名将言行録 / 『名将言行録』蒲生氏郷 少年期に見込まれる
右兵衞太夫賢秀の子。飛驒守に任す。後從三位に叙し、參議に任す。會津百二十萬石に封ぜられ、黒川城に住す。文祿四年二月七日薨、年四十。 ○永祿十一年九月、氏郷、父賢秀と共に信長に降る、時に年十三、鶴千代丸と曰ふ。信長之を見て、蒲生が子眼晴常ならず、尋常の者にはあるまじ、天晴なる若者哉、信長が娘に合はせんとて、岐阜城に止め、彈正忠の一字を賜はり、名を忠三郎と賜ふ。 ○信長の前にて、毎度武邊の談論あり、氏郷年十三、常に座に在り、深更に及ぶと雖も、終に倦怠することなく、一心不亂に語る者の口本を守り居たり。稻葉貞通之を見て、蒲生が子は尋常の者にあらず、彼にして一廉勝れたる武勇の者に成らずんば、成る者は有間敷と言はれけり。 ○十二年八月、信長、大河内の城に發向す。氏郷年十四、只一人拔掛し、多勢の中に戰ひ、能き首取て歸る。信長大に感じ、自ら打鮑取て賜はりけり。是より大小の戰功、數ふるに違あらず。
新字:右兵衛太夫賢秀の子。飛驒守に任す。後従三位に叙し、参議に任す。会津百二十万石に封ぜられ、黒川城に住す。文禄四年二月七日薨、年四十。 ○永禄十一年九月、氏郷、父賢秀と共に信長に降る、時に年十三、鶴千代丸と曰ふ。信長之を見て、蒲生が子眼晴常ならず、尋常の者にはあるまじ、天晴なる若者哉、信長が娘に合はせんとて、岐阜城に止め、弾正忠の一字を賜はり、名を忠三郎と賜ふ。 ○信長の前にて、毎度武辺の談論あり、氏郷年十三、常に座に在り、深更に及ぶと雖も、終に倦怠することなく、一心不乱に語る者の口本を守り居たり。稲葉貞通之を見て、蒲生が子は尋常の者にあらず、彼にして一廉勝れたる武勇の者に成らずんば、成る者は有間敷と言はれけり。 ○十二年八月、信長、大河内の城に発向す。氏郷年十四、只一人抜掛し、多勢の中に戦ひ、能き首取て帰る。信長大に感じ、自ら打鮑取て賜はりけり。是より大小の戦功、数ふるに違あらず。
書き下し
右兵衞太夫賢秀の子。飛驒守に任す。後從三位に叙し、參議に任す。會津百二十萬石に封ぜられ、黒川城に住す。文祿四年二月七日薨、年四十。 ○永祿十一年九月、氏郷、父賢秀と共に信長に降る、時に年十三、鶴千代丸と曰ふ。信長之を見て、蒲生が子眼晴常ならず、尋常の者にはあるまじ、天晴なる若者哉、信長が娘に合はせんとて、岐阜城に止め、彈正忠の一字を賜はり、名を忠三郎と賜ふ。 ○信長の前にて、毎度武邊の談論あり、氏郷年十三、常に座に在り、深更に及ぶと雖も、終に倦怠することなく、一心不亂に語る者の口本を守り居たり。稻葉貞通之を見て、蒲生が子は尋常の者にあらず、彼にして一廉勝れたる武勇の者に成らずんば、成る者は有間敷と言はれけり。 ○十二年八月、信長、大河内の城に發向す。氏郷年十四、只一人拔掛し、多勢の中に戰ひ、能き首取て歸る。信長大に感じ、自ら打鮑取て賜はりけり。是より大小の戰功、數ふるに違あらず。
現代語訳
右兵衛太夫賢秀の子。飛驒守に任じられた。のちに従三位に叙せられ、参議に任じられた。会津百二十万石に封ぜられ、黒川城に住んだ。文禄四年二月七日に亡くなり、享年四十。 永禄十一年九月、氏郷は父賢秀とともに信長に降った。そのとき年は十三、鶴千代丸といった。信長はこれを見て、蒲生の子は目の光が尋常ではない、並の者ではあるまい、見事な若者だ、わが娘をめあわせよう、と岐阜城に留め、弾正忠の一字を与えて、名を忠三郎とした。 信長の前ではいつも武辺の談論があり、氏郷は年十三で常にその座にいた。夜が更けても少しも飽きることなく、一心不乱に語る者の口もとを見つめていた。稲葉貞通はこれを見て、蒲生の子は尋常の者ではない、あの子がひとかどの武勇の者にならないなら、なる者などおるまい、と言った。 十二年八月、信長が大河内の城に向かった。氏郷は年十四、ただ一人抜けがけして多勢の中で戦い、よい首を取って帰った。信長は大いに感心し、自ら打ち鮑を取って与えた。これより大小の戦功は数えきれない。
解説

