名将言行録 / 『名将言行録』福島正則 家臣の首をめぐる抗議
○此役終て後、家康、近江草津の宿に至りし所、京中物靜かならずと聞えし故、狼藉を靜めんが爲めに、正則等をして、都に上せらる。正則の士、佐久間佐左衞門、使の用事ありて、後に下りて馳行きしに、日岡の關を過ぐるとて、番の者と口論のことありしが己が主に追付て事終て後、身の暇賜はり引返して、彼者と戰死せんとて事の樣を申す、正則馬打立て之を聞き、以の外氣色損じ、漸々ありて後、天晴汝は主の使なればとて、耻忍びて歸り參り、身の暇賜はりて後、大勢に向つて戰死せんと思ふ、神妙の至なり。正則思ふ仔細あり、我に從て來れとて、都に引具し、彼士を召て、汝一定死せんと思ふや、仰にや及ぶべきと答ふ、去らば夫にて腹切れ、正則が身汝に代りて德川殿より彼關守らせられし伊奈が首取て汝に手向んずものをとて、首打落し、伊奈圖書助今成が許に贈り正則が士伊奈殿を恨み申べきことありとて腹切りぬ、御實檢の爲め彼首を參らす、其意を得らるべく候と言ふ、今成、其使に事の樣を聞き、我手の者に問ふにこそ斯る事ありしとは初めて知てけれ、仰承はりぬとて、使を返す。井伊直政、本多忠勝等相議して、番の者六人が首切て贈りけり。正則彌々怒に堪へず、首悉く打返して、凡そ天下の人、貴あり、賤あり、貴は賤に同じからず、誰か之を知らざるべき。正則が士の首參らする所に賜ふ所の首は悉く足輕の者とぞ見えける。其品尤も齊しからず、正則身不肖には侍れども、德川殿の御方として、御先を驅け隨分の微功を顯はせしこと、全く正則一身の功にあらず、是則ち家子郞黨等が命を捨て、身を顧みざりしに依てなり。夫に今正則が士を以て、御手に屬せし足輕に准ぜられし所、正則天下に於て面目を失ひ候ひぬ。又正則が參らせし所、士の首只一つ、報ひ賜はらん所の首多きことを望み申にあらず、是等の首賜はらんこと其詮なし、速に返し參らするとぞ申ける。
新字:○此役終て後、家康、近江草津の宿に至りし所、京中物静かならずと聞えし故、狼藉を静めんが為めに、正則等をして、都に上せらる。正則の士、佐久間佐左衛門、使の用事ありて、後に下りて馳行きしに、日岡の関を過ぐるとて、番の者と口論のことありしが己が主に追付て事終て後、身の暇賜はり引返して、彼者と戦死せんとて事の様を申す、正則馬打立て之を聞き、以の外気色損じ、漸々ありて後、天晴汝は主の使なればとて、耻忍びて帰り参り、身の暇賜はりて後、大勢に向つて戦死せんと思ふ、神妙の至なり。正則思ふ仔細あり、我に従て来れとて、都に引具し、彼士を召て、汝一定死せんと思ふや、仰にや及ぶべきと答ふ、去らば夫にて腹切れ、正則が身汝に代りて徳川殿より彼関守らせられし伊奈が首取て汝に手向んずものをとて、首打落し、伊奈図書助今成が許に贈り正則が士伊奈殿を恨み申べきことありとて腹切りぬ、御実検の為め彼首を参らす、其意を得らるべく候と言ふ、今成、其使に事の様を聞き、我手の者に問ふにこそ斯る事ありしとは初めて知てけれ、仰承はりぬとて、使を返す。井伊直政、本多忠勝等相議して、番の者六人が首切て贈りけり。正則弥々怒に堪へず、首悉く打返して、凡そ天下の人、貴あり、賤あり、貴は賤に同じからず、誰か之を知らざるべき。正則が士の首参らする所に賜ふ所の首は悉く足軽の者とぞ見えける。其品尤も斉しからず、正則身不肖には侍れども、徳川殿の御方として、御先を駆け随分の微功を顕はせしこと、全く正則一身の功にあらず、是則ち家子郎党等が命を捨て、身を顧みざりしに依てなり。夫に今正則が士を以て、御手に属せし足軽に准ぜられし所、正則天下に於て面目を失ひ候ひぬ。又正則が参らせし所、士の首只一つ、報ひ賜はらん所の首多きことを望み申にあらず、是等の首賜はらんこと其詮なし、速に返し参らするとぞ申ける。
