名将言行録 / 『名将言行録』蒲生氏郷 先頭に立つ主将
○氏鄕、諸士を饗應せし時、自ら頭を包みて風呂の火を焚れしとぞ。 ○氏鄕、常に諸隊將に謂て曰く、主將として衆人を戰場に使ふには、唯掛れ〱とのみ指麾しては掛らざるものなり、掛れと思ふ所には、主將自ら其場に至て、是所に來れと言へば、主將を見捨る者はあらざるなり、自身は後に居て唯衆にのみ掛らしめんとするとも、掛ることはなきものなりと。 ○氏鄕、初陣の時より、銀の鯰尾の冑を戴き、常に先陣に進みたり。之に依り新に仕ふる者あれば、氏鄕之に逢ひ、我旗本に銀の鯰尾の冑を戴き先陣に進む者あり、此者に劣らず働くべしと言はる。新進の士誰ならんと思ひつゝ居ろ中に、陣の沙汰あり、戰に臨みて之を見れば、氏鄕なり。 ○秀吉、前にて氏鄕及び家康、利家、秀吉、輝元抔談話の時、秀吉曰く、譬へば只今織田上總介に、兵五千、蒲生に兵一萬付て合戰させんに、何方へ附申さるべきとなり、何れも返答出來兼ねたり。其時、秀吉、某は上總介に附くべし、其故は蒲生方より冑付の首五つ取りたる程ならば、其內に氏鄕の首あるべし、上總介方は四千九百人まで討取られたるにても、上總介は討死致さるまじ、然らば大將の早く討取られたる方こそ、大なる負なれ、と言はれけり。氏鄕は早やり過ぎたる故、斯の如き物語申されしとぞ。 ○氏鄕、陣屋にては、諸侍に博奕を許ろし致さしめたり。是は陣屋にて番を勤むる者眠り易きを以てなりとぞ。
新字:○氏郷、諸士を饗応せし時、自ら頭を包みて風呂の火を焚れしとぞ。 ○氏郷、常に諸隊将に謂て曰く、主将として衆人を戦場に使ふには、唯掛れ〱とのみ指麾しては掛らざるものなり、掛れと思ふ所には、主将自ら其場に至て、是所に来れと言へば、主将を見捨る者はあらざるなり、自身は後に居て唯衆にのみ掛らしめんとするとも、掛ることはなきものなりと。 ○氏郷、初陣の時より、銀の鯰尾の冑を戴き、常に先陣に進みたり。之に依り新に仕ふる者あれば、氏郷之に逢ひ、我旗本に銀の鯰尾の冑を戴き先陣に進む者あり、此者に劣らず働くべしと言はる。新進の士誰ならんと思ひつゝ居ろ中に、陣の沙汰あり、戦に臨みて之を見れば、氏郷なり。 ○秀吉、前にて氏郷及び家康、利家、秀吉、輝元抔談話の時、秀吉曰く、譬へば只今織田上総介に、兵五千、蒲生に兵一万付て合戦させんに、何方へ附申さるべきとなり、何れも返答出来兼ねたり。其時、秀吉、某は上総介に附くべし、其故は蒲生方より冑付の首五つ取りたる程ならば、其内に氏郷の首あるべし、上総介方は四千九百人まで討取られたるにても、上総介は討死致さるまじ、然らば大将の早く討取られたる方こそ、大なる負なれ、と言はれけり。氏郷は早やり過ぎたる故、斯の如き物語申されしとぞ。 ○氏郷、陣屋にては、諸侍に博奕を許ろし致さしめたり。是は陣屋にて番を勤むる者眠り易きを以てなりとぞ。
書き下し
○氏鄕、諸士を饗應せし時、自ら頭を包みて風呂の火を焚れしとぞ。 ○氏鄕、常に諸隊將に謂て曰く、主將として衆人を戰場に使ふには、唯掛れ〱とのみ指麾しては掛らざるものなり、掛れと思ふ所には、主將自ら其場に至て、是所に來れと言へば、主將を見捨る者はあらざるなり、自身は後に居て唯衆にのみ掛らしめんとするとも、掛ることはなきものなりと。 ○氏鄕、初陣の時より、銀の鯰尾の冑を戴き、常に先陣に進みたり。之に依り新に仕ふる者あれば、氏鄕之に逢ひ、我旗本に銀の鯰尾の冑を戴き先陣に進む者あり、此者に劣らず働くべしと言はる。新進の士誰ならんと思ひつゝ居ろ中に、陣の沙汰あり、戰に臨みて之を見れば、氏鄕なり。 ○秀吉、前にて氏鄕及び家康、利家、秀吉、輝元抔談話の時、秀吉曰く、譬へば只今織田上總介に、兵五千、蒲生に兵一萬付て合戰させんに、何方へ附申さるべきとなり、何れも返答出來兼ねたり。其時、秀吉、某は上總介に附くべし、其故は蒲生方より冑付の首五つ取りたる程ならば、其內に氏鄕の首あるべし、上總介方は四千九百人まで討取られたるにても、上總介は討死致さるまじ、然らば大將の早く討取られたる方こそ、大なる負なれ、と言はれけり。氏鄕は早やり過ぎたる故、斯の如き物語申されしとぞ。 ○氏鄕、陣屋にては、諸侍に博奕を許ろし致さしめたり。是は陣屋にて番を勤むる者眠り易きを以てなりとぞ。
現代語訳
氏郷が諸士を饗応したとき、自ら頭を包んで風呂の火をたいたという。 氏郷はいつも隊将たちに言った。主将として人々を戦場で使うには、ただ掛かれ掛かれと指揮するだけでは掛からないものである。掛かれと思う所には、主将自らその場に至って、ここへ来い、と言えば、主将を見捨てる者はいない。自分は後ろにいて、ただ人々にだけ掛からせようとしても、掛かることはないものだ、と。 氏郷は、初陣のときから、銀の鯰尾の兜をかぶり、常に先陣に進んだ。このため、新しく仕える者があれば、氏郷はその者に会い、私の旗本に、銀の鯰尾の兜をかぶって先陣に進む者がいる。この者に劣らず働け、と言った。新参の士は誰だろうと思ううちに、出陣の命が出て、戦場でこれを見ると、氏郷であった。 秀吉の前で、氏郷及び家康、利家、輝元などが談話していたとき、秀吉が言った。たとえば今、織田上総介に兵五千、蒲生に兵一万を付けて合戦させるなら、どちらにつくか、と。誰も返答に窮した。その時、秀吉が、私は上総介につくだろう。その理由は、蒲生方から兜をつけた首が五つ取れたなら、その中に氏郷の首があるはずだ。上総介方は四千九百人まで討たれても、上総介は討死しないだろう。とすれば、大将が早く討たれた方が大きな負けである、と言った。氏郷は早やりが過ぎたので、このような話をされたのだという。 氏郷は陣屋では、侍たちに博奕を許して行わせた。これは陣屋で番を務める者が眠りやすいからだという。
解説

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