名将言行録 / 『名将言行録』蒲生氏郷 黒塚の歌と朝鮮の望み
○陸奧安達郡に川あり。向ふに黑塚あり、安達は氏鄕の領地なりしに、黑塚は政宗の領地なりとて、爭論ありしに、氏鄕聞て、平隸盛の歌に、『陸奧の安達ヶ原の、黑塚に、鬼籠れりと、曰ふは眞とか』と讀めろことあり、如何にと言はれしに、聞く人、黑塚は安達ヶ原に屬したること分明なりとて、政宗爭を止められけり。 ○秀吉、名護屋に在り、征韓の事に歲月を重ぬるを憂ひ、諸將を會し、詮議ありし時に、氏鄕何の事も御座なく候、朝鮮を某に下し賜はらんには、切取りに仕るべく、左候へば上の御苦勞も止み申間、某次第に仰付られかしと申す。秀吉、是より氏鄕を忌みしとぞ。 ○筒井順慶の臣に、松倉權助と曰ふ者あり。臆病者と沙汰せらる丶故、筒井が家を去りて、蒲生が家に來り、臆病者も良將の下に用ひらろ丶道あらば御扶持を蒙らばやと請ふ。氏鄕見る所ありとて、卽ち呼出さる。程なく戰ありければ、松倉鎗を合はせて首を得たり。氏鄕見ろに違はずとて、祿二千石を與へ、物頭とせり。其後戰ありし時、松倉拔出たる働敵味方の目を驚かし、深入して討死す。氏鄕近習の者に、松倉は剛果にして大志あり、人の下風に立つ者にあらず、故に早く取立しが、今少し出世を延ばし置かば無理なる討死は致す間敷を、我が過に依てあたら武士を失ひたり、と言て落涙して、悔られけり。
新字:○陸奥安達郡に川あり。向ふに黒塚あり、安達は氏郷の領地なりしに、黒塚は政宗の領地なりとて、争論ありしに、氏郷聞て、平隸盛の歌に、『陸奥の安達ヶ原の、黒塚に、鬼籠れりと、曰ふは真とか』と読めろことあり、如何にと言はれしに、聞く人、黒塚は安達ヶ原に属したること分明なりとて、政宗争を止められけり。 ○秀吉、名護屋に在り、征韓の事に歳月を重ぬるを憂ひ、諸将を会し、詮議ありし時に、氏郷何の事も御座なく候、朝鮮を某に下し賜はらんには、切取りに仕るべく、左候へば上の御苦労も止み申間、某次第に仰付られかしと申す。秀吉、是より氏郷を忌みしとぞ。 ○筒井順慶の臣に、松倉権助と曰ふ者あり。臆病者と沙汰せらる丶故、筒井が家を去りて、蒲生が家に来り、臆病者も良将の下に用ひらろ丶道あらば御扶持を蒙らばやと請ふ。氏郷見る所ありとて、即ち呼出さる。程なく戦ありければ、松倉鎗を合はせて首を得たり。氏郷見ろに違はずとて、禄二千石を与へ、物頭とせり。其後戦ありし時、松倉抜出たる働敵味方の目を驚かし、深入して討死す。氏郷近習の者に、松倉は剛果にして大志あり、人の下風に立つ者にあらず、故に早く取立しが、今少し出世を延ばし置かば無理なる討死は致す間敷を、我が過に依てあたら武士を失ひたり、と言て落涙して、悔られけり。
書き下し
○陸奧安達郡に川あり。向ふに黑塚あり、安達は氏鄕の領地なりしに、黑塚は政宗の領地なりとて、爭論ありしに、氏鄕聞て、平隸盛の歌に、『陸奧の安達ヶ原の、黑塚に、鬼籠れりと、曰ふは眞とか』と讀めろことあり、如何にと言はれしに、聞く人、黑塚は安達ヶ原に屬したること分明なりとて、政宗爭を止められけり。 ○秀吉、名護屋に在り、征韓の事に歲月を重ぬるを憂ひ、諸將を會し、詮議ありし時に、氏鄕何の事も御座なく候、朝鮮を某に下し賜はらんには、切取りに仕るべく、左候へば上の御苦勞も止み申間、某次第に仰付られかしと申す。秀吉、是より氏鄕を忌みしとぞ。 ○筒井順慶の臣に、松倉權助と曰ふ者あり。臆病者と沙汰せらる丶故、筒井が家を去りて、蒲生が家に來り、臆病者も良將の下に用ひらろ丶道あらば御扶持を蒙らばやと請ふ。氏鄕見る所ありとて、卽ち呼出さる。程なく戰ありければ、松倉鎗を合はせて首を得たり。氏鄕見ろに違はずとて、祿二千石を與へ、物頭とせり。其後戰ありし時、松倉拔出たる働敵味方の目を驚かし、深入して討死す。氏鄕近習の者に、松倉は剛果にして大志あり、人の下風に立つ者にあらず、故に早く取立しが、今少し出世を延ばし置かば無理なる討死は致す間敷を、我が過に依てあたら武士を失ひたり、と言て落涙して、悔られけり。
現代語訳