書き下し
○此役終て後、家康、近江草津の宿に至りし所、京中物靜かならずと聞えし故、狼藉を靜めんが爲めに、正則等をして、都に上せらる。正則の士、佐久間佐左衞門、使の用事ありて、後に下りて馳行きしに、日岡の關を過ぐるとて、番の者と口論のことありしが己が主に追付て事終て後、身の暇賜はり引返して、彼者と戰死せんとて事の樣を申す、正則馬打立て之を聞き、以の外氣色損じ、漸々ありて後、天晴汝は主の使なればとて、耻忍びて歸り參り、身の暇賜はりて後、大勢に向つて戰死せんと思ふ、神妙の至なり。正則思ふ仔細あり、我に從て來れとて、都に引具し、彼士を召て、汝一定死せんと思ふや、仰にや及ぶべきと答ふ、去らば夫にて腹切れ、正則が身汝に代りて德川殿より彼關守らせられし伊奈が首取て汝に手向んずものをとて、首打落し、伊奈圖書助今成が許に贈り正則が士伊奈殿を恨み申べきことありとて腹切りぬ、御實檢の爲め彼首を參らす、其意を得らるべく候と言ふ、今成、其使に事の樣を聞き、我手の者に問ふにこそ斯る事ありしとは初めて知てけれ、仰承はりぬとて、使を返す。井伊直政、本多忠勝等相議して、番の者六人が首切て贈りけり。正則彌々怒に堪へず、首悉く打返して、凡そ天下の人、貴あり、賤あり、貴は賤に同じからず、誰か之を知らざるべき。正則が士の首參らする所に賜ふ所の首は悉く足輕の者とぞ見えける。其品尤も齊しからず、正則身不肖には侍れども、德川殿の御方として、御先を驅け隨分の微功を顯はせしこと、全く正則一身の功にあらず、是則ち家子郞黨等が命を捨て、身を顧みざりしに依てなり。夫に今正則が士を以て、御手に屬せし足輕に准ぜられし所、正則天下に於て面目を失ひ候ひぬ。又正則が參らせし所、士の首只一つ、報ひ賜はらん所の首多きことを望み申にあらず、是等の首賜はらんこと其詮なし、速に返し參らするとぞ申ける。
現代語訳
この役が終わったあと、家康が近江草津の宿に着いたとき、京中が穏やかでないと聞こえたので、乱暴を鎮めるために、正則らが都へ上らされた。正則の士、佐久間佐左衛門は、使いの用事があって、後から下って馳せ行く途中、日岡の関を通るとき、番の者と口論があった。己の主に追いつき、用事が済んだあと、暇を賜って引き返し、その者と戦死しようと思います、と事の次第を申した。正則は馬を止めてこれを聞き、もってのほか気色を損じ、しばらくあって、あっぱれ、おまえは主の使いであるからといって、恥を忍んで帰り参り、暇を賜ってから大勢に向かって戦死しようと思う。神妙の至りだ。正則に考えがある、我に従って来い、と言って都に連れ、その士を召して、おまえは必ず死ぬつもりか、と言うと、仰せるまでもありません、と答えた。それならばそれで腹を切れ、正則が身をおまえに代えて、徳川殿より関を守らせられた伊奈の首を取って、おまえに手向けよう、と言って首を打ち落とし、伊奈図書助今成のもとへ贈り、正則の士が伊奈殿を恨み申すべきことがあるとして腹を切りました、ご実検のためその首を差し上げます、その意を汲まれたい、と言わせた。今成は、その使いに事の次第を聞き、我が手の者に問うてこそ、このようなことがあったと初めて知りました、仰せ承りました、と言って使いを返した。井伊直政、本多忠勝らは相談して、番の者六人の首を切って贈った。正則はいよいよ怒りに堪えず、首をことごとく打ち返して、およそ天下の人には貴賤があり、貴は賤と同じではない、誰がこれを知らないでいよう。正則の士の首を差し上げたところに、賜るところの首はことごとく足軽の者と見える。その品は少しも等しくない。正則は不肖の身ではございますが、徳川殿の味方として、先陣を駆け、随分と微功を現したことは、全く正則一身の功ではなく、これ家子郎党らが命を捨て、身を顧みなかったことによるのです。それなのに、いま正則の士を、御手に属する足軽に准じられたことで、正則は天下に面目を失いました。また正則が差し上げたのは、士の首ただ一つ、報いを賜りたいのは多くの首を望んでのことではありません。これらの首を賜ることは意味がありません、速やかに返し参らせます、と申した。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
