名将言行録 / 『名将言行録』蒲生氏郷 会津拝領の涙
○此役畢て後、秀吉諸將を會し、會津は關東の要地なり、勝れたる一將を撰びて鎭壓せしめずんばならぬ地なり。汝等遠慮なく意見を記し(註:隱起請と曰ふ今の入札なり)て見すべしと言はる。細川越中守忠興、然るべしと言ふ者十人には九人あり。秀吉之を見て、汝等愚も又甚だし、我天下を容易く得しことは理わりなり、此地は蒲生忠三郎ならでは置くべき者なしとありて氏郷に會津百二十萬石を賜ふ。時に十八年八月なり。氏郷御前より退き、廣間の柱に依り掛り涙含みて居たり。山崎右近、之を見て多分の所領を賜はられ忝きの餘り涙を流さるゝことゝ思ひ、側へ進み寄り忝く思召すこと御尤もなりと言ふ。氏郷、小聲にて、左樣にてなし、小身なりとも、都近に居らば、一度天下に望みあることなり、何に程大身にても、雲を隔て海山越て遠國に罷在りては何の望みも叶はず、最早我等は棄りたりと思へば、不覺の涙こぼれ候と言はれけり。
新字:○此役畢て後、秀吉諸将を会し、会津は関東の要地なり、勝れたる一将を撰びて鎮圧せしめずんばならぬ地なり。汝等遠慮なく意見を記し(註:隠起請と曰ふ今の入札なり)て見すべしと言はる。細川越中守忠興、然るべしと言ふ者十人には九人あり。秀吉之を見て、汝等愚も又甚だし、我天下を容易く得しことは理わりなり、此地は蒲生忠三郎ならでは置くべき者なしとありて氏郷に会津百二十万石を賜ふ。時に十八年八月なり。氏郷御前より退き、広間の柱に依り掛り涙含みて居たり。山崎右近、之を見て多分の所領を賜はられ忝きの余り涙を流さるゝことゝ思ひ、側へ進み寄り忝く思召すこと御尤もなりと言ふ。氏郷、小声にて、左様にてなし、小身なりとも、都近に居らば、一度天下に望みあることなり、何に程大身にても、雲を隔て海山越て遠国に罷在りては何の望みも叶はず、最早我等は棄りたりと思へば、不覚の涙こぼれ候と言はれけり。
書き下し
○此役畢て後、秀吉諸將を會し、會津は關東の要地なり、勝れたる一將を撰びて鎭壓せしめずんばならぬ地なり。汝等遠慮なく意見を記し(註:隱起請と曰ふ今の入札なり)て見すべしと言はる。細川越中守忠興、然るべしと言ふ者十人には九人あり。秀吉之を見て、汝等愚も又甚だし、我天下を容易く得しことは理わりなり、此地は蒲生忠三郎ならでは置くべき者なしとありて氏郷に會津百二十萬石を賜ふ。時に十八年八月なり。氏郷御前より退き、廣間の柱に依り掛り涙含みて居たり。山崎右近、之を見て多分の所領を賜はられ忝きの餘り涙を流さるゝことゝ思ひ、側へ進み寄り忝く思召すこと御尤もなりと言ふ。氏郷、小聲にて、左樣にてなし、小身なりとも、都近に居らば、一度天下に望みあることなり、何に程大身にても、雲を隔て海山越て遠國に罷在りては何の望みも叶はず、最早我等は棄りたりと思へば、不覺の涙こぼれ候と言はれけり。
現代語訳
この戦が終わった後、秀吉は諸将を集め、会津は関東の要地である、すぐれた一人の将を選んで鎮めさせねばならぬ地である。お前たちは遠慮なく意見を記して(注。隠し起請という。今の入札である)見せよ、と言った。細川越中守忠興をはじめ、しかるべき人は氏郷だと書いた者が十人のうち九人であった。秀吉はこれを見て、お前たちの愚かさもまた甚だしい、私が天下を容易く得たのは理由のあることだ、この地は蒲生忠三郎でなければ置くべき者がない、と言って、氏郷に会津百二十万石を与えた。ときに十八年八月のことである。氏郷は御前から退き、広間の柱に寄りかかって涙を含んでいた。山崎右近はこれを見て、多くの所領を賜ってかたじけなさのあまり涙を流すのだろうと思い、側に進み寄って、かたじけなく思し召すのはもっともです、と言った。氏郷は小声で、そうではない、小身であっても都の近くにいれば、一度は天下に望みを抱けるのだ、どれほど大身でも、雲を隔て海山を越えた遠国にいては何の望みも叶わない、もう我らは見捨てられたと思うと、思わず涙がこぼれるのだ、と言った。
解説

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