陸奥安達郡に川がある。向こうに黒塚があり、安達は氏郷の領地であったが、黒塚は政宗の領地だと言って争論になった。氏郷はこれを聞いて、平兼盛の歌に、「陸奥の安達ヶ原の黒塚に鬼籠れりと言ふは誠か」と詠んだものがあるが、どうか、と言った。聞く人は、黒塚は安達ヶ原に属すことが明らかだとして、政宗は争いをやめた。 秀吉が名護屋にいて、朝鮮出兵に歳月を重ねることを憂い、諸将を集めて評議した。氏郷は、何のことも御座いません、朝鮮を私に下さるなら切り取ってみせます、そうすればお上の御苦労も止みますので、私にお任せください、と申し上げた。秀吉はこれより氏郷を忌むようになったという。 筒井順慶の臣に、松倉権助という者がいた。臆病者と噂されるので筒井の家を去り、蒲生の家に来て、臆病者も良将の下では用いられる道があるならば、お扶持を蒙りたい、と請うた。氏郷は見る所があるとして、すぐに呼び出した。まもなく戦があり、松倉は槍を合わせて首を得た。氏郷は見立てに違わぬと言って、禄二千石を与え、物頭とした。その後戦があったとき、松倉の抜け出た働きは敵味方の目を驚かし、深入りして討死した。氏郷は近習の者に、松倉は剛毅果断で大志があり、人の下風に立つ者ではない。だから早く取り立てたが、今少し出世を延ばしておけば無理な討死はしなかったろうに、私の過ちで惜しい武士を失った、と言って、涙を流して悔やんだ。
解説

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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 家風の偏りと和歌○氏鄕曰く、今何の某の家風は和にして恩を貴ぶ、其士多く柔弱なり、義に感じ禮を知る者餘りありて、勇猛の士寡し、又何の某の家風は凜々と締り、武道の心掛け能く、手强き士多くして、義に感じ禮を知る者寡し、兩家互に失あり、譬へば、春夏は萬物盛長の時なれども、病に感ずる者多く、物腐り易く虫蛆を生ずるが如し、是れ恩を貴ぶの失なり。又秋冬は木葉衰枯する時なれども、物の成熟すること多し、其家風の縮りたるに似たり。春夏秋冬一偏に傾かざる樣に家風を正すを、主將の器と言ふべしと。 ○氏鄕、平生武職を守り、聊も怠らず。日夜家臣を集めて武道を琢磨し、明日の合戰に、其言に違はず働くことを專一とせい、家に財を蓄ろことなく、智士勇者を諸方より招て財祿を與へ、死を與に爲さんことを欲する故、天下の名士多く歸屬せり。之に依り秀吉、奧州の鎭壓とはせられけり。凡そ祿百餘萬石に充れども、臺所間々失食のことありて、家臣の徒より交々之を養ひしことありしとぞ。 ○氏鄕曰く、『雲は皆、拂ひ果てたる、秋風を、松に殘して、月をこそ見れ』。又『月澄みて、雲皆空に、消果てゝ、深山隱くれを、行く嵐哉』。此二首の和歌は軍法の心得に、大將たる者味ふべきなりと。 ○氏鄕、夜話には怪談を好めり。又武邊の話になりては、退屈せぬものなりとて、蠟燭二挺を限りに、夜話の者退出す、夏の夜は蠟燭を短く剪て風所に燈し置かれけり。
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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 評・逸話は人物の計器秀吉に毒殺されたなど云ふことは、嘘である。恐らく、(限あれば)の歌があるために、生じたデマである。しかし、信長取り立ての大名だし、大志雄略があるのだから秀吉に多少烟たがられたことは、たしかである。個人的武勇に秀れ、いつも陣頭に立つて奮戰したと云ふ點では、黑田長政などと同じである。しかし、才幹と云ひ、大志と云ひ、また文事と云ひ、長政などよりは、はるかに秀れてゐる。舊主の子孫に對して、その刀を持つて陪從したと云ふのも、優にやさしき振舞だ。わづか、四十で死んだのは、いかにも惜しい。もつと生きてゐたならば、關ケ原の役などでは、天下の形勢にも影響のある一大勢力であつたゞらう。 家臣西村と角力を取る話は、可なり知られてゐる美談であるが、(十萬石吳れたら一人子を捨てろ)と云ふ言葉を聽いて、急に不興になる點など、氏鄕などの爲人を示して甚だ面白い。 その人の美談、逸話は、その人物を示す、計器そのものである。
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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 少年期に見込まれる右兵衞太夫賢秀の子。飛驒守に任す。後從三位に叙し、參議に任す。會津百二十萬石に封ぜられ、黒川城に住す。文祿四年二月七日薨、年四十。 ○永祿十一年九月、氏郷、父賢秀と共に信長に降る、時に年十三、鶴千代丸と曰ふ。信長之を見て、蒲生が子眼晴常ならず、尋常の者にはあるまじ、天晴なる若者哉、信長が娘に合はせんとて、岐阜城に止め、彈正忠の一字を賜はり、名を忠三郎と賜ふ。 ○信長の前にて、毎度武邊の談論あり、氏郷年十三、常に座に在り、深更に及ぶと雖も、終に倦怠することなく、一心不亂に語る者の口本を守り居たり。稻葉貞通之を見て、蒲生が子は尋常の者にあらず、彼にして一廉勝れたる武勇の者に成らずんば、成る者は有間敷と言はれけり。 ○十二年八月、信長、大河内の城に發向す。氏郷年十四、只一人拔掛し、多勢の中に戰ひ、能き首取て歸る。信長大に感じ、自ら打鮑取て賜はりけり。是より大小の戰功、數ふるに違あらず。
