まり返て居たり。重治向ふ度每に士卒戰はずして旣に勝たりと勇みたりとぞ。
新字:○重治、当時武道の功者と呼ばれ、其名甚だ高し。織田家の老臣柴田滝川等之を聞て、竹中は年若く、未だ戦功を積まざれば、定めて虚名ならん、若し彼に逢はゞ、武道の論談し、一言に挫んと密議す。時に重治、秀吉より信長に言上の使者と成り、中国より上京すれば、柴田、滝川之を聞て、先づ柴田が宅に招待し、諸将も列座して一礼終り、勝家、重治に向て、今度毛利対陣の様子貴殿定めて始終を知らん、筑州の所存を語られよと言ふ。重治聞て、某は別に筑前守が所存を承はりたること、曽て侍らず、去れば何事をか申べきやと言ふ。然らば貴殿の思入もあらば、願くは語り聞かせられよと言ふ。重治止むこと得ず、毛利弓箭の格、我師の会繹逐一に述べ、某未だ筑前守が口上を述べざれば、先づ御前を済まし、追て会談すべしと言て退出す。柴田、滝川、丹羽、佐久間等の諸将始終を聞て大に嗟嘆し、聞きしより猶勝りて、今日の講義一ッとして批判すべき所なし、去れば弓箭の才は、事に遇、遇ざるには寄ろべからずと言て何れも讃嘆せりとぞ。 ○重治状貌婦人の如し、軍に臨む時も、猛威なることなく、如何にも静なる馬に乗り、虎御前と曰ふ刀を常の如く差し、馬の皮にて包めろ甲の上に、木綿の羽織を著、一の谷と名付けたろ冑の緒をしめ、静まり返て居たり。重治向ふ度毎に士卒戦はずして既に勝たりと勇みたりとぞ。
書き下し
○重治、當時武道の功者と呼ばれ、其名甚だ高し。織田家の老臣柴田瀧川等之を聞て、竹中は年若く、未だ戰功を積まざれば、定めて虛名ならん、若し彼に逢はゞ、武道の論談し、一言に挫んと密議す。時に重治、秀吉より信長に言上の使者と成り、中國より上京すれば、柴田、瀧川之を聞て、先づ柴田が宅に招待し、諸將も列座して一禮終り、勝家、重治に向て、今度毛利對陣の樣子貴殿定めて始終を知らん、筑州の所存を語られよと言ふ。重治聞て、某は別に筑前守が所存を承はりたること、曾て侍らず、去れば何事をか申べきやと言ふ。然らば貴殿の思入もあらば、願くは語り聞かせられよと言ふ。重治止むこと得ず、毛利弓箭の格、我師の會繹逐一に述べ、某未だ筑前守が口上を述べざれば、先づ御前を濟まし、追て會談すべしと言て退出す。柴田、瀧川、丹羽、佐久間等の諸將始終を聞て大に嗟歎し、聞きしより猶勝りて、今日の講義一ッとして批判すべき所なし、去れば弓箭の才は、事に遇、遇ざるには寄ろべからずと言て何れも讃歎せりとぞ。 ○重治狀貌婦人の如し、軍に臨む時も、猛威なることなく、如何にも靜なる馬に乘り、虎御前と曰ふ刀を常の如く差し、馬の皮にて包めろ甲の上に、木綿の羽織を著、一の谷と名付けたろ冑の緒をしめ、靜まり返て居たり。重治向ふ度每に士卒戰はずして旣に勝たりと勇みたりとぞ。
現代語訳
重治は当時、武道の功者と呼ばれ、その名はたいへん高かった。織田家の老臣、柴田・滝川らはこれを聞いて、竹中は年が若く、まだ戦功を積んでいないので、きっと虚名であろう、もし彼に会えば、武道の論談をして、一言で挫いてやろう、と密かに相談した。ときに重治は、秀吉から信長に言上する使者となって、中国から上京したので、柴田、滝川はこれを聞いて、まず柴田の宅に招待し、諸将も列座して一礼が終わった後、勝家が重治に向かって、このたびの毛利との対陣の様子を貴殿はきっと始終知っておろう、筑州の所存を語られよ、と言った。重治は聞いて、私は別に筑前守の所存を承ったことはまったくございません、であればなにを申し上げましょう、と言った。ならば貴殿の思うところがあれば、どうか語り聞かせよ、と言った。重治はやむを得ず、毛利の弓矢の格式、わが師の会得を逐一述べ、私はまだ筑前守の口上を述べていないので、まず御前を済ませ、追って会談しましょう、と言って退出した。柴田、滝川、丹羽、佐久間らの諸将は始終を聞いて大いに嘆息し、聞いていたよりもなお勝って、今日の講義は一つとして批判すべき所がない、であれば弓矢の才は、事に遭うか遭わぬかによるものではない、と言って、皆感嘆したという。 重治は、容貌が婦人のようであった。軍に臨むときも、猛々しい様子はなく、いかにも静かな馬に乗り、虎御前という刀をいつものように差し、馬の皮で包んだ甲の上に、木綿の羽織を着て、一の谷と名付けた兜の緒を締め、静まり返っていた。重治が向かうたびに、士卒は戦わずしてすでに勝ったと勇んだという。
解説

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