名将言行録 / 『名将言行録』細川忠興 福島と池田の仲裁
○岐阜の役、一番乘は池田輝政なり。福島正則甚だ腹立し、今度は我等に先手を命ぜられしに池田が者共旗を投げ入れ、一番になりしこと無念のことなり、旗を投げて功名にならば、何程も旗を投ぐべきと言ふ。其時軍監たる井伊直政、本多忠勝、正則の氣色を見て、池田が一番乘り致されしとて、左のみ功名にもあらず、又貴殿の遅きとて、ひげにあらず、其故は池田事、此所の案内者なれば、地利に巧者なる故なり、其上城弱くして、槍を合はする者もなければ何の働きもなく、功名とも申べき樣なしと申しゝ故、正則少し顏色和ぎける所へ輝政方より、正則へ使を以て申越しけるは、今日の一戰滑りなく城を乘取りしこと、御同前に大悦たるべくとなり、正則取次の者に申すは、池田が其口上の口へ、糞を喰へと言ふ。取次も氣の毒に思ひしや、聞かぬ振りして、又御返事はと申に、正則又始の通申しゝ故、取次も立んとせし時、側に忠興居て、池田が使者をば、切て捨んと言ふ。正則何とて使者をば切るべき、彼者に科なしと言ふ。忠興否々只今貴殿の返事を其儘使の者歸りて申さば、池田定めて堪忍すべからず、忽ち貴殿と喧嘩出來すべし、然る時は天下分け目の合戰なるに、其事は脇になり、内府の御爲め然るべからずと申しゝかば、正則も理に折れて、成程尤もなり、如何樣とも貴殿宜き樣にとのこと故、忠興立出て、輝政が使者に申すは、仰越さるゝ如く、今日の合戰首尾能く落城致し、大悦御同前に存候、御手柄のこと、今に始めざること、感入候、委細は面談の節申述ぶべくとの返事にて、事なく濟みたり。是全く忠興の扱ひ宜き故なりと言あへり。
新字:○岐阜の役、一番乗は池田輝政なり。福島正則甚だ腹立し、今度は我等に先手を命ぜられしに池田が者共旗を投げ入れ、一番になりしこと無念のことなり、旗を投げて功名にならば、何程も旗を投ぐべきと言ふ。其時軍監たる井伊直政、本多忠勝、正則の気色を見て、池田が一番乗り致されしとて、左のみ功名にもあらず、又貴殿の遅きとて、ひげにあらず、其故は池田事、此所の案内者なれば、地利に巧者なる故なり、其上城弱くして、槍を合はする者もなければ何の働きもなく、功名とも申べき様なしと申しゝ故、正則少し顔色和ぎける所へ輝政方より、正則へ使を以て申越しけるは、今日の一戦滑りなく城を乗取りしこと、御同前に大悦たるべくとなり、正則取次の者に申すは、池田が其口上の口へ、糞を喰へと言ふ。取次も気の毒に思ひしや、聞かぬ振りして、又御返事はと申に、正則又始の通申しゝ故、取次も立んとせし時、側に忠興居て、池田が使者をば、切て捨んと言ふ。正則何とて使者をば切るべき、彼者に科なしと言ふ。忠興否々只今貴殿の返事を其儘使の者帰りて申さば、池田定めて堪忍すべからず、忽ち貴殿と喧嘩出来すべし、然る時は天下分け目の合戦なるに、其事は脇になり、内府の御為め然るべからずと申しゝかば、正則も理に折れて、成程尤もなり、如何様とも貴殿宜き様にとのこと故、忠興立出て、輝政が使者に申すは、仰越さるゝ如く、今日の合戦首尾能く落城致し、大悦御同前に存候、御手柄のこと、今に始めざること、感入候、委細は面談の節申述ぶべくとの返事にて、事なく済みたり。是全く忠興の扱ひ宜き故なりと言あへり。
書き下し