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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 先頭に立つ主将○氏鄕、諸士を饗應せし時、自ら頭を包みて風呂の火を焚れしとぞ。 ○氏鄕、常に諸隊將に謂て曰く、主將として衆人を戰場に使ふには、唯掛れ〱とのみ指麾しては掛らざるものなり、掛れと思ふ所には、主將自ら其場に至て、是所に來れと言へば、主將を見捨る者はあらざるなり、自身は後に居て唯衆にのみ掛らしめんとするとも、掛ることはなきものなりと。 ○氏鄕、初陣の時より、銀の鯰尾の冑を戴き、常に先陣に進みたり。之に依り新に仕ふる者あれば、氏鄕之に逢ひ、我旗本に銀の鯰尾の冑を戴き先陣に進む者あり、此者に劣らず働くべしと言はる。新進の士誰ならんと思ひつゝ居ろ中に、陣の沙汰あり、戰に臨みて之を見れば、氏鄕なり。 ○秀吉、前にて氏鄕及び家康、利家、秀吉、輝元抔談話の時、秀吉曰く、譬へば只今織田上總介に、兵五千、蒲生に兵一萬付て合戰させんに、何方へ附申さるべきとなり、何れも返答出來兼ねたり。其時、秀吉、某は上總介に附くべし、其故は蒲生方より冑付の首五つ取りたる程ならば、其內に氏鄕の首あるべし、上總介方は四千九百人まで討取られたるにても、上總介は討死致さるまじ、然らば大將の早く討取られたる方こそ、大なる負なれ、と言はれけり。氏鄕は早やり過ぎたる故、斯の如き物語申されしとぞ。 ○氏鄕、陣屋にては、諸侍に博奕を許ろし致さしめたり。是は陣屋にて番を勤むる者眠り易きを以てなりとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 会津拝領の涙○此役畢て後、秀吉諸將を會し、會津は關東の要地なり、勝れたる一將を撰びて鎭壓せしめずんばならぬ地なり。汝等遠慮なく意見を記し(註:隱起請と曰ふ今の入札なり)て見すべしと言はる。細川越中守忠興、然るべしと言ふ者十人には九人あり。秀吉之を見て、汝等愚も又甚だし、我天下を容易く得しことは理わりなり、此地は蒲生忠三郎ならでは置くべき者なしとありて氏郷に會津百二十萬石を賜ふ。時に十八年八月なり。氏郷御前より退き、廣間の柱に依り掛り涙含みて居たり。山崎右近、之を見て多分の所領を賜はられ忝きの餘り涙を流さるゝことゝ思ひ、側へ進み寄り忝く思召すこと御尤もなりと言ふ。氏郷、小聲にて、左樣にてなし、小身なりとも、都近に居らば、一度天下に望みあることなり、何に程大身にても、雲を隔て海山越て遠國に罷在りては何の望みも叶はず、最早我等は棄りたりと思へば、不覺の涙こぼれ候と言はれけり。
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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 石高の配り方と袴○氏郷會津百二十萬石賜はりし時、老臣共家中に、地行配當せんと言ければ、氏郷之を聞き、自身配當すべしとて、一萬石と思ふ者には、二萬石、三萬石と配り、其の次第に依て配當せし故、百二十萬石の地不足になりぬ。老臣共過分に地行を下し賜はらんこと有り難きことなれども、侍共へ配り足り申さず、況や御藏入は少しも之なく、箇樣にては御軍役成間敷と申ければ氏郷去らば、不足なるか、汝等配り直せと言はれける。家臣等之を聞き、一萬石の約束の者に二萬石三萬石と配當せられし主人の志を忝く存じ、御藏入だに不足せずば、必ず三萬石賜はるべしと思ひつる故、別て有り難がりしとぞ。 ○氏郷、會津へ行く時、秀吉袴を脱ぎ氏郷に著せられ、自ら氏郷の袴を著らる。偖氏郷奥州へ行くことを如何存居りしやと尋ねられければ近臣殊の外迷惑がり候と申す。秀吉聞て、如何にも左あるべし、こちらに置きては怖ろしき奴なり、故に奥州に遣はすとぞ言はれけり。