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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 本能寺の変と領地の返上○天正十年六月、信長父子、明智が爲めに都にて害せられし時、賢秀は安土城の留守なり。氏郷は日野城に在り、其變を聞て、手勢五百餘騎、輿五十挺、鞍置馬百疋、外に二百疋を從へて其夜腰越まで來り、先づ案内通ず。賢秀大に喜び、信長の御臺所、姫君を始とし、女房達に至るまで、悉く引纏て日野の城に入れ、急ぎ軍勢を催して逆徒誅伐の謀を廻らす。光秀此由を聞て、使を以て光秀に一味たらんには、近江半國を與ふべしと申來りけれども、曾て同心せず、使再三に及びしかども、罵り返して對面にだも及ばず。光秀去らばとて、先づ日野城に向はんとす。斯る所に信孝が勢、攝津より攻上り、光秀忽ち討れけり。氏郷、北畠信雄の供して都に一登りしに、秀吉、氏郷が、此度の振廻を深く感じ、明智に黨せし當國の國人等が闕所の地、蒲生にぞ付けられける。 ○十一年、秀吉、信孝と不快の事起り、四月柴田勝家を亡ぼし、八月瀧川一益が龜山城を陷る。氏郷、秀吉に屬して功あり。此勸賞として龜山を賜ふ。氏郷畏て申す樣、龜山は關氏累代傳領の地なれば、失はしむること不便なり、哀れ、右兵衞佐一政に返し賜はらばやと望みしかば、秀吉去らば、汝の望みに任せよとて、一政にぞ下し賜ひける。關は氏郷が緣ある者なり。
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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 評・逸話は人物の計器秀吉に毒殺されたなど云ふことは、嘘である。恐らく、(限あれば)の歌があるために、生じたデマである。しかし、信長取り立ての大名だし、大志雄略があるのだから秀吉に多少烟たがられたことは、たしかである。個人的武勇に秀れ、いつも陣頭に立つて奮戰したと云ふ點では、黑田長政などと同じである。しかし、才幹と云ひ、大志と云ひ、また文事と云ひ、長政などよりは、はるかに秀れてゐる。舊主の子孫に對して、その刀を持つて陪從したと云ふのも、優にやさしき振舞だ。わづか、四十で死んだのは、いかにも惜しい。もつと生きてゐたならば、關ケ原の役などでは、天下の形勢にも影響のある一大勢力であつたゞらう。 家臣西村と角力を取る話は、可なり知られてゐる美談であるが、(十萬石吳れたら一人子を捨てろ)と云ふ言葉を聽いて、急に不興になる點など、氏鄕などの爲人を示して甚だ面白い。 その人の美談、逸話は、その人物を示す、計器そのものである。
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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 家風の偏りと和歌○氏鄕曰く、今何の某の家風は和にして恩を貴ぶ、其士多く柔弱なり、義に感じ禮を知る者餘りありて、勇猛の士寡し、又何の某の家風は凜々と締り、武道の心掛け能く、手强き士多くして、義に感じ禮を知る者寡し、兩家互に失あり、譬へば、春夏は萬物盛長の時なれども、病に感ずる者多く、物腐り易く虫蛆を生ずるが如し、是れ恩を貴ぶの失なり。又秋冬は木葉衰枯する時なれども、物の成熟すること多し、其家風の縮りたるに似たり。春夏秋冬一偏に傾かざる樣に家風を正すを、主將の器と言ふべしと。 ○氏鄕、平生武職を守り、聊も怠らず。日夜家臣を集めて武道を琢磨し、明日の合戰に、其言に違はず働くことを專一とせい、家に財を蓄ろことなく、智士勇者を諸方より招て財祿を與へ、死を與に爲さんことを欲する故、天下の名士多く歸屬せり。之に依り秀吉、奧州の鎭壓とはせられけり。凡そ祿百餘萬石に充れども、臺所間々失食のことありて、家臣の徒より交々之を養ひしことありしとぞ。 ○氏鄕曰く、『雲は皆、拂ひ果てたる、秋風を、松に殘して、月をこそ見れ』。又『月澄みて、雲皆空に、消果てゝ、深山隱くれを、行く嵐哉』。此二首の和歌は軍法の心得に、大將たる者味ふべきなりと。 ○氏鄕、夜話には怪談を好めり。又武邊の話になりては、退屈せぬものなりとて、蠟燭二挺を限りに、夜話の者退出す、夏の夜は蠟燭を短く剪て風所に燈し置かれけり。