○岐阜の役、一番乘は池田輝政なり。福島正則甚だ腹立し、今度は我等に先手を命ぜられしに池田が者共旗を投げ入れ、一番になりしこと無念のことなり、旗を投げて功名にならば、何程も旗を投ぐべきと言ふ。其時軍監たる井伊直政、本多忠勝、正則の氣色を見て、池田が一番乘り致されしとて、左のみ功名にもあらず、又貴殿の遅きとて、ひげにあらず、其故は池田事、此所の案内者なれば、地利に巧者なる故なり、其上城弱くして、槍を合はする者もなければ何の働きもなく、功名とも申べき樣なしと申しゝ故、正則少し顏色和ぎける所へ輝政方より、正則へ使を以て申越しけるは、今日の一戰滑りなく城を乘取りしこと、御同前に大悦たるべくとなり、正則取次の者に申すは、池田が其口上の口へ、糞を喰へと言ふ。取次も氣の毒に思ひしや、聞かぬ振りして、又御返事はと申に、正則又始の通申しゝ故、取次も立んとせし時、側に忠興居て、池田が使者をば、切て捨んと言ふ。正則何とて使者をば切るべき、彼者に科なしと言ふ。忠興否々只今貴殿の返事を其儘使の者歸りて申さば、池田定めて堪忍すべからず、忽ち貴殿と喧嘩出來すべし、然る時は天下分け目の合戰なるに、其事は脇になり、内府の御爲め然るべからずと申しゝかば、正則も理に折れて、成程尤もなり、如何樣とも貴殿宜き樣にとのこと故、忠興立出て、輝政が使者に申すは、仰越さるゝ如く、今日の合戰首尾能く落城致し、大悦御同前に存候、御手柄のこと、今に始めざること、感入候、委細は面談の節申述ぶべくとの返事にて、事なく濟みたり。是全く忠興の扱ひ宜き故なりと言あへり。
現代語訳
○岐阜の役で、一番乗りは池田輝政でした。福島正則はたいそう腹を立て、「今度は我らに先手を命じられたのに、池田の者どもは旗を投げ入れて一番になった。無念のことだ。旗を投げて功名になるなら、いくらでも旗を投げよう」と言いました。そのとき軍監の井伊直政・本多忠勝は、正則の様子を見て、「池田が一番乗りをしたからといって、さほど功名ではない。また貴殿が遅れたからといって、不名誉ではない。その訳は、池田はこのあたりの案内者で、地の利に詳しいからだ。そのうえ城は弱くて、槍を合わせる者もなく、何の働きもないので、功名というほどのことはない」と申したので、正則は少し顔色が和らいだところへ、輝政の方から正則へ使いをもって申してきました。「今日の一戦は、滑りなく城を乗っ取ることができました。ご同様に大いに悦ばしいことでしょう」と。正則は取り次ぎの者に、「池田の言うその口上の口へ、糞でも食らえと言え」と言いました。取り次ぎも気の毒に思ったのか、聞かぬふりをして、「また、お返事は」と言ったので、正則はまたはじめのとおり言ったので、取り次ぎが立とうとしたとき、そばに忠興がいて、「池田の使者は切って捨てよう」と言いました。正則は、「どうして使者を切るのか。あの者に罪はない」と言いました。忠興は、「いやいや、ただ今の貴殿の返事をそのまま使いの者が帰って申せば、池田はきっと我慢できず、たちまち貴殿と喧嘩になるでしょう。そうなれば天下分け目の合戦のときに、そのことは脇になり、内府(家康)のためによくありません」と申したので、正則も理に折れ、「なるほどもっともだ。どのようにでも貴殿のよいように」とのことだったので、忠興が出て、輝政の使者に、「仰せのとおり、今日の合戦は首尾よく落城し、大いに悦ばしいことはご同様に存じます。お手柄のことは今に始まったことではなく、感じ入っております。詳しくは面談の際に申し述べます」と返事をして、事なく済みました。これは全く忠興の取りなしがよかったからだと言い合いました。
解説

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