史記 傅靳蒯成列伝凡そ首を斬ること九十級、虜百三十二人。別れて軍を破ること十四、城を降すこと五十九、郡・国を定むること各一、県二十三。王・柱国各一人、二千石以下五百石に至るまで三十九人を得たり。高后の五年、歙卒し、謚して粛侯と為す。子亭代はりて侯たり。二十一年、国人を事とすること律を過ぐるに坐し、孝文の後三年、侯を奪はれ、国除かる。
-
『韓非子』飭令第五十三民に餘食有れば、粟を以て爵を出ださしむ、必ず其の力を以てすれば、則ち農怠らず。三寸の管も當毋ければ、滿たすべからざるなり。官爵を授け、利禄を出だすに功を以てせざるは、是れ當無きなり。國功を以て官と爵とを授くる、此れを以て智謀を成し、威勇を以て戰ふと謂ふ、其の國敵無し。國功を以て官と爵とを授くれば、則ち治むる者省かれ、言塞がる有り、此れを治を以て治を去り、言を以て言を去り、功を以て爵を與ふる者と謂ふなり。故に國力多くして、天下之を能く侵す莫きなり。兵出づれば必ず取り、取れば必ず能く之を有ち、兵を案じて攻めざれば必ず富む。朝廷の事、小なる者も毁たず、功を效して官爵を取れば、廷に辟言有りと雖も、以て相干すを得ざるなり、是れを數を以て治むと謂ふ。力を以て攻むる者は、一を出だして十を取り、言を以て攻むる者は、十を出だして百を喪ふ。國力を好む、此れを難を以て攻むと謂ふ。國言を好む、此れを易を以て攻むと謂ふ。
-
史記 李斯列伝趙高斯を治め、榜掠すること千余、痛みに勝へず、自ら誣服す。斯の死せざる所以の者は、自ら其の弁を負み、功有り、実に反心無く、幸ひに書を上りて自ら陳ぶるを得て、二世の寤めて之を赦さんことを幸ひとすればなり。李斯乃ち獄中より書を上りて曰く、「臣丞相と為りて民を治むること、三十余年なり。秦の地の狭隘なるに逮ぶ。先王の時秦の地は千里に過ぎず、兵は数十万。臣薄材を尽くし、謹んで法令を奉じ、陰かに謀臣を行らしめ、之に金玉を資し、諸侯に游説せしめ、陰かに甲兵を修め、政教を飾り、闘士を官にし、功臣を尊び、其の爵禄を盛んにす。故に終に以て韓を脅かし魏を弱め、燕・趙を破り、斉・楚を夷げ、卒に六国を兼ね、其の王を虜にし、秦を立てて天子と為す。罪の一なり。地広からざるに非ざるも、又北のかた胡・貉を逐ひ、南のかた百越を定め、以て秦の彊を見す。罪の二なり。大臣を尊び、其の爵位を盛んにし、以て其の親を固くす。罪の三なり。社稷を立て、宗廟を修め、以て主の賢を明らかにす。罪の四なり。剋画を更め、斗斛度量文章を平らかにし、之を天下に布き、以て秦の名を樹つ。罪の五なり。馳道を治め、游観を興し、以て主の意を得たるを見す。罪の六なり。刑罰を緩め、賦斂を薄くし、以て主の衆を得るの心を遂げ、万民主を戴き、死すとも忘れず。罪の七なり。斯の若き臣為る者は、罪死するに足ること固より久し。上幸ひに其の能力を尽くさしめ、乃ち今に至るを得たり。願はくは陛下之を察せよ」と。書上る。趙高吏をして棄て去りて奏せざらしめて曰く、「囚安くんぞ書を上るを得ん」と。
-
史記 傅靳蒯成列伝陽陵侯傅寛は、魏の五大夫の騎将を以て従ひ、舎人と為り、横陽に起つ。従ひて安陽・杠里を攻め、趙賁の軍を開封に撃ち、及び楊熊を曲遇・陽武に撃ち、首を斬ること十二級、爵卿を賜はる。従ひて霸上に至る。沛公立ちて漢王と為るや、漢王寛に封号共徳君を賜ふ。従ひて漢中に入り、遷りて右騎将と為る。従ひて三秦を定め、食邑雕陰を賜はる。従ひて項籍を撃ち、懐に待ち、爵通徳侯を賜はる。従ひて項冠・周蘭・龍且を撃ち、将ゐる所の卒騎将一人を敖下に斬り、食邑を益す。淮陰に属し、斉の歴下の軍を撃破し、田解を撃つ。相国参に属し、博を残し、食邑を益す。因りて斉の地を定め、符を剖きて世世絶ゆること勿からしめ、封ぜられて陽陵侯と為る、二千六百戸、前に食む所を除く。斉の右丞相と為り、斉に備ふ。五歳にして斉の相国と為る。四月、陳豨を撃ち、太尉勃に属し、相国を以て丞相噲に代はりて豨を撃つ。一月、徙りて代の相国と為り、屯を将ゐる。二歳にして、代の丞相と為り、屯を将ゐる。孝恵の五年卒し、謚して景侯と為す。子頃侯精立ち、二十四年にして卒す。子共侯則立ち、十二年にして卒す。子侯偃立ち、三十一年、淮南王と謀反するに坐して死し、国除かる。信武侯靳歙(きんきゅう)は、中涓を以て従ひ、宛朐に起つ。済陽を攻む。李由の軍を破る。秦の軍を亳の南・開封の東北に撃ち、騎の千人将一人を斬り、首五十七級、捕虜七十三人、爵封号臨平君を賜はる。又藍田の北に戦ひ、車司馬二人・騎長一人を斬り、首二十八級、捕虜五十七人。霸上に至る。沛公立ちて漢王と為るや、歙に爵建武侯を賜ひ、遷りて騎都尉と為す。従ひて三秦を定む。別れて西のかた章平の軍を隴西に撃ち、之を破り、隴西の六県を定め、将ゐる所の卒車司馬・
-
『呻吟語』外篇・治道・尸位素餐の四字を逃れ得ず財を傷らず、民を害せざるは、只だ是れ虐を為さざるのみ。苟しくも官を設けて惟だ之を虐ぐるを慮らば、官を設けずんば其れ誰か之を虐げん。正に家給し人足り、風移り俗易はり、利を興し害を除き、危を轉じて安に就くが為のみ。設し廉靜寡慾にして、分毫も民に損する無きも、萬事廢弛して、分毫も民に益する無くんば、尸位素餐の四字を逃れ得ず。
-
史記 晋世家楚に居ること数月、而して晋の太子圉秦より亡ぐ。秦之を怨む。重耳の楚に在るを聞き、乃ち之を召す。成王曰く、「楚は遠く、数国を更て乃ち晋に至る。秦・晋は境を接し、秦君は賢なり。子其れ勉めて行け」と。厚く重耳を送る。重耳秦に至る。繆公宗女五人を以て重耳に妻す。故の子圉の妻も与に往く。重耳受くるを欲せず。司空季子曰く、「其の国すら且に伐たんとす。況んや其の故の妻をや。且つ受けて以て秦の親を結びて入らんことを求む。子乃ち小礼に拘はりて、大醜を忘れんか」と。遂に受く。繆公大いに歓び、重耳と飲む。趙衰黍苗の詩を歌ふ。繆公曰く、「子の急ぎ国に反らんと欲するを知る」と。趙衰重耳と下り、再拝して曰く、「孤臣の君を仰ぐは、百穀の時雨を望むが如し」と。是の時晋の恵公の十四年の秋なり。恵公九月を以て卒し、子圉立つ。十一月、恵公を葬る。十二月、晋国の大夫欒・郤等重耳の秦に在るを聞き、皆陰かに来たりて重耳・趙衰等に国に反らんことを勧む。内応を為す者甚だ衆し。是に於て秦の繆公乃ち兵を発して重耳と晋に帰る。晋秦の兵の来たるを聞き、亦た兵を発して之を拒む。然れども皆陰かに公子重耳の入るを知る。唯だ恵公の故の貴臣呂・郤の属のみ重耳を立つるを欲せず。重耳出亡すること凡そ十九歳にして入るを得たり。時に年六十二なり。晋人多く焉に附く。文公の元年春、秦重耳を送りて河に至る。咎犯曰く、「臣君に従ひて天下を周旋し、過ちも亦た多し。臣すら猶ほ之を知る。況んや君に於てをや。請ふ此より去らん」と。重耳曰く、「若し国に反りて、子犯と共にせざる所の者は、河伯之を視よ」と。乃ち璧を河中に投じ、以て子犯と盟ふ。是の時介子推従ひて、船中に在り。乃ち笑ひて曰く、「天実に公子を開く。而して子犯以て己の功と為して君に要市す。固より羞づるに足る。吾同位するに忍びず」と。乃ち自ら隠れて河を渡る。秦の兵令狐を囲み、晋廬柳に軍す。